3、「それと、筋トレ、逆立ち、ナンパ」
よく朝も快晴だった。
あたしはまたベッドの上で逆立ちをしている。
盗聴も盗撮もされていない。自分から行くと言ったから、今日は滝本も何もしないだろう。
あたしには選択肢が二つある。
1、逃げる
2、残ってあの男に会いに行く
逆立ちをしながら窓から見える空を眺めた。相変わらず神様も天使もお釈迦様も見えない。
空中の塵が青を反射して真っ青な天井を作っている。きっと上空は風も強くて、物事の変化も早いのだろう。
あたしはラベンダーのお香の匂いを吸い込んだ。
逆立ちをやめて、身支度にうつる。
髪の毛を頭の上高い場所でポニーテールにした。ブルージーンズに白いTシャツというシンプルな格好でボディバッグを持つ。
そして家を出発した。
ぶらぶらと歩く。相変わらずの人ごみで、今日も街は動いている。あたしはつい前を歩く男の財布をチェックしてしまう。
指が体の横でもぞもぞと動くのを、意識して止めた。
少なくとも、今月はもうお金は必要ない。夏になったし、指はしばらく封印だ。
滝本の調査会社の前まで来て驚いた。
報道陣が何人か立っていて、写真を撮っていた。
ああ、とあたしは合点する。そうか、甲田の奥方はここの調査会社でダンナの浮気を突き止めて貰ったと公表したんだった。それで、取材にきているのか。
優秀だと思って利用する客も増えるのだろう。
そうすれば、ここのメンバーは大忙しだ。
声の大きい誉田さんが何て言っているのかが非常に興味があったけど、こんなに色んな人がいたら入れない。
あたしはため息をついて、先日失敗したビルの入口を見張る場所に滑り込んだ。
そこで待つこと30分。
車が一台ゆっくりと回ってきて、あたしが立っている角で止まった。
運転席から滝本が顔を出した。
「乗れ」
あたしは車を回って、相変わらず雑然とした事務所の車の助手席に乗り込んだ。
「おはよう、すり鉢姫」
「・・・おはよ。凄いことになってるね、事務所」
ハンドルを切ってどこかへ向かいながら滝本が苦笑した。
「宣伝効果はバッチリだ。電話もひっきりなしに掛かってきていて、湯浅が昨日パンクしかけた。だけどビルの前の報道陣は今日中に退いて貰う。あれじゃあ秘密にしたい客が入ってこれない」
・・・まあ、そうだよね。大体大手を振って堂々と頼める調査なんて滅多にないはずだ。
「商売繁盛で何より」
あたしの呟きに滝本は前を見たまま肩をすくめた。
そして後は黙ったまま車を走らせる。
メンバーが何度もあの場所を確認すると言っていたからあたしはあそこに立ったのだ。気付けば出てきてくれるだろうと。それは当たったけど、あたしは今からどこに行くんだろう。
繁華街の入口へと続く国道沿いに車を路駐して、さて、と滝本は振り返った。
「――――――返事を聞こう」
ハンドルに片腕を置いて少し首を傾げた状態であたしを見ていた。
あたしは口の端をきゅっとあげて笑う。
「あなたの仕事を手伝ってもいいわ。でも・・・」
「でも?」
「あなたの下では働かない」
滝本はじっと見詰めた。表情は変わらなかった。
「・・・どういうことか説明を聞こう」
あたしは足を上げて両手で膝を抱えた。
「あたしが必要なことがあれば呼び出して。でも事務所に毎日出勤するなんてごめんよ。あなたの指示以外ではもう指は使わないわ。そしてそれに見合った報酬を貰う。でも、あとは自由でいる」
「―――――・・・今までのように?」
「そう、今までと同じく」
滝本はハンドルを指で叩いて黙っている。考えているのだろう。あたしが出した折衝案を。
やがて口を開いた。
「・・・それでは保険はつけれないぞ」
「要らないわ。あたしが怪我や病気になれば、あなたが助けてくれるんでしょう?」
うん?とあたしを見た。呆れているようだった。
「・・・ずうずうしいな」
「そんなこと知ってたでしょうが」
呆れた顔のままで苦笑した。いきなり人間くさい顔になった。あたしはそれを薄目で見守る。
「それが限界よ。ダメならあたしは日本を出る。あなたのいる国で自由に出来ないなら、居ないところにうつるだけよ」
黙って考えていた。クーラーで冷やされているけど、動いていない車には容赦なく真夏の太陽が落ちてくる。
肌がちりちり焼ける音がするようだった。
「・・・判った」
呟きが聞こえた。
あたしは右隣を横目で見る。
上半身をかたむけてあたしを見ている滝本と目が会った。眼鏡の奥の瞳は相変わらず何も語らない。
「君を、フリーの職人として扱うことにしよう。新しい携帯を会社から出す。用事があればそれで電話する。その度に報酬を払う。怪我をしたら―――――」
口元がほころんだ。
「・・・俺のところに来い」
あたしはにやりと頷いた。
「やった」
やれやれと苦笑した滝本が、それで?と続けた。
「後の暇な時間は何をしてるんだ?」
「あたしは一応ネットで自宅で仕事をしている女ってことになってるの。いい機会だから、ちゃんと学校にでも通ってパソコンを勉強しようかな、と思ってる。それと、筋トレ、逆立ち、ナンパ」
頷いていた滝本が最後のところで止まった。
「・・・そのナンパって何だ?」
「だってあたしには彼氏なんて作れなかったもの。なんせ職業が職業だし。だから、ナンパして、性欲の処理を―――――」
言っている間に隣の男はみるみる機嫌が悪くなったようだ。
全身が凍るような視線を送っている。
「何よ」
「そこまで自由でなくていい」
あたしはぐるんと目を回した。
「だって、一昨日とっても久しぶりにアレをあなたとしちゃったら、気持ちいいものだって判ったもんだから―――――」
「だから」
遮られた。深くて長いため息をついて、滝本があたしを引き寄せた。
「・・・それも俺だけにしとけ」
そしてまたしたのだ。
あの、独占欲丸出しの口付けを。
あたしは唇を合わせながら笑う。
これで、バッチリ。
あたしの素敵な毎日はまたこうやって進んでいく。
今度は正体を隠さないでいい男まで参加することになった。しかも、彼はあたしを天国に連れて行ってくれる。
うふふふ〜と笑っていたら、あたしの額におでこをこすりつけた男が、また長いため息をついた。
車で最寄の駅まで送ってもらう。
明日の朝、あたしはまた岡崎さんのカフェに向かう。
そしていつものようにあの美味しいモーニングを食べて、素晴らしいコーヒーを飲む。
守君やラプンツェル姫や由美ちゃんと笑いながらおしゃべりをする。
そして岡崎さんに報告しようっと。
あたしは、ちゃんと復活しましたよって。
岡崎さんはきっと眩しい笑顔で頷いてくれるだろう。
今までの人生は素敵だった。だけど―――――――
これからの人生も、そう悪くないかもね。
あたしは車の滝本に手を振って、真夏の昼間、歩き出した。
「振り返ったら、君が。〜すり鉢姫・薫〜」完
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