2、「・・・・早く浮き上がっておいで」@
太陽が熱かった。
あたしは汗をダラダラ垂らしながら道を歩いていた。
滝本の言葉が何度も蘇った。
あの男は、あたしを待っていた。
探していたんだ。自分に契機をもたらした少女を。そして、偶然、あたしがカモに選んだ男が滝本だった。
簡単に逃がさないと言った。
手首の痣がそれを示す。あたしは汗を腕で拭って駅の中に入る。
孤独な犯罪者から、世間に混じる社会人になる?このあたしが?そんなことが今更可能?
電車に乗っている間、ぐるぐると回想していた。
滝本が言った言葉に衝撃と温かさを感じたんだった。
だから、彼に言った言葉は心底から出た言葉だった。
あたしは明日、あの会社にあの男に会いに行くんだ。そして、言うんだ。
でも―――――――
あたしはまばたきをして、涙を払った。
・・・・・一体、何て言ったらいいの。
最寄り駅を出て改札をフラフラと通る。
そして、マンションが見える位置まで歩いてから。
道端で、そのまま声も出さずに泣いた。ダラダラと涙が溢れるから、仕方なく手の甲で拭った。
あたしは盗み方は知っている。
逃げ方も知っている。
良心の殺し方だって、知っているんだ。
でも、人の愛し方なんて知らない。
そんなの学校で習わなかった。
この2本の指を使っても、どうすることも出来ないなんて。
そんな、そんな――――――――・・・・・
ああ・・・どうしよう。本当に困った。あたしは、一体どうすればいいんだろう。
こんなことにはならないはずだったのに。
「・・・畜生」
鼻声だった。
あたしの前に影が出来て、それが人の作る影だと判って、顔を上げるまで、岡崎さんが立っているのに気付かなかった。
「・・・・薫ちゃん、ごめんね」
岡崎さんは困った微笑で謝った。
あたしは鼻をすすって考えた。
・・・どうしてここに岡崎さんがいるんだろう。今日は何曜日だっけ?ええーと・・・月曜日だ。月曜日は、お店開いてるのにな―――――・・・・
「・・・岡崎さん、お店は?」
岡崎さんは、表情を変えないままで答えた。
「今日は第5月曜日なんだよ。だから、お休み」
あたしはぼーっとそれを聞いていた。へえ、第5月曜日は休みだったんだ、って。
「・・・どうして謝るんですか・・?」
あたしの質問に、手を頭にやってかいていた。そしてうーんと唸って、口を開く。
「・・・いやあ、間の悪い時に居合わせちゃったかな、と。泣くのは一人がいい人だっているでしょう」
あたしは笑った。だけど泣きつつだったから、きっと変な笑顔だったと思う。
岡崎さんは少し近寄って、ハンドタオルを差し出す。
「どうぞ。それで、良かったら、話も聞くけど?」
あたしは腕でごしごしとこすった。どうせ、化粧もしてないし。岡崎さんの優しい言葉に心が揺れた。これまた、どうしていいか判らずに途方に暮れた。
「・・・大丈夫です、ありがとうございます」
頭を下げたら、いやいや、と言いながらタオルを鞄に仕舞う。
「薫ちゃんの泣き顔なんて想像もつかなかったな」
岡崎さんの言葉にあたしも頷く。
「・・・泣くの自体が、学生の時・・・高校以来、です、多分」
しかもそれは映画を観てだったと思う。あたしは、本当に泣かない。泣く必要がないからだけど。
「・・・俺は消えた方がいいよね?」
岡崎さんの言葉に顔を上げた。どうなんだろ・・・あたし、居て欲しいのかどうかも判らない。
黙ったままだったのが、余計困らせたらしい。岡崎さんはぽりぽりと顔をひっかいて、そうだ、と呟いた。
「缶コーヒー飲まない?」
「はい?」
「奢り。ちょっと待ってて」
そしてあたしを日陰まで誘導したあと、ぱっと立ち去った。
あたしはぼーっとそのままでいて、岡崎さんが自販機でアイスのコーヒーを買うのを眺めていた。
どうぞ、と手渡されるのを受け取って、ありがとうございます、と返した。
「・・・・あんなに美味しいコーヒーを淹れるのに、缶コーヒー飲むんですね、岡崎さん」
イケメンの男性と日陰でコーヒーを飲んだ。その甘くて舌が震えるほどだった缶コーヒーはあたしの涙を止めた。
岡崎さんは端整な顔で綺麗に笑って、そうなんだ、と言う。
「結構好きなんだよね、缶コーヒー。この甘ったるい感じが、自分では作れないからさ」
美味しいかは別ってことね、と思った。
「・・・何があったかは知らないけど」
岡崎さんが口を開いた。
「笑ってない薫ちゃんは薫ちゃんらしくないな。・・・・早く浮き上がっておいで」
・・・浮き上がれたら・・・いいんだけど・・・。
「今ではどうやってあんなに毎日楽しく過ごしていたのかが判りません」
あたしの言葉に岡崎さんはビックリしたようだった。
相当深刻だね、と言うから、死活問題でして、と答える。
「・・・そんなに?」
「はい。アイデンティティーの喪失です」
まさしく。だって、あたしの今までの生活は全部ひっくりかえるのだ。
警察に捕まるわけじゃない。
むしろ、あたしの正体を知った上で、受け入れてくれると言っているわけで。
だけどそう簡単にハイとは言えない。
それくらいの覚悟で決めたのだ。15歳の時。
あたしは泥棒でいるのが判っている。
そして、泥棒である自覚があるから、今まで無事で来たのだと思っていた。
岡崎さんが隣でぼそっと呟いた。
「・・・俺が男を好きになったと気付いた時と同じなのかな。俺の場合は別に死活問題ってわけじゃあなかったけど」
あたしは缶コーヒーを飲み干して、岡崎さんを見上げた。
相変わらずの優しくて眩しい笑顔で、岡崎さんはあたしを見ていた。
「・・・動揺しましたか?男性を好きになった時」
「―――――そりゃあね」
「でも、突っ走った?」
だって、と彼は笑う。仕方ないでしょう、好きになっちゃったんだから、と。
風が吹いて、汗をかいた肌を冷やした。
セミの声やら車のエンジンの音やらが一緒になってわんわん響いている。あたしは手の中でどんどんぬるくなっていく缶の温度を確かめていた。
岡崎さんは汗を手の平でぬぐって言った。
「相手に嫌がられたら仕様がないけど、たまたま、相手も大丈夫だったんだ。それで付き合えることになった。だけど―――――」
言葉を切って、コーヒーを飲み干す。この話をするのはきっと凄く勇気がいることなんだろうと思った。
弱っているあたしの為に、してくれているんだと。
「・・・だけど、親には言えない恋愛は、辛いね」
苦しかったんだろうなあ、と思った。岡崎さんは、これで多分ずっと苦しんでいくんだなあって。
女の人だって愛せる。だけど、好きになった人が男性だった。人間に惚れたというのは一緒なのに、性別が同じだからという理由で親にも話せない。それは、あたしには判らないけど、きっととっても悲しいことなんだろう。
「・・・彼と一緒にいて幸せなことだけを、思い描いていってください」
あたしの言葉に振り返った。
「うん、ありがとう。あまり考えないようにしているんだ。・・・俺は、大事な店を守って、お客さんに喜んで貰って、それで、好きな人と一緒にいれるんだからこの人生は素晴らしいって思えてる。今は、まだ、かなりの幸福の中にいてると思えるんだ」
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