1、「これからを変えればいいんだ」
予告通り、滝本はさっさとご飯を作り、お風呂に入って、もう少年の頃の面影は一欠けらも見えない実にサッパリとして隙のない大人の男性に戻った。
あたしは彼が作ったご飯を横取りし、彼の後でシャワーを借りて、電話をかけている滝本の横を通り過ぎながら髪の毛をタオルで擦っていた。
「・・・知るか、そんなこと。てめえの尻はてめえで拭え。―――――ああ?こっちに来るハズなんかないだろうが。彼女の賢さは俺なんかよりお前の方が知ってんだろ。―――――もし連絡があったら、お前なんか捨てろと忠告してやる。・・・あ」
あの野郎切りやがった、とケータイを閉じて、あまりの口の汚さにどん引きしているあたしに気付いた。
「・・・さっきの野郎だ。元々アイツはバカだったけど、ますますバカになってきた」
「はあ」
「やっと手に入れた愛しの女神をちゃんと捕まえておけない。なにやってんだか・・・」
ぶつぶつ言いながら、台所へ入っていく。
何だか話が判らないけど、何と口の悪い人たちなんだろうか。あたしは呆れて口があいたままだ。
台所でコーヒーを淹れた滝本が戻ってきて、テレビをつけた。
「そろそろワイドショーが始まる。乞うご期待、だな」
あ、そうだった。甲田氏の件がどうなったのか、あたしは知らない。いそいそとテレビの前に座る。
だけど、いくらIT企業の社長だって、個人の浮気がテレビで流れるものなの?と不思議に思っていたあたしは、やがて始まったお昼のワイドショーを見て、またあんぐりと口を開けてしまった。
レポーターが意地の悪いコメントと共に読み上げたのは、内閣総統府の閣僚の妻とIT企業のワンマン社長とのダブル不倫騒動だった。
「―――――本気で?」
あたしの呟きに、いつものうっすらとした笑みを口元に浮かべ、眼鏡の奥で瞳を細めた滝本が言った。
「そう。俺たちも驚いた。まさか、そんなお相手だったとはな。そりゃ必死で隠すはずだぜ」
あたしが盗ったデータからその後7日間の予定を確認すると、多忙な甲田社長のスケジュールで一箇所だけポンと空いている所があった。
次に女と会うならそこしかない、と調査会社のメンバーは全員体勢で万全の準備をした。
あたしがちょうど病から復活し、世間から引きこもっている間だ。
盗聴器、カメラ、奥方の協力も得てこれ以上は無理だってほどに巧妙にしかけたらしい。
ダンナは重要人物でもその妻は大してガードされていない。だから可能だったのだ、と。
とてつもないスキャンダルになった。これが、特ダネというやつだと。
全員つきっきりで証拠を集め、その日のうちに奥方に報告した。
浮気は相手方にも慰謝料を請求できる。相手が相手だから、動かぬ証拠で法廷を通さずに慰謝料を引き出すという手もあったのだが、奥方の怒りはそれでは収まらなかった。
彼女は何と、その証拠を持って週刊誌に乗り込み、自分のダンナや家庭のプライバシーもろとも道連れにして、情報を公開したのだ。
プライドなんてものがあれば、最初から調査会社には頼まない、と言い切って。
あの男を叩きのめすのが目的なのだから、と。
美しく化粧をして微笑んだ奥方はとても恐ろしかったらしい。
「・・・全く、女ってのは怖い人種だと思ったぜ。あそこまでのことを出来る男がいるものかな、と思うね」
週刊誌は飛びついた。
高値で売れ、調査会社の名前も出て、甲田氏と閣僚の妻は破滅の日を迎えた。
「法廷には出ないの?」
あたしが聞くと、テレビで満足したらしい滝本はリモコンで画面を消してから言った。
「それはこれからだ。メディアを使っての公開処刑は、あくまでも戦う前のゴングの役割だったらしい。それはそれ、これはこれ。これからは奥方は一人の戦いになる。最高の弁護士を手配してくれと言ってきた。こっちはそれでも儲かった」
・・・・なんと、まあ。
あたしは今朝、天国へ連れてってくれるなら〜とか気楽に思ってたけど、やっぱりダメだわ。人間なんだから、理性の支配は喜んで受けなければこんな痛い目に会うんだな。
甲田氏はそれでも、まだ立ち直れるだろう。
大変なのは閣僚の妻の方だ。ダンナの信用まで落ち、議員の存続は難しいだろう。そして世間に出てしまった以上離婚は免れないし、再婚は望めそうにない。実家にも戻れなければ自分の力で稼いでいくしかなくなる。ダンナの面子は丸つぶれ。成り上がり社長に妻を寝取られた議員だと嗤われる。
・・・自殺者、出そうだわ。
「うわあ〜・・・えぐい」
あたしのコメントに、滝本は肩をすくめた。
「この世の中はこんな話ばっかだぞ。本当に裏の世界を知らない犯罪者だな、君は」
「・・・知りたくないわよ」
呆れたため息をつかれた。
「よく生き残ってきたな、今まで」
「あたしは派手なことはしないもの。自分の食い扶持だけしか貰わない」
滝本が、振り返ってあたしを見た。
「――――――・・・それも、もう終わりだ」
声の調子が変わったのに気付いた。
あたしは一瞬で緊張する。
「・・・どういう意味?」
滝本はうっすらと微笑んであたしを見ている。
「そんなに構えるな。俺が存在を知ってしまった以上、君を今までのように自由に泳がせるつもりはないって言ってるんだ」
あたしは立ち上がった。
ゆっくりと玄関に向かって後ずさる。
「・・・・どうするつもり」
長身の男を見上げる。
・・・どういうことだろう。でもあたしは今までみたいに自分の好きには生きられないって言ってるんだろう。それだけは判る。
あたしから、自由をとるなんて―――――――
少しだけ首を傾けて、滝本は眼鏡の奥で目を細めた。
「俺の事務所に来いよ」
あたしは足を止めた。
――――――何だって?
「俺の事務所に、来い」
「・・・あんたの下で働けって言ってるの?」
「その通り」
滝本は両手をズボンのポケットに突っ込んで立ちあがった。
「朝は時間通りに出勤する。社会保険にも入る。家業は廃業しろ。その手癖は俺の会社では有効に使える。それに――――――」
「・・・それに?」
「身分を偽らずに、存在できる。もう透明人間じゃない」
あたしは深呼吸をした。そして彼を見上げる。
「・・・あたしは自分の生活が気に入ってるの」
滝本は表情を変えずにあたしを見ている。深呼吸を繰り返しながら、あたしは言葉を押し出した。
「透明人間でいいの。ずっとそうやって生きて来たの。今更すべてを捨てれないわ」
「・・・捨てる必要はないだろう。これからを変えればいいんだ」
「うるさい。あたしに構わないで」
また一歩下がった。緊張していた。涙が出そうだった。あたしの大事な現実が、壊れかけている。
滝本は何かを考えているようだった。黙ったままでこちらを見ている。
そして、静かな声で言った。
「・・・お前は、負け犬なのか?」
滝本の言葉はまっすぐにあたしの心臓に突き刺さる。ハッとして、一瞬呼吸を忘れた。
これが、仕返しか。
あの日の。
成長したあのマヌケな少年に、大人になったあたしが返された言葉。
ぐっと唇をかみ締める。
「このままで居ればいつまでも透明人間だ。誰とも生活が出来ない。いつまでも一人で、それは死ぬまで変わらない。人生の最後には孤独を煮詰めて固めた一匹の老いたスリ。そうなってもいいのかと聞いているんだ」
足が震えだした。
あたしは目を閉じて集中する。お腹に力を込めて、震えを押さえ込んだ。
犯罪者なのは、よく判ってる。それを今更他人に指摘されなくても、あたしはよく判っている。
親父が出て行った時から一人だった。
大学を出たあとは友達も作らないように何の集団にも属さないようにしてきた。
それはあたしを守るためだった。
あたしの生活。2本のスペシャルな指。人のものを盗ることを教えられた最初の夜。それまでの学校教育での常識が全部覆ったあの夜。
だけど、あたしは親父の手を取った。
まともに生きるか家業を継ぐかは選択権を与えられた。その上で、あたしは親父の手をとったのだ。
『人生に楽な道なんてのはねえが』――――――親父は無表情だった。あたしは頷いた。
『この道は、厳しい上に孤独だ。それでも選ぶんだな』そういった親父に、あたしは頷いたのだ。
そして犯罪者になった。
好きなことを、好きなときに、好きなだけ。あたしはその生き方を変えないから、と。
滝本は黙ってあたしを見ている。返事を待っているんだろうと判った。
「その覚悟をしたから、スリになったのよ」
あたしは顔をあげて真っ直ぐに見た。
「あなたが変わったのは15歳だと言ったわね。あたしも同じよ。中学3年で、この道を選んだ。ずっと一人で来た。失敗したら一人で死ぬ。でもだから、それが一体何だっていうの?」
「・・・変えないってことか?」
「変えないわ」
「無理やり変えさせようか?」
ゆらりと滝本が動いたと思ったら、凄い力であたしを壁に押し付けた。両手を拘束されて壁に叩きつけられ、痛みに声が出る。
あたしは滝本を睨みつけた。
「これでどうやって無理やり変えさせるの?」
全力であたしを拘束しながら、男は不敵に笑った。
「・・・そうだな。組織のスリからフリーのスリが受ける制裁はなんだったっけな?商売道具の指を折るんだよな、確か」
あたしは更に厳しく唇をかみ締める。何を言い出すんだこの男は・・・。
「――――――指を折るって言うの?」
「そしたらスリは廃業せざるを得ねえよな」
低めた声が耳を掠める。
これが昨日あたしを抱いた男のもう一つの顔なのだな、と思った。
目的があれば氷点下のごとく冷徹にもなれるのが。
あたしはゆっくりと口を開く。
「・・・確かに、スリでは無理かもしれない。だけどだからと言ってあたしは変わらない。一人で死ぬのが早まるだけよ。そこまでしてあなたに何のメリットがあるの。どうして放っておかないの」
廊下の電灯で逆光になって、滝本の表情が判らない。だけどいやに静かな声で、彼が言った。
「――――――ずっと探していた女をやっと見つけた。簡単に逃がすと思うか?」
「―――――」
「俺が変わったのは、お前に会ったあの日だ。20年も待って、やっと今、また目の前にいる。そう簡単に離しはしない」
・・・・何て事だ。もしかして、この男は。
あたしは睨むのをやめた。手に込めていた力も抜いた。抵抗を止めて、壁に体を預けた。
あたしの変化を感じ取って、滝本が少し身を引いた。
「・・・案外、一途なのね。驚いた」
呟いた言葉は、二人の間を漂った。
「・・・・」
「・・・待っていた、と言ったわね。あたしはあなたの事は忘れていた。全然、記憶になかった。だけど・・・」
「――――だけど?」
背中が痛かった。捕まれている手もジンジンしてきていた。だけど、あたしは口元に笑みを浮かべた。
「今は、知っている」
相変わらず暗くて表情が判らない滝本を見ていた。彼はまた少し、あたしとの間を空けた。
「冷たいマネキンみたいだったあなたの、素顔も、キレたところも、寝顔も、抱いてる時の切ない顔だって、もう知ってるの」
「・・・だから?」
両手を拘束されていて肩をすくめることが出来ないから、あたしはぐるんと目を回して見せた。
「考えるわ、あなたの言ったことも。だけど、今は離して頂戴。あたしは家に帰って―――――」
「そのまま消息を絶つ?」
苦笑した。なんて信用がないんだ、あたしは。まあ仕方ないかもだけどね。今までしてきたことを考えたら。
思わず笑ってしまった。
「明日、また会いに行く」
滝本があたしの両手を離した。そして、一歩後ろに下がる。
電灯が当たってやっと顔が見えた。
眼鏡の奥の瞳は静かな光りをたたえていた。ただじっとあたしを見詰める滝本は、懐かしい少年の面影をみせていた。
「明日、あなたに会いに行くわ」
あたしは居間から自分のボディバッグを持ってきた。そして靴をはき、廊下に突っ立ったままの滝本に手を振った。
「じゃ、また明日」
ドアの鍵をあけて、ノブを握った。その時、後ろから、声が聞こえた。
「薫」
あたしは振り返る。
滝本は真っ直ぐにたって、あたしを見ていた。
いつものようにうっすらと笑って。瞳を三日月型に細めて。
「事務所で待っている」
あたしは頷いてみせ、真夏の昼下がり、滝本の部屋を出て行った。
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