１、「あら、ごめんなさい」
「振り返ったら、君がいた。
僕は少し緊張したけど
何とか笑顔を作れたよ。
今が大切な時だとわかる。
だから、覚悟を決めて
積極的になろうと
そう思うんだ。」
明紫 詩集「風の通り道」より
一日の終わりに通勤客が、大群となってオフィス街を練り歩く。
疲れた顔をしている人や、やたらと無表情な人、笑顔の人もいれば、この世の終わりのような暗い顔の人もいる。
あたしはオフィス街に植えられた街路樹の下に立って、それをじっと見ていた。
この全ての人たちは、あたしのカモ。
彼らはあたしに生活費をくれ、遊ばせてくれて、この人生を楽しくしてくれる。素敵な素敵なカモさん達なのだ。
「・・・・見つけた」
あたしはするりと動く。人ごみに乗って流れに参加し、ターゲットの後姿に近づいていく。
勤め人の多いこの時間帯には、今から夜の仕事に出勤する人たちも混じって歩く。疲れたサラリーマンを狙うのだって別に構わないが、今月は割合潤っているから、お小遣いの少ないお父さん達は見逃してあげる。
今日は―――――――
目の前を歩くホスト風の男性をちらりと見て笑った。
今日は、あなただよ。
信号待ちの人ごみの中にターゲットもあたしも一緒にまじった。人ごみ、万歳。
体の横で右手人差し指と中指を屈伸させて、しゅるりと男の後ろポケットから長財布を抜き取る。銀色のチェーンでスーツのズボンに固定なんて、君、ホストらしくないんじゃない？恐らく、新人なんだろう。だけどこの時間に出勤てことは、同伴に向かうホストの可能性のほうが高い。
新人で、可愛がってくれるママがついてるとなれば・・・・。
チェーンなんて熟練のスリにとっては何の障害にもならない。流れるように親指でズボンを少しだけ浮かし、あっさりと金具を外した。
かかった時間、３秒ほど。長めのジャケットが邪魔だったけど、これはあたしの手元を隠してくれるツールにもなっているのだから感謝しなくちゃ。
青信号に変わって動き出した人の流れにあたしもまぎれる。
後ろのポケットに入れてた財布が消えているなんて、この段階では人はまだ気付かないのだ。
歩いている内に、何かの違和感をもつ。あれ？何か、軽いって。
そして気付いた時にはあたしはとっくにおさらばしてるってわけ。
ありがと、兄ちゃん。今日はあなたを可愛がってくれるママにたくさん美味しいお酒をご馳走してもらってね。
あたしは足取りも軽く、そのまま駅前の百貨店へ。
そして女性トイレに入る。
戦利品のクロムハーツの財布を取り出す。うーん、素敵な財布。これは後でネットオークションで売れるな。
さてと、中身は・・・。
「こんなもんかな」
現金３万４千円。まあ、３万円は持ってそうな男だと思った。やっぱり新人なんだ。売れっ子ホストならまず財布を後ろポケットにはいれないし、中身だって２０万くらいは入ってることが多いものだ。それに、財布は大体パッとは判らない高級ブランドが多い。
目標はクリアしたから今日はもういいんだけど・・・。
鞄からクリアケースと手袋を出して、クレジットカードや免許証、小銭などを手袋をはめた手でクリアケースに突っ込む。
頂いた現金だけを自分の鞄の内側に縫い付けたポケットの中にしまい、あとはそのまま鞄に入れて、トイレを後にした。
でも、今日は気分がいい。
あと３件くらいは仕事をしていこうかな。
百貨店を出たその足でスターバックスに向かった。
小道具は、ここで手に入れる。
必要なのはアイスコーヒー。時間は午後の６時半。
あたしは店の壁に掛かっている時計で確認して、コーヒーを持ってぶらぶらと外へ出た。
繁華街への入口に向かって、歩いていく。
夏前の湿度が高めの風が音を立てて通っていった。
昨日の飲みすぎの頭を柔らかく包んでくれる。今日は起きたら昼だった。そしてエクササイズをして汗をかき、化粧をして、映画を観て時間を潰してから「仕事」をしているのだ。
人待ち顔を作って、大きな柱時計から少しずれたところに立つ。周囲をちらっと見たり、時間を気にする風にしていた。
３０分ほど経ったころ、近づいてくる男に気付いた。
バレないようににやりと笑う。きたきた、本日のカモちゃん第２号。
「ねえ――――――」
男が声をかけたと同時に、あたしはパッと振り向いた。勢いよく。
斜めに持ったアイスコーヒーは、狙い通りに相手の男に降りかかる。
「うわあ！」
「あっ・・・！」
茶髪の男は案外反応が早く、とっさに横に飛びのいたけど多少はそのパーカーに掛かってしまった。
「ごめんなさい！」
あたしは申し訳なさそうな顔を作って、コーヒーを地面に置いて相手に近寄る。
２０代後半くらいの茶髪の男は、慌てて近寄りタオルで服をふこうとするあたしに笑いかける。
「大丈夫だよ、いきなり声かけたからこっちが悪かったんだ」
にやにやと笑っている。あたしは何度もすみませんと口にしながら、手にしたハンドタオルで男のパーカーを拭いた。
「他は大丈夫ですか？」
手を伸ばして男がかけている斜め掛けのバックのジッパーを外す。
「染みになっちゃいますね」
男の瞳をじっと見詰める。潤んだ瞳に見えるように、ここに立つ前に目薬で水分は補充済みだ。
軽そうな男はどぎまぎしまがらヘラヘラ笑って手を振っている。
あたしの指が、財布を抜き取った。そのままハンドタオルをまいて隠し、自分の鞄に落とし込む。
「大丈夫だよ、そんなに気にしないで」
「でも・・・」
男は最初の目的を思い出したらしく、多分本人は爽やかな笑顔だと思ってるんだろうニヤついた顔で、君さ、と話だした。
あたしはするりと相手から距離を取る。
「待ち合わせみたいだけど、相手が来ないのかな。よかったら、遅刻するやつなんて放っておいて俺とご飯行かない？」
行かねーよ、てめえとなんて。
心の中で呟いたけど、顔は申し訳なさそうに笑って、言った。
「ごめんなさい、父と待ち合わせなので、そうもいかなくて」
「お父さん？」
男が少し引き気味になった。あたしは指で方向を指して、更に言った。
「あそこで働いてるので、ここで待ち合わせなんです」
つられて男があたしの指さすほうを見た。
あるのはこの繁華街を見張る位置に建てられた警察署。
男の口元が引きつった。
「・・・あ・・ああ、そうなんだ・・。それじゃあ残念だけど、無理だよね」
誰だって、警察なんかと係わりたくはないよね。あたしはくふふと下をむいて笑った。
ナンパした女は警察で働くお父さんと待ち合わせでした、と。
ごめんなさいね、と手を振ると、カモは相変わらずへらへらしながら手を振り替えして離れていった。
あたしはコーヒーを拾ってまた立った。
さっきの男が消えたのを確認してからその場を離れる。
そして別の百貨店に入って、また同じことをした。つまり、戦利品の確認。
今の若造は所持金６千円。これだったらご飯についていっても大したものは食べれそうにない。あーあ、よかった、カモにするだけにしといて。
また別のクリアケースに入れる。
さて、次いこう、次。
鼻歌を歌いながら歩き出した。
結局、今日のあがりは合計で１４万８千円也。
あたしは自分のノートに記入する。「あら、ごめんなさい」手法で３件、後ろポケットで１件。
上々。いい感じよ、あたし。
窓辺にあぐらをかいて座り、一人でビールで乾杯する。
あたしは野口薫という。歳は一応２７歳ってことになってる。なんせうちの親父のいう事はあてにならないし、あいつなら出生届けを出し忘れてたなんてことも平気でやりそうだから、誕生日も信じてない。
中学校を卒業してから親父に鍛えられてスリになった。だけどいざ行かなくてよくなると、勉強ってしたいものなのだ。
だから夜間で高校へ行って、そのまま大学も出てしまった。
面白かったから語学を専攻した。
そして就職は、やっぱり家業を継いだってわけ。
つまり、まともに働いたことなんてない。同じ汗をかくならあたしはこの２本のスペシャルな指を使って人様から稼がせて頂く。
大学時代は金持ちのボンボンのいかにも「盗ってください！」とポケットに突っ込まれた財布に手を出さないように自分を戒めていて、大変しんどかった。
あれは、修行だった。いわば、一種の。自己鍛錬だ。
今は一人で地面から高いところに住んで、悠々と暮らしている。
あたしはいつだって、好きなことを、好きな時に、好きなだけやって生きて来た。親父の手が離れてからはそれに拍車がかかり、ストレスって何だ？状態の素敵な日々を送っている。
毎日が、パラダイス。しかも、飽きない。くくく〜笑いが止まらんぜ。
平和ボケした日本の皆様はスリに慣れてない。故に、周りを見渡してもカモしかいない。
スリを本気で防ぎたかったら、財布なんて余計なものは持たないことだ。外国の人みたいに金をそのまま持つか、厳重に鞄に仕舞いこむか。財布は盗られると全てを失う。そして、間違ってもダボダボズボンの後ろポケットには入れないこと。あれは、これ、どうぞ、って言ってるみたいなものだ。
もしくはぴっちりとしたズボンを穿くか。これだと多少時間がかかってしまうために、スリは割合嫌う。別のカモを探す確率が増える。
今日のホスト君みたいにチェーンなんて全く意味はない。ファッションの意味しか、ない。胸ポケットだろうが鞄の中だろうが簡単に盗れる。その練習は、エクササイズとともに毎日かかさずにやっている。
狙ったら、必ず盗る。
だからあとは、ターゲットの選別だけになる。
危険を冒して盗った財布の中身が千円に満ちませんでした、ではお話にならないでしょ。やっぱりあたしが満足する生活するのに一人でも月３０万はいる。もちろん、貯金もしてるから、なんだけど。
この世で一番強いのはゴールドかもしれないが、使いやすいのは現金だ。貯金、大事よ。
一つの財布に10万はいってれば、一ヶ月に３人狙うだけですむ。人数が増えれば増えるほど危険も増えるから、カモの選定はしっかりする必要がある。
無学の親父は経験だけでやっていたけど、あたしは大学まで行って無駄じゃなかったと今では思ってる。
人間観察に非常に役に立ったから。
財布を盗れば、中身をすぐ確認してお札だけを頂く。そして小銭やカード類はクリアケースにいれて、通りすがりの交番に放り込んでいく。
あたしは身分証に興味がない。クレジットカードも好きじゃない。詐欺師は涎を垂らして欲しがるんだろうけど、あたしはあくまでスリだ。面倒臭いものは好まない。
クレジットカードや身分証は無傷で持ち主に戻る。あたしはそれでやっと仕事が完了する。
スピードが勝負。右手２本の指だけで勝負する。ナイフを使うバカ野郎もいるにはいるが、あんなのは邪道だ。ズボンや鞄を切ってまで盗ってどうする。お前は鎌イタチかってーの。
古今東西、正統派のスリと言うのは、刃物は使わない、女性からは盗らない、失敗すれば逃げ切れる身体能力と演技力を身につけること、と決まっている。
何故か、そう決まっているらしい。
親父が毎日のように言っていた。理由を聞いたこともあるけど、明確な答えは返ってこなかった。ま、脈々と続いてきたスリ道の中では合理的な理由があるんだろう。
我が家の掟・・・といったら格好つけすぎか。規則、としては、女子供からは盗らない、金持ちの上澄みを掬い盗る、ってのがある。
だから大学時代、学生には手を出さなかったのだ。
狙いはあくまでも社会人。それも、１０万２０万のお金に困らないような金持ちを狙うこと。可哀想なサラリーマンの懐を盗んで、それが子供の治療費だったりしたら寝覚めが悪くって仕方ない。
勿論そんなこと気にしないスリもいるが、人様に生かされてるんだってことを忘れるな、と親父はいつでも言っていた。
金を稼げるホストをよく狙う。
それと、今日みたいなナンパ男。
ナンパ男はあたしに使ってもいいか、と思う金を持っているから声をかけるのだ、という理由で、頂くことにしている。
お水系はやっぱり稼げるが、お姉さんたちからは盗れないのでホストを狙っている。人様のお金で生きているのは、彼らもあたしも同様だ。
大学を卒業してから５年。
旅行に出ている時以外は毎日このように稼いでいて、あたしの年収はざっと２０００万を超えている。
３割は貯金する。あとは生活費と、旅行代だ。当たり前だけど、税金は払ってない。だから国の公的援助は一切受けられない。よって、やはり現金があたしの命綱となるわけで。
もちろん、世界各地の銀行に口座を持っている。
この普通じゃないあたしの未来がどうなるかはまだ誰にも判らない。だけど、何だって楽しんでみせる。その好奇心があたしを一人前のスリにしたのだ。
ピンク色に光る泡風呂にお気に入りの香水を落としてあたしは微笑む。
この素敵な人生を、あたしは心から愛している。
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