A


 何回か意識が浮かび上がっては沈むのを繰り返して、空腹で目が覚めた。

 手をゆっくりと動かしてみる。

 ・・・だるくない。

 酷かった頭痛もない。

 体を起こしてみると胸下にまだ痛みが走ったけど、熱は下がっているようだった。

 ・・・まあ、元々ショックで高熱が出ただけだろうしね。

 ゆっくりと固まった体を伸ばした。寝室を出て、居間へと足を向ける。

 そして部屋を見回して、ソファーで寄りかかって眠る滝本を見つけた。

「・・・・・いる」

 まだ、いるじゃん、そこに。

 時計を見ると明け方の4時。そろそろ太陽が出てくるころだった。

 巻きつけられていただけのガウンが滑り落ちて素肌が出たので、ガウンをちゃんと着なおした。

 滝本はソファーに長い体を横たえて、片手を目の上に置いて寝ている。

 あたしは彼の寝息を確かめて、それからタオルケットを一枚とってかけてやった。

 何にせよ、この男があたしの面倒を見てくれたのは間違いない。

 ソファーの下に放りっぱなしの雑誌の上に滝本の眼鏡を見つけ、踏みつけたくなったけど止めておいた。

 テーブルの上の抗生物質に気付いた。

 どこから手に入れてきたんだろう。有刺鉄線がカビついていたから刺し傷が実はちょっと心配だったのが、これが効いて熱が下がったんだな、と思った。

 特殊な業界に身を置く人間だけあって、多分色んな手づなを持っているのだろう。この男が居なかったら治りはかなり遅かったはずだ。

 体中が汗でべたべたしていて不快だったから、冷蔵庫から栄養ドリンクを出して一気飲みした後、シャワーを浴びに行った。

 傷を頑張って避けながら全身を洗った。

 体の半分が見事に痣だらけで、本当骨が折れてないのは奇跡だわ、と思った。

 痛い痛いといいながらシャワーを浴びて、浴室を出る。

 ゆっくりとタオルで拭いていたら物音がしたから振り返った。

「――――――熱は下がったんだな」

 まだ眠そうな表情で、滝本が欠伸をしながら立っていた。

 あたしは彼から目を離さずに裸にタオルを巻く。

「・・・お陰様で、助かりました」

 あたしの返事に、滝本はおや、という顔をして首を傾げた。

「やけに素直だな。噛み付くのは止めたのか?」

「あたしは泥棒で良心はあまり持ち合わせてないけど、恩を恩と理解する頭くらいは持ってるの」

 うっすらといつもの笑みを口元に浮かべて、滝本はあたしを見ていた。

 この表情を変えてみたい。

 違うこの男を見てみたい。

 強烈で凶暴な欲求が突然沸いて、あたしの全身を満たした。

 あたしは滝本に背中を向けて洗面台の扉を開け、塗り薬を取り出した。そしてバスタオルを落とす。

 鏡の中で滝本が眉をあげたのが見えた。驚いたらしい。

「痣だらけだわ。後ろの打ち身のところ、塗ってくれない?」

 鏡越しに滝本に言う。そして手の平にのせた薬を後ろに伸ばした。

 ひょい、と肩をすくめて、滝本は薬を取る。そして少しずつ、薬を指に取って塗りだした。

 あたしは洗面台に手をついてじっとしていた。

 滝本の触れる場所が痛みと別に熱を持つ。

 足元に跪いて、あたしの背中や腰、足や太ももに薬を滑らせる。彼の呼吸を気にしていた。

「・・・どんな落ち方したんだ?君は運動神経がいいと思っていたけどな」

 後ろでぼそっと滝本が呟く。

「・・・いいのよ。鍛えていたから、これくらいで済んだんだから」

 指が内ももを滑る。

 あたしも呼吸を変えないように努力が必要だった。息が乱れないように。間違っても声など出さないように。

 体が熱を帯びだす。

 柔和で紳士的な外面を取れば制御不能の野獣のような顔をみせるこの男が、驚くほどの優しさと柔らかさで触れる。

「・・・完了」

 滝本が立ち上がって薬の蓋をしめ、あたしに差し出した。

 鏡越しにあたしは微笑んで、ありがとうと言葉を零す。上半身を捻って薬を受け取り棚にしまった。


 そして下着をつける。

 足の上げ下げに一々鈍い痛みもついてくる。まだしばらくはこの状態が続くのだろう。

 ブラに手を通して、また鏡越しに彼を見た。

「ホック、留めてくれない?腕も痛いの」

「――――――はい、お姫様」

 指が触れると皮膚がちりちりした。あたしは顔をあげてじっと鏡の中の滝本を見詰めた。

 そして、ついに確認した。

 滝本の瞳の中に、今までなかった色が揺らめいているのを。

 ぐっと満足感が湧き上がってきた。

 やった、わざわざ全裸を晒した甲斐があったというものだ。あたしはこれが見たかったのだ――――――この男の、欲望に染まる細めた瞳が。

「・・・・目の色が変わってる」

 声に喜色が滲まないように非常に苦労した。

 滝本が顔を上げた。

「―――――俺も一応、健康な成人男性なんでね」

 声がざらついていた。

「だけど理性を保ってる?」

「・・・君はまだ、激しい運動が出来る体じゃないだろ」

 あら。あたしは少し驚いた。さらりとかわすかと思っていたのに、まともに返事が返って来た。

「それは紳士的」

「・・・ああ、そうか。乱暴なのがお好みだったっけ?」

 ゆっくりとからかうような口調だった。まだまだ余裕があるってことか・・・。

 あたしはくるりと振り返って、正面から長身の滝本を見上げた。

「外は優しく、中は激しく」

 滝本は黙ったままでじっとあたしを見ていた。瞳の中の揺らめきは消えていない。

 あたしは彼の横をすり抜けて洗面所を出た。満足感と共に一度熱くなってしまった体をもて余す困惑も広がっていた。

 こらこらこら、自分で作った展開でしょうが。ドアをしめて滝本の視界から逃れてから両頬を手で叩く。

 しっかりしなさい、薫!

 部屋で清潔な服を着て、やっと人間に戻った気分になる。

 居間に戻ると持ち物を片付けている滝本に聞いた。

「今日は何曜日なの?あたしはどれだけ寝ていた?」

「本日は火曜日。君は丸1日半寝ていた。腹に何か入れたほうがいいぞ、体力がきれる頃だろう」

 あたしは冷蔵庫から水を出して、彼を振り返った。

「あれはうまくいったの?データはちゃんと取れてた?」

 滝本はこちらを振り返って、頷いた。

「ああ、あれは上々だ。甲田のスケジュールが狙い通り全部入っていた。昨日から飯田がヤツを監視している。そろそろ逢引の頃なんだ」

 良かった、折角怪我までして中身空っぽでした、ではあたしの努力は何だったのってなる。

「あなたは行かなくていいの?」

 そんなに暇じゃないだろう、あの事務所は。そう思って聞くと、彼は苦笑したようだった。

「・・・ここで、誰かさんの手当てをしていたんでね」

 あ。

「・・・済みませんでした」

 あたしが痛みに顔をしかめつつ頭を下げると、笑いを含んだ声で滝本が言った。

「あっちは誰でも出来る。皆それなりに優秀なんだ。それとも―――――」

 言葉を切って、更にニヤリと笑った。

「ここに誉田を来させたほうがよかったか?」

 あのデカイ声の鈍感男を!?・・・いや、冗談でも嫌っす。今想像しただけでも疲れた・・・。

「・・・いえ、あなたで良かったです」

 くっく・・と笑って、滝本は鞄を持った。

「もう大丈夫なようだから俺は行く。これからが甲田の件は詰めなんだ。さて、どんな女性がお相手で出てくるか・・・」

 あたしは玄関までついて歩きながら滝本の後姿に言った。

「あたしの鍵、返して貰ったっけ?」

 ああ・・・そういえば、と言って滝本はポケットからうちの鍵を出す。

「ここのマンションは値段が高い割にあまり警備がよくねえな」

「・・・そうね」

 あんたらに掛かったら、大体のところの防犯はなっちゃいないはずでしょうが。口の中で突っ込んだ。

「じゃあ、お世話になりました」

 あたしが玄関で言うと、滝本は肩越しに振り返って言った。

「また必要が出来たら呼ぶよ」

「は!?これでチャラじゃなかったっけ?」

 うっすらと笑った。眼鏡の奥で三日月型に瞳を細める。

「・・・・この2日間の恩が、新たに出来ただろうが」

 ・・・・・うがあ!!

 あたしが噛み付きそうな顔をしたのを見て声を出して笑い、さっさとエレベーターに乗っていってしまった。

 くそう!あの男とはまだ縁が切れないのか!!

 あまり暴れるとまだ体が痛いから、大人しくソファーに座って、クッションを叩きのめしたあたしだった。



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