2、「あ、お客様、落ちますよ」@

 9時45分、あたしは気合も入れなおした状態で、調査会社のドアを開けた。

 キラキラと朝日が差し込み、その光りが舞う埃をきらめかす。掃除の足りてない雑然とした事務所では全員が揃っていた。

「あ、おはようございまーす!」

 またもデカイ声で誉田さんが叫ぶ。湯浅女史と飯田さんは会釈をくれたので、それぞれに微笑みと共に挨拶を返した。

 そして無表情に戻って滝本の机に近づく。

 黒いシャツの襟元を開けた状態で、ゆったりと椅子に腰掛けて、滝本が言った。

「おはよう、すり鉢姫。私には挨拶はないのかな?」

 この微笑を叩き壊してやりたいぜ。一瞬真剣に殺意が芽生えたけど、あたしはそれを押し殺した。

「・・・早上好」(おはようございます)

 ひゅっと眉を上げて、滝本は首を傾げた。

「へえ、・・会説中文・・・。吃!」(中国語出来るのか・・・わお!)

 チッ。何だ、こいつ北京語わかるのか。挑戦があっさりと流されて、あたしはまた気分を悪くした。

 にやりと笑って、滝本は腰を上げた。

「あっちで説明するよ。―――――誉田」

 ぼーっとあたし達の会話を聞いていた誉田さんが、ハッとして顔を上げる。

「悪魔の飲み物、宜しく」

「はい!」

 後ろで、今の何ですか?と誉田さんが聞き、湯浅女子が北京語よと返しているのが聞こえた。

 応接室とかかれた小部屋に入って、どうぞと椅子を示される。あたしはだらりと座った。

「さて、早速だが、説明に入る」

 コキっと首を捻って音をたて、滝本が言った。真剣な顔をしている。その表情は別に悪くないのになあ〜、とあたしはこっそり思った。

「甲田は毎週日曜日の朝は妻と一緒に会員制のスパへ行っている。ジムやらレストランやらがついた高級なやつだ。そこが、公共の場でスマホを手放す多分唯一の場所だ。まさか風呂にまで持って入らないだろうからね」

 そこで、と滝本は続けた。

「君にやつのスマホに入っているデータをダウンロードしてもらう」

 隣に置いた袋の中から機材を取り出してならべ、説明を始めた。

「これをスマホに繋ぐ。スマホオープンの暗証番号は妻に探り出して貰ってるから、これを使ってくれ。スイッチを入れると自動的にダウンロードするようになっている。データチップに情報が入るんだ。大体10分ほどかかるから、その間バレないように気をつけてくれ」

 失礼しまーす!と大きな声と共に、誉田さんが入ってきた。

「ボス、お待たせです!」

 出た、悪魔の飲み物。・・・相変わらず、不味そう。よくこんなの飲むな・・。

 あたしがじっと黒い液体を見詰めていると、誉田さんがニコニコと言った。

「あ、野口さんも飲みますか!?俺のスペシャルブレンドです!」

「・・・いえ、結構です。ありがとうございます」

 誉田さんは残念そうな顔をしたけど、滝本の視線に気付いて慌てて出て行った。

「やり方は君に任せる。完遂して欲しいが、警察に捕まるようなら無理はしなくていい。こっちの名前が出てしまうと困るんでね」

 つまり、捕まってもここのことを黙ってるなら気にしないってことか。

「たまたま今日が日曜日でラッキーだった。さきほど甲田夫妻は家を出発している。君も、今から行ってくれ」

 機材一式をボディバッグに入れて、あたしの前に置いた。

「飯田が車で送る。帰りは自力で何とかしてくれ。データチップを貰ったら、私に対するスリ行為は忘れよう。ただし、この事務所で働いた暴行罪は残ってるけどね」

「・・・昨日のアレは婦女暴行罪に入らないの?」

 滝本は眼鏡の奥で嬉しそうに笑った。

「成る程。・・・では、君のと私のは、あれでチャラということにしよう」

 ・・・・ムカつく男だ。あたしは目を細めて滝本を睨みつける。全く気にしてない様子で、滝本は立ち上がった。

「猶予は今日中だ。今晩10時に私がここを閉めるまでに戻ってこなかったら、君は逃げたものとして判断する。スるのに失敗しても、一度ここに戻ることを勧める。そして報告してくれ、失敗しましたってな」

 あたしはバッグを持って立ち上がった。

 滝本はいつもの微笑みを浮かべたまま、ドアを開けて待っていた。

「では、お嬢さん」

 高めの声が至近距離で耳の中で跳ねた。

「健闘を祈る」

 あたしは無言でドアを閉めた。


 飯田さんが車をビルの下に回してくれていたので、さっさと助手席に乗り込んだ。

「出ます」

 ボソッと呟いて、飯田さんは車を発進させる。

 色んなものが詰まれた狭い座席で、あたしは頭の中で滝本を呪いながら座っていた。

「・・・・幸運でしたね」

「はい?」

 いきなり運転席から話しかけられて、驚いた。

 飯田さんがちらりとこっちを見て言った。

「所長に捕まって、幸運でしたね。別の人間だったなら即警察でしょう」

 あたしはふん、と鼻を鳴らして不快感を表明する。

「あの男じゃなかったら、ちゃんと逃げ切れてました。でなきゃこんな危ないことをするハメにもならなかったし!」

 あたしの言うことに、それもそうですね、と返して飯田さんは黙ってしまった。

 うーん・・・。この男もよく判らない。好奇心がムクムクと沸いて来たけど、あの調査会社の連中には深入りしないでおこう、と今朝岡崎さんのカフェで誓ったんだった。

 やっぱり止めとこう、色んなこと聞くの。恐らくこの男も変人なんだろうし。

 そんなわけで、後はただじっと黙って助手席に座っていた。

 車は40分ほど走って、郊外のやたらと煌びやかでデカイ建物が見える位置にとまる。

 飯田さんが言った。

「あれです。甲田夫妻は既に入っています。写真、持ってますか?」

「覚えましたから、置いてきました」

 飯田さんはちょっと笑った。

「・・・調査会社、向いてるかもしれませんね。って、これは失礼。れっきとしたスリのプロでしたね」

 スリのプロがれっきとしているかは知らないが。

 あたしはちょっと笑ってしまう。そして、口を開いた。

「飯田さん、アドバイス、いいですか?」

「え?はい、何でしょう?」

 あたしはボンネットに置かれた彼の財布を指差した。

「どうしても財布を持ちたいのであれば、小銭入れとカード入れとお札入れは別にしたほうがいいですよ。盗られたら、一気に全て失くします」

 飯田さんは苦笑して、頷いた。笑うといきなり若く見える。

 おお〜!えくぼまで出現しやがった!社長に続き、笑顔になると顔面の構造が変わるのか!?

 驚いて、思わずガン見した。

「・・・何か?」

「いえいえ、別に」

 あたしは顔の前で手をパタパタと振る。

「了解しました。そのようにします」

 一瞬何のことか判らなかったけど、飯田さんの視線の先にある財布に気付いて、何とかハイと答えた。

 あたしは送ってもらったお礼を言って、車から降りた。

「気をつけてください。無理はしないように」

 運転席から体を伸ばして飯田さんが言う。

 あたしは頷いて、笑った。

「あたしも捕まりたくありませんから」

 じゃあ、と言って手を振ると、車はゆっくりと発進して角を曲がり姿を消した。

 あー、驚いた。若干固まっちゃったぞ、と。

 深呼吸を一つして、改めて目的の建物を振り返る。

 華麗な建物の後ろには山がそびえている。夏前の、緑の焼ける匂いがしていた。

 郊外の、それほどアクセスが悪くない場所に自然が一杯のスパを作る。あたしは興味がないが、そんな贅沢を心から欲する人種もいるのだろう、と皮肉な笑みを浮かべた。

 ・・・・さて。

 どうやって入ろうかな。

 とりあえず、ぶらぶらと建物目指して歩いて行った。

 そして大きな茂みに隠れて、双眼鏡で入口を観察した。・・・あの立派なエントランスは客用だろう。でもこれだけの規模の建物なら、従業員の数も凄いはず。従業員はどこから入ってるの?

 しばらくあっちこっちから見てみて、発見した。

 裏に回る手前の小さなドア。あそこから普通の格好の人間が出入りしているのが判った。

 多分、入ってすぐに警備室があるのだろう。そこでIDカードか何かを見せて職場へ行くはずだ。

 ・・・・と、いうことは。

 あたしはするりとそこを抜け出し、さっきその小さな入口から出てきた中年の女性に近寄りつつ観察した。

 恐らく従業員だろう。朝の人間と交代した夜勤明けの人ってところか。足がむくんでいるのが判る。立ち仕事?レストランの給仕の人間か、宿泊施設もあるようだからそこで働いているのか・・・もしくは、フロント。

 姿勢がいいから、裏方の人間ってわけではなさげ・・・。

 そこまで観察してから服装を眺めた。

 女性はあまりポケットに物を入れない。だからやりにくいのだ。スリの王道としては女性からものを頂くのは気が引けるけど・・・・今は、あなたしか居ないから許してね。

 恨むなら、滝本をお願いします。と心の中で呟いて、パラパラしか人がいない郊外の道を進む彼女に近寄った。

 あたしの後ろには人間の姿は見えない。他の人も同じ方向をむいて前を歩いている。

 チャンス。

 あたしは右手を彼女が左肩にかけたバッグに忍び込ませた。毎日職場でみせるパスなら財布に入れている可能性は低い。多分、カードケースか何かに―――――

 しゅるりと右手をバッグから出す。そしてそのまま彼女を追い越して、道の自動販売機で飲み物を買うかのように立ち止まった。

 彼女は何も変化がない様子で通り過ぎていく。

 あたしは小さく微笑んだ。

 お腹の前に回した右手には黒革のパスケース。その一番上に、入館許可証とかかれたカードが入っていた。

 それだけを抜いて、あたしはまた彼女を追いかける。

 呼吸を止め、足音を消して近づくと、パスケース鞄の中に差し入れた。

 そしてそのまま踵を返す。

 あの中には電車の定期も入っていた。それも6か月分の。あれは、返してあげなきゃね。

 あたしの手の中には先ほどの女性の顔写真が貼られた入館許可証。

 とりあえず、これで入れる。あたしはにっこり笑った。

 日陰で自分の鞄から用意してあった写真を取り出す。いつでも、あたしは履歴書用の証明写真を持ち歩いていた。役に立ったじゃん!

 ほーらね、と誰もいないのに自慢をして、彼女の写真と取り替えた。

 そして名前の場所を白いテープを上からはり、レタリング文字で自分の名前を入れる。

 どうせ、こんなものは入口でちらりと見せるだけだろう。少々雑でもバレることはないに違いない。

 出来上がりに満足すると、駅のほうから歩いてきた、あれも従業員だろうと思われる男性の後ろにほどほどの距離をあけてついて行った。

 予想が当たって、入口では皆さっさとカードを見せて通り過ぎて行っていた。あたしも当然のような顔をしてそうやって通った。

 目的があるみたいに白い建物の中を歩きながら、心の中でガッツポーズをした。

 次は、掃除の人に成りすまそう。それには掃除の人を捕まえるのが一番。

 従業員スペースまでも綺麗な建物だった。皆きびきびと動き、従業員同士でも立ち話などしているところは見かけない。教育が行き届いているのだろうけど、これだと新顔がいても詮索もされないだろうとあたしはほくそ笑む。



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