2、「返答次第では、さっきよりも暴れるぞ」
翌朝は、体調もバッチリで7時半には家を出た。
黒色の上下に緑色のパーカーを着ていた。キャップを被って黒いジャージ素材のバッグを持っていた。
これは変装用と逃走用。いつでも切り札とプランBは必要。
滝本がどこに住んでいるかを突き止めるのが、今日の目標。どんな案件を抱えていていつ出勤しているのかが判らないから、事務所の前で待つつもりだった。
電車に乗りながら、原チャ買おうかな・・・と考えていた。スリのカモを見つけるのは公共機関が一番だから、あたしは原チャも車も所持していない。大体それらを買うとなったら税金を払わなきゃなんないしな・・・それは嫌だ。払うのは固定資産税だけがいい。
でも滝本を張るなら、アシはあった方がいいよね〜・・・。今日一日でうまくいくとは思えないしな。それにあたしは尾行も上手くないしな。あっちはプロだしな・・・。色々考えていたら、何だかバカらしくなってきた。
成功する気がしねーぜ。
舌打ちをしたい気分で、電車を降りてヤツの事務所に向かう。どこか腰を落ち着けれられる場所を見つけなければ。
サンドイッチを食べながら、事務所が入っているビルの周りをぐるぐると回る。いい場所が見つからず、困った。暫く考えて、やっと一箇所見つけ、ビルの入口が見える斜め前のビルの日陰に滑り込んだ。
そこでサンドイッチとコーヒーを流し込む。
いつもは嵌めない腕時計もしてきていた。さて、今8時半。あいつはいつやってくるんだろう。
ボーっとしながら入口を見ていると、9時前に湯浅女史が入っていき、その後続いて誉田さん、そして飯田さんが入っていった。
2階の事務所のブラインドが開けられて、窓が開く。事務所、オープン。だけど問題の男が中々来ない。
重役出勤かよ、と口の中で毒ついて、ヤツは紛れもなく重役だったと思い出した。
飯田さんが出勤してきた時とは違う格好で出て行った。本日のお仕事開始なんだろう。誉田さんもついて出た。ビルの前に回ってきた車に、何かの機材を持って乗り込んで行った。
湯浅女史が窓を閉めた。
あたしは座り込みながらぼーっとそれを見上げる。
そして、やっと目的の男が歩いて来た。ビルの入口の前で携帯電話を耳に押し当てて話ている。会話は聞こえない。あたしはそろそろと体を起こし、立ち上がって準備をした。午前10時23分。
携帯で会話を終了した滝本はしばらく考えるようにただ突っ立っていたけど、ビルには入らずに踵を返して歩き出した。
あれ?事務所には入らないの?
あたしはゆっくりと動き出す。
滝本の肩の辺りを眺めた。
スリが人の特徴を覚える時、男なら肩、女なら足首を覚える。肩幅やスーツの色や柄を覚え、足首の細さや靴の種類を覚えておけば、人ごみでも簡単に見つけられるのだ。それに、目が会う危険もない。
あたしは前を歩く滝本の肩を見詰める。
ストライプが入った青いシャツ。今日はえらくラフな格好だ。長身で肩幅もあるので、細身ではあるが目立つ男だ。
朝の雑踏を抜けて、滝本はスタスタと歩いていく。
あたしはその後を間隔をあけてぶらぶらとついていく。
キャップの淵から見える滝本の肩だけに集中していた。
15分ほど歩いて、滝本は白いマンションに入って行った。
あたしは立ち止まって離れた電柱の影から双眼鏡を取り出してエレベーターの表示に標準を合わせた。
エレベーターは上がっていく。・・・2階、3階、4階・・・。
4階で止まったのを確認すると、双眼鏡はしまって肉眼で滝本の姿を捉える。彼が右端の部屋に入ったのを確認した。
・・・インターフォンも押さなかった。
ってことは、ヤツの部屋ってことでいいんだろうか。どうして出勤して、事務所にも入らずにまた部屋に戻るんだ?ってことは、違うのかな・・・。彼女の部屋、とか?
あたしは電柱の影で頭を捻る。
まあいいや。やつが出てきたら、直接あの部屋を訪ねて―――――――・・・・
「おはよう、薫さん」
背後からいきなり声が響いて、あたしは思わず飛び上がった。
「ひゃあ!?」
パッと後ろを振り返ると、滝本がニコニコしながら立っていた。若干息を切らしていて、ふう、と小さく吐くと、腕で額の汗をぬぐった。
「・・・・ビックリ、したじゃない・・・」
あたしの抗議に軽く頭を下げた。
「それは失礼。しかし、君は尾行が下手だね」
「うるさいわね、判ってるわよそんな事!」
ムカつく男だ。バレてたんならもっと早く接触しろってーの。
悔しさも手伝って、あたしは盛大に膨れる。ちぇっ!
「・・・まあ、膨れることはないよ。一般人よりは上手だった」
「それはどうも!」
全く褒め言葉にはなってない。噛み付くと、くっくっくと口の中で小さく笑う。
「出だしが悪かったんだ」
「はい?」
滝本は眼鏡をなおし、その奥であの読めない瞳を三日月型に細める。
「あの事務所を見張れる場所は、実はひとつしかないんだ」
「・・・・・」
「だから、メンバーは毎日何回か君が潜んでいた場所をチェックする習慣がある。湯浅が気付いて、私に電話をくれたんだ」
客に話すように紳士的な言葉遣いなのが気に障った。
・・・・あたしはまんまと罠に引っかかったってことなのね。くそう・・・。
「さっき部屋に入ったのに、既に後ろにいるなんてどんな魔法なの?」
腰に手をあてて威嚇する。腕にでも噛み付きたいところだけど、まさかそうもいかない。
滝本はまた額を流れてきた汗を腕で拭いた。
「・・・私の部屋のベランダから梯子を使って隣のビルにうつれる。そのまま走って来たんだよ。だから、息も上がってる」
逃げ道が用意してある部屋なのか。
「それで、あなたはここに住んでるの?」
「そうだね」
「どうしてあたしに尾けさせたの?」
「知りたいんだろうなと思ったからさ」
イライラー!!あたしはその場でバタバタと足踏みした。
「もう、そのムカつく紳士的態度止めてよ!イラつくったら!」
声を上げたら、滝本は眼鏡の中で笑った。そしてぐいっと一歩で近づくと、右手であたしの喉元を掴んだ。動きがめちゃくちゃ早かった。
ひゅっと一瞬息が詰まる。
全身が緊張した。
あたしは目の前の滝本の顔を凝視した。このままヤツが指に力を入れれば、あたしの首は絞まってしまう。
「―――――――乱暴なのが好きなのか?」
滝本の高めの声が、低い囁きに変わった。
「俺は女に手をあげるのは好きじゃない。けど、お望みならやってやるよ」
言葉と同時に、ぐぐっと指に力が入った。
あたしは唇を噛んで、集中した。そして滝本の脛めがけて右足を繰り出した。
「・・・おっと」
避けられた。だけどその拍子にあたしの首からも手が離れた。
「・・・ごほっ・・・」
あたしは荒く呼吸しながら後ろに下がる。
「あぶねーな。とんだじゃじゃ馬だ」
さっきまであたしを掴んでいた右手をぶらぶら振りながら、滝本が言った。
あたしは首筋を手で押さえながら睨みつける。
「―――――・・・この変態。あんた二重人格なの?」
「失礼な。オンとオフがはっきりしていると言ってくれ」
「女の首絞めるのが趣味?」
「絞まってねーだろ。絞めてるなら、あんなに動けねぇよ」
にっこりと笑った。そして、ただ、と続ける。
「・・・紳士的な俺はお気に召さないようだったから、威嚇してみただけだ」
かみ締めた唇が切れたのが判った。舐めた舌先に血の味がした。
・・・悔しい。あたしは拳に力をこめる。完全に遊ばれてる。
「怒ったのか?」
「やかましい!」
ふん、と滝本は鼻で笑った。そして腕時計で時間を確かめる。
「今日はうんざりする書類仕事が溜まりまくってるんだ。悪いけど、これ以上は付き合ってやれない」
あたしは滝本を睨みつけた。
「ならさっさと消えて」
「その前に」
滝本は手の平をあたしにむけて差し出した。
「免許証、返してくれ。返答次第では、さっきよりも暴れるぞ」
口元にはいつものようにうっすらと笑みを浮かべていた。
・・・・畜生。あんな早業を見せ付けた後に言うのも、計画通りなんだろう。あたしは従わざるを得ない。これ以上ここで抵抗するほど無鉄砲な若さはもう消えていた。
仕方なく鞄から取り出し、指で免許証を挟んでヤツに手を伸ばした。それを取って、滝本は笑った。
「ありがとう、すり鉢姫」
そしてそのままあたしの伸ばした右手首を掴んで引っ張った。
「え?」
ぐいっと引っ張られてそのまま滝本に倒れこみ、顎を固定されたと思ったら、滝本の唇が降りてきた。
日中に、道路の上で。
気がつくとあたしは憎たらしい相手にキスをされ、呆然としていた。
ヤツがつけているらしいグリーンノートの香りがふんわりとあたしを包む。眼鏡の淵が顔に当たって痛い。
唇を押し付けた後、ついでのように舌で下唇を舐められ、顔を離した滝本が言った。
「・・・・いつも他人のキスシーンばかり追っかけて見てなきゃいけない仕事なんだ。たまにはする方になってみたくてね」
「・・・・は・・・」
「唇、噛むのは止めたほうがいいな。折角のキスが鉄の味じゃ味気ないだろ」
そして笑ってあたしから離れた。
「じゃ、明日10時に、事務所で」
滝本が立ち去ってもあたしはしばらく呆然としたままバカみたいに突っ立っていた。
通りすがりの女性二人組みに見られていたらしく、いやあねえ、道でべたべたしちゃって、という非難の声を聞き、やっと覚醒した。
・・・・あの男・・・・。
あたしはわなわなと震える両手を見下ろした。
・・・・あの、男・・・・・・!
畜生、あの野郎!散々見下した上にキスまでしやがったああああ〜!!
あまりに驚きが大きいと咄嗟に動けなくなるって本当なんだ、と後で冷静になってから思った。
だけどその時のあたしは怒りに震える余り、丁度目についた空き缶を滝本の郵便受けに突っ込むことに集中していたので何も判らなかった。
ばかばかばかばか!あたしのバカ!!ごしごしと乱暴に唇をぬぐって、その場で地団駄を踏んだ。
畜生・・・!
あたしはイライラと町を歩き回った。
そしてその後ずどーんと見事に凹み、よろよろと自分の家に帰ったんだった。経験したことなんてないが、奈落の底まで落ちるというのはこんな感じだろうか・・・。
キスなんてするのは3年ぶりくらいだ。それなのに、隙をつかれてやられてしまった。あの男にあの男にあの男に!
しかも呆然として、突き飛ばすことすらしなかった。
そしてヤツの吐いた理由が、「いつも人のキスシーンばかり見てるから」などと言うふざけまくったモノだったのも屈辱感を増幅させた。
あああああ〜・・・・・。
見た夢の中で滝本にされたキスシーンが何度も出てきてはあたしを苦しめた。途中で起き上がってビールを3本流し込み、酔いに力を借りて眠ったほどだった。
そして、夜は明けていった。
[ 11/27 ]
←|→
[目次へ]
[しおりを挟む]