1、さようなら、魚屋さん。


 春。

 私は縁側で寝転び、昼間っからビールを飲んでごろごろしている。

  まだ若干冷たい風で冷えないように、厚手のカーディガンを着てもこもこのソックスをはいた足を立て、それをたまにパタパタと動かしていた。

 はあー・・・極楽。

 やっぱり人生はこうでなくっちゃ。

 この年明けには私は目出度く人妻となり、最近では大学の時からの男友達である超イケメンの楠本孝明が白雪姫のような外見の常識的でマトモな女と無事に結婚した。

 そして、卒業入学引越しなどの『春の繁忙期』を終え、百貨店もやっと落ち着いてきた頃だった。

 折角自分好みに自力で改装したのに半年しか住まなかった職場から10分のアパートを出て、同じ大家さんが持っていた平屋の一軒家を格安で譲ってもらい、私達は夫婦で移り住んだ。

 ここも、職場の百貨店は近い。

 しかも3LDKで、平屋で、何と素敵な庭までついていた。

 私を気に入ってくれていたらしい金持ちの大家さんが、もう使ってなくて傷むばかりだからと恐ろしく安い金額で売ってくれたので、両親が私の嫁入り資金にと貯めてくれていたお金も余り、それでまた自分好みに改装したのだ。

 そして今いるこの縁側が私のお気に入り。

 ここでビールを飲むのが最高のひと時。

 私は小川まりと言う。・・・・訂正、戸籍上は桑谷まりになったんだった。なんせ独身からいた職場ではまだ小川姓で仕事をしているので勿論そう呼ばれるし、桑谷さんと呼ばれてもついスルーしてしまうのだ。

 31歳、百貨店の地下の食品売り場で、チョコレート屋の販売員をしている。

 そして私が人から桑谷さんと呼ばれても気付かないことに不満を漏らしまくっている夫、桑谷彰人34歳も同じ百貨店の地下で働いている。

 ただし、あちらは百貨店の社員で、鮮魚売り場の責任者だ。私はメーカーの人間で、桃源堂という名前のチョコレート屋さんの準社員。

 お互いの売り場から姿が見える間柄で、百貨店の人間からもメーカーの人間からも何かとネタにされているらしい。

 1年前に出会ってから結婚までが早かった。

 去年の今頃は私は、まだ現在は様々な罪で入牢中の悪魔の化身であった守口斎という男と付き合っていて、痛い目を見る前だったんだな。

 ・・・ま、あれは思い出したくもないんだけど。

 1年経ってみると、私は人妻。それも、一癖も二癖もある色んな意味で凄い男の妻。

 ・・・なぜ、こんなことに。最近でもそう思うくらい忙しく目まぐるしい一年だった。

 今日は彼は出勤だけど、私はお休み。

 午前中に家事を済ませてしまったので、私はまた縁側でビールを飲んでいるというわけ。

 顔に春の光りを受けながら、少しうとうととしていた。

 頭の横あたりにほったらかしの携帯が振動してメールの着信を告げる。

 この揺れ方は彼だ。

「・・・うん?」

 私はゆっくりと目を開ける。

 珍しいな、仕事中にメールなんて。何だろう・・・。

 結婚してからは一緒に住んでいるので彼とはあまり電話もメールもしなくなった。

 職場も一緒なので休憩時間がかぶったりもして、話す機会などいくらでもあるからだ。

 私は手を伸ばして携帯を掴む。

 片目だけを開けて、本文を読んだ。

「・・・・おやまあ・・・」

 彼からのメールはしごくシンプル。

 ―――――人事異動だと。魚屋は終わりだ。次は3階、スポーツ用品店――――

 ・・・・えー。魚屋終わっちゃうのか・・・。残念。

 2年が経っているから人事異動の対象になるかもとは言っていたけど、やっぱりなっちゃったんだな。

 残念。これでもう売り場からは彼の姿は見えなくなる。

 百貨店側の制服と白い防水長エプロンに身を包み、ゴムの長靴をはいているの、似合ってたのに。

 スポーツ用品店になるなら今度の制服はジャージやトレーニング服だな。180センチを越えていてスラリとはしているけどガッチリした岩みたいなあの体、百貨店と提携しているメーカーやブランドのゴルフウェアやジャージに突っ込んだらまた別の意味で目立つんだろうな。凄く、トレーナーっぽい・・・。

 まあ、今は長髪ではないし、そこそこ似合うかも・・・。

 出会ったばかりの彼は、理由あって髪を伸ばしており、肩を越える長髪を後ろでひとつで束ねていたのだ。

 あーん、残念。

 私は起き上がってビールの残りを飲み干し、つまみにしていたクリームチーズを口の中に入れる。

 彼は今日早番で出勤だ。だから夜も7時には帰ってくる。そしたらまた詳細を教えて貰おうっと。

 縁側に座って足をおろし、ぶらぶらと揺らす。

 そして、色んな知り合いがいる彼がどこからか連れて来た男性が作ってくれた庭を眺める。私の好きな植物を植え、手入れ方法を教えてくれたその人は、別に庭師ではないと言っていた。

 履歴書を書かせたら前職の欄に警備会社と調査会社が並ぶ変わった経歴の桑谷さんは、私が変な顔をして一体あの人どこから連れてきたの?と聞くのを楽しそうに笑いながらかわしていた。

「じゃ、桑谷さん、いつかまた」

 手をあげてそう言いさっさと消えてしまったその男性が、結局どういう人だったのかはまだ私は知らない。最後まで名前すらも聞かなかった。

 植樹もしてもらってるのにお金も取らなかったのだ。

 私の好きな、白木蓮がちょうど咲き、毎日私はここで観賞している。この次は牡丹も咲く。そして新緑の紅葉。

 嬉しい。

 子供の頃から移動ばかりの生活をしていたし、大人になってからはアパートで一人暮らしだった。だから家を買って庭を造るというのは心の中の深い深い場所に存在した夢だったのだ。

 愛する男性と結婚し、家を持ち、庭がある。


 私はふんわりと微笑んだ。

 素晴らしい。私は、全部を手に入れている。




 夜、台所で晩ご飯の支度をしていると、彼が帰ってきた。

「ただいま」

「はいお帰りー」

 私は振り向きもせずに声だけを返す。鍋の中で味噌汁をといていて、目を離したくなかったのだ。

 荷物を椅子に置いた音がして、背中からガッシリとした腕に抱きしめられる。

 ふわりと彼の香りが私を包んだ。

「・・・うーん。まだ感動がある。君がいる所に帰れるってことの」

 彼の低い声が私の耳朶をくすぐる。私は相変わらず味噌汁から目を離さずに、淡々と答える。

「良かったわね」

「・・・・」

 ちぇ、と呟いて腕をといた。

「これだから自立した女ってのは面白くない」

 私はふふふと笑う。

 付き合っている間に散々同居を断られ、プロポーズをしても待機を要求されて来た彼は、未だに信じられないとよく口にするのだ。

 本当に、俺、君と結婚できたの?って。


 手を洗ってから食卓の準備を始めた彼をようやく振り返って、私はにっこりと笑った。

「はい、完了したわよ」

 ん?と振り返る彼に人差し指でおいでおいでをして、私は腕を伸ばした。

 普段は冷静な光りを放つ黒い瞳を細めて、彼が近づく。

 私は首に腕を回して背伸びをし、ゆっくりとキスをした。

 口元を緩ませて、彼が呟いた。

「・・・まったく、敵わねえよな・・・」

 私の腰に手を回して引き寄せた。そして微かに首を傾げて言う。

「・・・君のエプロン姿、見たことないんだけど」

「ないでしょうね、着たことないもの」

 ・・・何だ?どうしていきなりエプロンなのよ。

「しねーの、エプロン?」

 私は唇までのギリギリの距離を保ったまま聞く。

「それって必要?」

 彼は口の端をきゅっとあげて笑った。子供みたいな無邪気なその笑顔は、たまにいきなり出現する。

「台所のエプロン姿が、新妻って感じがするんだ」

 ・・・おやまあ、それはえらく可愛らしい新妻の定義だこと。

 私は心の中で笑う。エプロンにおたまを片手に持って微笑んでる私なんて、ちゃんちゃら可笑しくて笑っちゃうってもんである。ついでに頭には黄色のターバンでもまいとく?って。

 私に似合うのは――――――

「エプロン、着てもいいけれど、その下は多分裸よ」

 彼はひゅっと眉をあげて、そのあと笑顔を苦笑に変えた。

「・・・まったく、何てこと言うんだ」

「問題が?」

「いいや。もの凄く、君らしい」

 そして笑いながら私をきつく抱きしめて言った。買いに行かないとな、エプロン、って。

 大きな手を自分のお尻に感じながら私も笑う。

 誘惑なんて、本当、簡単だわ。


 野獣と化しかけた彼を笑顔で脅して晩ご飯へ意識を切り替えさせ、向かい合って食事を始めた。

 本日働いていない私も彼と一緒にビールをあける。

 乾杯、とグラスをあわせて、二人でガツガツ食べた。

「それで、いつで鮮魚は終わりなの?」

 私が箸を止めて聞くと、彼も、ああ、と言って箸を止めた。

「引継ぎがあるから来週からだ。鮮魚にはリカーの池谷が来るらしい。あいつはマーケットも長いから、すぐ慣れるだろうけどな」

 リカーの池谷さん?私は首をひねる。

「・・・どんな人?」

「君くらいの背で、眼鏡かけてる茶髪の男だ」

 うーん、と考えて、やっと判った。ああ!あの人かあ・・・。そしてつい笑ってしまう。

「うん?」

「・・・池谷さん、鮮魚の服似合わなさそう・・・・」

 ってか、雰囲気も。

 リカーの人間は百貨店の中でも一番スマートな制服を支給されている。お酒はビールからワイン、ブランデーやシャンパンもあるので、イメージとして洗練されてなければ格好がつかないからだろう。

 それに比べて、鮮魚は所謂魚屋さん。制服の黒いシャツの上には長いエプロンをつけるし、生物を扱うので長袖を着ていても腕まくりをしている。アルバイトや準社員さんは売り場の移動がないので、やはり声の大きい勇ましい感じの男の子が多い。

 呼び込みや品だしも手を叩いたり大声を出したりで、市場そのものの荒っぽさがあったりするのだ。

 そこに、あの、きっちりと直立不動で立っている、池谷さん・・・。

「あはははは」

 つい声に出して笑ってしまったら、こらこら、とたしなめられた。

「笑うな笑うな。あいつはあれで凄いんだぞ。きっとすぐ馴染む」

 ふーん。そうなのか。私は頷いて食事を再開した。

「楽しみにしとこっと」

 彼が椅子にもたれて、それにしても、と呟く。

「良かった〜・・・他の百貨店への移動じゃなくて。今のとこ4年いるから、もう他店に異動かと思って人事に呼ばれた時緊張した・・・」

 そうだよね・・・。と私も頷く。

 折角職場近くに家も買ったのに、遠くの百貨店勤務になったんじゃ辛いところだ。ところが今度も階が変わるだけで、場所は同じだから基本があまり変わらない。

 それにスポーツ用品店は3階の部長直属になるらしく、責任者からも降りれると喜んでいた。

「・・・責任者外されて喜んでていいの?」

 一応聞いとこう。なんて上昇志向のない男なんだ。そういう地位がない場所へ異動だから左遷ではないにせよ、やっぱり、落ちたの?って人に聞かれそうな状況なのに。

 彼は口元だけで笑う。

 これが、桑谷彰人だ、と思うような多分に含みのある笑顔だった。あの冷静な黒い瞳からは感情は読めず、それを細めて更に光りを消す。唇の左端だけを少しあげて笑顔を作っていた。

「いいんだ。責任なんてものは呼称がなくても引っ付いてくるもんだし、別に名刺を配らなきゃならない職業でもない。気楽な身分がいい」

 ・・・そうですか。

 私が肩をすくめてビールを飲み干すと、彼が聞いた。

「責任者ってついてる方がいいか?妻の頼みなら俺頑張っちゃうけど?」

 私はチラリとグラスの淵越しに彼を見て、テーブルの上の空いた缶を素早く彼に投げつけた。

 椅子にもたれたままで全く微動だにもせずに、それはあっさりと片手で受け止められる。

 ・・・くそう。面白くない男だ。

「その軽いキャラ、何とかなりませんか」

 私の嫌そうな声に桑谷さんはカラカラと明るく笑った。

「無理。多分、俺、元々こういう性格なんだよ。君と出会って昔の顔が出てきてるんだ」

 私はふん、と鼻をならす。

 そうでないことを知っている。彼のお母さんは明るく強い女性なのである程度は受け継いでいるだろうけど、彼のこの軽いキャラは自分を抑えるために本人が作り出したものに違いない。

 年齢の割りには驚くほどにシリアスな場面を潜り抜けることの多い人生だっただろう。軽口を叩いて笑い、雰囲気を軟化させている。それでもたまに獰猛な野獣のような表情を見せることがある。

 元々、何かを追いかけることや突き止めることが好きなのだろう。非常に男性っぽい外見と思考回路で、黙って立っていると人に恐怖心を与える男だった。それが判っているから、ふざけて笑うのだろうと。

 『日常生活に根付いている職業ならまともでいられるかと思って』選んだらしい今の仕事も、やすやすとこなしながらそれを物足りなく思っていることがあるのに私は気付いていた。


 だけど、彼がそれでいいと思っているなら。

 私もそれでいいのだ。

「もう一本飲む?」

 彼が立ち上がる。

 私はにっこりと笑った。

「頂きます」


 それで、彼がバランスを保つなら―――――





[ 1/18 ]

 |
[目次へ]

[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -