1、あの海へ。
予想した通りに、百貨店では洋菓子の小川が妊娠したとの噂が凄いスピードで広がった。
そんな面白い情報を何で早く教えてくれないんだ、と福田店長はメーカーの人間に言われまくったらしい。私だけが知っていたのよ〜と自慢したわ、と手を叩いて喜んでいた。
・・・そんなこと、自慢になりませんから。
そして水面下では、桑谷家に生まれる子の性別を賭けて金銭が動いたらしいと、情報通の隣の店の田中さんが言っていた。だから、私に最初に教えてね!そっちの方に賭けるから!とお目目をキラキラさせて言っていた。
あはははと笑いながら、絶対に、教えないぞ、と私は心に誓った。実際に医者にも性別が判れば聞きたいですか?と聞かれ、断った。
男でも女でも、この子はこの子だ。生まれてきたら、その時の楽しみに取っておきたい。彼もそれでいいと言っていた。両実家は、それぞれがそれぞれに楽しみに待っているらしい。
よく彼のお母さんのところに行って、色んなことを話したし、実家との電話の回数も増えた。
子供が出来るということの影響力を、私は初めて知ったのだ。
それは、驚くべきことだった。色んなことが、色んな方面で。
8月に入り、百貨店は夏の大繁忙期を迎える。
だけどパートになっていた私は納品を免除して貰い、遅番を基本に出勤もセーブしていたので体が疲れることはなく、繁忙期の雰囲気を楽しんだ。
制服が入らなくなり、新しい社員さんが売り場に来て引継ぎをし、そして、私が退職する日が来た。
1年と3ヶ月しか居なかった。
だけどその間、何とたくさんの事があった職場だったか。
面白かった。
近いので、いつでも遊びに行けるからと、送別会はやめてもらった。そんなことされたら来難くなる。
「本当にお世話になりました」
低く頭を下げて、福田店長に挨拶をする。
今生の別れでもないのに、店長は涙ぐんでいた。私は竹中さんとそれを笑う。
「仕事も金もなかった私を拾って下さった恩は一生忘れません。お陰で、桑谷さんとも出会えましたから」
そう言うと、今度は照れていた。何て可愛い人なんだ。
さらりと手だけを振って、私は売り場を後にする。
店員通用門で販売員の入店許可証を返し、ドアをあけて外に出た。
予感はしていた。
だから、また壁にもたれる長身の姿を見て、笑ってしまった。
そういえば、この人が初めてここで私を待っていたあの夜、それが全ての始まりだったんだ。
あの晩彼に抱かれて、今への道に繋がった。
まだ長髪だった桑谷さん。呪いも解いてなくて、夜中に怯えて飛び起きることがあった彼。
ここで、同じように私を待っていて、黒いTシャツに緑のカーゴパンツ姿で、見下ろして口元で笑っていた。
その人が、今ではもう私の夫に。
私は右手を差し出す。彼がそれを取って包み込む。
「お疲れさん。・・・何で笑ってんだ?」
「きっと待ってると思ってたの。そしたら、本当に居たから」
「判ってると思ってた。どうだった、最後は?」
私は彼を見上げてにっこりと笑う。
「楽しかった」
説明してあげた。この子の性別で皆お金賭けてるんだって!と。彼は苦笑して、デパ地下は暇人の集まりだ、と簡単に言い切った。
私はふとその気になって、聞いてみた。
「ねえ、あなたはどっちがいい?あえて言えば、だけど。男と女」
私をちらりと見て、彼はしばらく考えていた。うーん・・・と唸る。
「――――――・・・君の外見で、中身は俺の女の子」
うん?私は眉を寄せる。
「どうして?シンプルに私に似た女の子、でなくて?」
「・・・君みたいなのがもう一人いたら俺が大変だ」
憮然とする。何だその言われようは。だから言い返してやった。
「あなたみたいに短気で頑固な女の子は大変よ」
「君みたいに無鉄砲でハチャメチャな男の子はもっと大変だ」
うううー・・・とお互いに唸る。
まあいっか。どっちに似ても、無茶苦茶なのはあまり変わらないし。そう言って、最後には笑っていた。
真夏の夜で、明るい都会でも小さく光る星は見える。それを数えながら家に帰った。
二人で、同じ家に帰った。
9月が来て、桑谷さんは35歳になった。
誕生日に、何が欲しい?と聞くと、ニカッと豪快に笑った。・・・久しぶりに見た、この子供みたいな笑顔・・・。
「もういい。俺が欲しかったものは手に入ってるから」
私が自分の顔を指差すと、彼はうんと頷いた。
「・・・いや、そういうことではなくて。あるでしょ?靴下が欲しいとか、鞄が欲しいとか」
もっと現実的な物の話をしてるのよ〜。私が頭をかきながら言うと、そうだな・・・と暫く悩んでいた。
「ううーん・・・・でも、やっぱり別にねえな」
「何も?」
「何も」
私は感心する。凄い、私なんかこの人に比べたら物欲の塊だわ。
彼は私の為に庭の植物に水を遣りながら考えている。
「家あるし、仕事もある、飯も食える、妻もいるし子供まで生まれる・・・体は健康で頑丈。後、何が必要だ?」
そうだねえ・・・。ホント、満ち足りてますね。私は仕方なくそういう。
私には現在自分の稼ぎがないので、買うっていってももとを正せば彼のお金だしな・・・。うーん、早く働きに出たいぜ。
そんなことを考えてぼーっとしていたら、そうだ、と彼の弾んだ声が聞こえた。
「はい?」
水を止めてホースを巻き、彼が戻ってくる。ニコニコしていた。
「海、行こうぜ」
「え?」
「あの海へ行こう。それが誕生日プレゼント」
私は目を瞬いた。
・・・・・あの海へ。去年、ストーカーから監視される生活で仕方なく同居をしてストレスが溜まって爆発寸前の私を、桑谷さんが連れ出してくれた、あの海へ。
彼が泣いているように感じた、小さな姿になったように感じた、あの海。ミルク色の景色、誰も居ない砂浜、私の零した言葉、彼の透明な瞳。
私は顔中で笑った。
「では、今から」
丁度彼が遅めの夏休みを取れていたのもあって、連休中な私達だった。私は安定期に入っていたし、今度はゆっくりと支度をして、あらかじめホテルもとり、車で出発した。
晩ご飯を食べたサービスエリアにもよってお茶をする。私の体を気遣って、ゆっくりの旅だった。
前は晩秋だったんだ。だから、風は冷たかった。だけど今はまだ9月の半ば。まだ太陽は高く、景色はミルク色ではなく、もっとハッキリとした色彩に溢れていた。
人影もある砂浜を手を繋いで歩く。風が吹いて砂を飛ばす。
「あの時は、本当に失うと思ってた」
彼が呟いた。聞こえにくくて、私はもっとそばによる。
「何?」
「君を、本当に失うと思っていたんだ」
振り返って笑った。
「でも約束をくれたから、元気になれたんだ」
私が、彼に約束を。・・・・したっけな。うん、したよな。ってか、え?あれって約束だったっけ?
まあいいや、彼がそれで幸せなら、と私は適当に頷いて、手を離し、砂浜に座り込む。
この広大な景色の中で、過去なんてどうでもいい。私に大切なのは、いつでも今と未来だけ。
まだ砂は熱くて、それが肌に気持ちよかった。
「・・・砂だらけになるぞ」
彼が言う。私はそれを笑い声で打ち消した。
「砂浜なんだから、当たり前でしょう!」
手で砂をすくっては飛ばす。それを、飽きもせずに繰り返していた。
彼は水際で水平線を眺めている。私はたまにそれを目で確認する。
時間が経って、空が赤に染まり始め、夕焼けの時間になった。その美しいグラデーションを顔を上に向けたままでひたすら目に焼き付ける。
何て、綺麗な。
この世界は本当に美しい。
砂を踏む足音がしたと思ったら、彼が近くまできていた。
「・・・そろそろ戻るか?」
ホテルを指差す。
私は無視して前に座れと砂浜を手で叩く。苦笑した後で仕方なく、彼も靴を脱いで私の前に座った。
「ねえ、名前何にする?」
「うん?」
「男でも女でもどっちでもいい。でも名前は決めておけるじゃない?何がいい?」
いきなりそんなこと言われてもな・・・と彼は頬をかいていた。
夕日が目に入って、眩しくて閉じる。
子供の名前に関しては、両実家にも聞いたのだ。つけたければ、どうぞって。すると両方から、あなた達の好きな名前を、と返事が来た。
彼にそれを伝える。
「男の子なら?」
「・・・日本人の名前がいい」
「うん?平蔵とか、そんなの?」
「何で鬼平犯科帳なんだ?」
・・・おお、知ってたのか、桑谷さん。池波正太郎さんのあの素晴らしいシリーズを。読まなさそうなのにな。
「お父さん、何て名前だったの?」
「俺の?―――――和人」
かずひと、ふーん、やっぱり桑谷さんの名前は、父と同じようにとつけたんだな。かずひとで、あきひと。
「ちなみにおじいちゃんは?」
少しだけ考えて、確か、と口を開く。
「・・・隆人・・・だった、と思う。あんまり記憶にない」
たかひと、かずひと、あきひと、かあ・・・。ならやっぱりそれに繋げるべき?
私の考えが読めたようで、彼は顔を顰めた。
「同じようなの考えてるだろ。縁起がよくねえぞ。あいつらは早死で、しかも自殺者だからな」
私はぺろりと舌を出した。
「だから、歴史を変えたらいいじゃない。あなたと子供で」
ふん、とそっぽを向いた。
風が通って、夕焼けが段々力を失っていく。私はまだ砂を触りながら、また口を開く。
「じゃあ女の子は?」
「ゆり」
「え?」
彼はにやりと笑って言う。
「そしたら、まりとゆりになる」
・・・・・同じことしてんじゃないの、自分だって。
「もしくは、えり」
まだ言うか、と思って、砂をかけてやった。風があって避けきれず、彼は頭から砂を被る。
「うわあ!・・・何てことすんだ・・・」
あーあ、と言って彼は立ち上がり、犬みたいに体も頭もぶるぶる振って、砂を落とした。
そして私に手を差し出す。
夕日に照らされて彼の顔には影が出来る。その半分の笑顔で、私を見詰めていた。うふふと笑って彼の手を握る。そして引っ張り上げられて、私はそのまま反動を利用して、不安定な砂の上に爪先立ち、彼にキスをした。
去年と同じ。塩味のキス。今年は更に砂つき。
「・・・ありがとう。全部」
不意をつかれた彼は驚いたようだったけど、ゆっくりゆっくり、夕日に照らされながら、笑顔を大きくした。
「・・・全部って、何だ?」
私は真っ直ぐに見詰める。この素晴らしい紅色の世界で、正直にならない人なんているんだろうか。
「私のことを考えて、玉置さんに何もせずに放免したのが判ってる」
彼が真面目な顔になった。
「・・・知ってたのか」
「そう」
これから子供を産む私を気遣って、その影響を考慮して、彼は玉置桜子を許したのだと、判っていた。
感情がもろくなっている私の前で、いかに酷いことをした女だったとしても、ぶちのめす事など出来ないと考えたのだろうと思う。
彼は、優しい人間ではない。むしろ自分の大切にしているものに危険が及ぶなら、すぐさま原因を叩き潰すタイプの男だと思う。
自分の手で、あの女を潰したかったはずだ。
だけど、冷静な頭でその獰猛な自分を殺して、私を守ってくれたのだと。
知っていた。
でも言えなかった感謝の気持ちを、ここで夕日に力を借りて伝えよう。
「あなたと生きていて、私は幸せなの」
手を伸ばして彼の頬に触る。指で砂を払う。
「それは忘れないで下さい」
彼は頷いた。判ってる、と言ったみたいだった。
夕日は海に沈んでしまい、空には群青の世界が訪れる。私達は前と同じく砂だらけになりながら、ホテルまで帰った。
私はホテルの部屋の窓辺に一人用のソファーを持ってきて、座っている。
去年と同じように、桑谷さんは寝てしまっていた。
暗い海を一人で眺める。海も空も同じ色で境界線なんて今は判らないけど、明日になれば、また色が溢れて海と空を分けるんだろう。
お腹を撫でながら、それをじっと見ていた。
静かな夜の中。私は窓辺に一人。それはやはり、とても落ち着いた。
ふと、思いついた。
手元にメモ用紙を引き寄せ、ガラスに紙を押し当てて書く。
女なら――――――茜。男なら―――――――雅洋。
あかね、と、まさひろ。圧巻の夕焼けと素晴らしい海に名前を頂こう。まあ、細かいことを言えば茜とは植物の名前だし、別に雅な海洋でなくてもいいのだが、音が気に入ってしまった。
私は一人で笑う。そして丁寧にその紙を折り畳んだ。
明日、夫婦会議だ。
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