2、桑谷彰人の奮闘。
何とか遅刻もせずにヨロヨロと売り場について、呆然としながら休憩までを過ごした。
そしてだんだん痛みだした玉置にぶたれた場所が熱を持っているのが判った。
・・・畜生、あのクソ女。もっと殴ってやればよかった。でも桑谷さんの邪魔・・・いやいや、助けがなければ、今頃は母子共に大変なことになっていたかもしれない・・・。
私のお腹の子供も、よくよく生命力が強いらしい。それは、素晴らしい。
お昼ごはんを食べて、万が一桑谷さんと出くわすと面倒臭いと思って早々に売り場へ戻り、よく考えたら夫にはバレたんだ、と思って、売り場の口止めを解いた。
「今まで黙ってて頂いてありがとうございました」
本日のパートナーである、大野さんに頭を下げる。
彼女はいえいえ、と笑って、いたずらっ子みたいな顔して言った。
「桑谷さんに話したのね?」
私はいや、それが、と顔の前で手を振る。
「バレちゃったんです。だから、もういっか、と思って」
ヤツの前で母子手帳を落としてしまったってことにしておいた。
「あらあら・・・まあでも、流石に5ヶ月にはお腹も出てくるから、早晩言わなきゃならなかったでしょうけどね。周りにも告知するほうが、危なくないしね」
「はい、そうですね」
もう大っぴらに話せるからと、育児の大先輩である大野さんに色々を質問をしたりして、その日を過ごす。
きっと明後日にはまた全員が私の妊娠を知っているんだろうなあ、と思いながら閉店作業をした。
取りあえず、早番で帰ってるはずの桑谷さんの尋問を家で受けなきゃなんない。もう面倒臭いから、悪阻ってことにして、うう〜とか、苦しんでみせる?倒れてみせるとか。そしたら短時間で終わらせれるかも、などとあくどい事を考えながらロッカーを出て店員通用門を出ると、少し先に壁にもたれる長身の影を発見した。
・・・・・・くそ。何て先回りする男なんだ。
私はため息をついて彼の元へ向かう。
「・・・何してるの?」
一応聞いてみる。眉をあげた彼は、別に機嫌は悪くなさそうだ。
「懐妊した妻を迎えに来た」
「・・・それは、どうも」
すると彼はそれ以上は言わず、私の荷物を奪い取ってするりと手を握り、歩き出した。
私は隣を振り仰ぐ。
「怒ってないんですか?」
「君の秘密主義に腹を立てるのは諦めたんだ」
彼は淡々と答える。
・・・・それは、賢い。ってか、別に秘密主義なわけじゃないんだけど・・・。反応が読めなかったから言わなかっただけで、しかも、タイミングもいつも微妙だったし・・・。
私が口の中でもごもご言い訳をしていると、彼の声が聞こえた。
「それで、夏前からの色んなことが合点いった。アルコールを止めたとか、ふれあいが減ったとか、体調不良とか、感情の起伏が激しいとか、あの出血の時、君が嵐のように去っていったのとか。―――――病院に行ったんだな」
私はコクン、と頷く。
「子供は、大丈夫だったけど。でも産科の先生にレイプされたのかと心配された」
ううう〜・・・とガックリ肩を落として、彼は一瞬で凹んだ。足も止まる。
「・・・・そりゃそうだよな。よく無事だったな。自分で思い返しても、あれは酷かった・・・」
私はちょっと微笑んで、手をひっぱって歩行を促す。
「私も子供も生命力が強いのよ、きっと」
彼は歩き出したけど、ブチブチ言っている。
「せめてあれの前に言ってくれたらよかったのに・・・」
「いつ言えたの?」
私は呆れて彼を見上げる。
「ん?」
「電話をかけたらあなたは一方的に話して18秒で電話を切った。ベッドに連れ去られてからは一言だって喋らせてくれなかった。それで、一体、いつ言えるの?」
ぐっと詰まる。そしてまた低く唸っていた。
「妊娠が確定するまではもしもを考えて言いたくても言えなかったし、その間にもあのバカ女からの攻撃があって私はストレスが溜まっていた。繁忙期が始まる前に仕事の事もどうにかしなきゃだし、あなたはバカ女を庇ってわからず屋になっていた。だから、出て行ったのよ」
・・・それに。
「それに、私、あなたに言った。子供が出来たって」
桑谷さんが、え?と私を見下ろした。
「・・・知らねえぞ、そんなこと」
「言ったの、ちゃんと」
彼は本気で考えこんだようだった。眉間に皺を寄せて、宙を睨んでいる。
「・・・・いつ」
「私を迎えに来て、無茶苦茶にした夜・・・でなしに、その明け方」
彼は目を閉じて深いため息をついた。
「その時、俺寝てなかった?」
素直に頷く。ま、確かに熟睡中ではあったしな。
「寝てた」
「・・・そりゃ無理だろ。聞こえてない」
話している間に家についた。
玄関に入った時に、そうだ、と思い出してこれだけは、と口を開く。
「今日、どうしてあんなにタイミングよく北階段にいたの?」
桑谷さんはドアに鍵をかけながらさらりと答えた。
「玉置をつけていたから」
「え、そうなんだ」
靴を脱ぎながら話す。苦笑していた。
「彼女から目を離さないって言っただろ?同じ3階で、売り場が近いから出来たんだけど。接客してて、振り返ったら玉置が消えてて焦ったんだ。文具に聞くとゴミ出しに行ったって言うから、急いで1階に行ったけど、いない。エレベーターは一機も動いてない。なら、階段しかない。俺は―――――」
にっこりと笑った。
「君が北階段を使うのを知っている。だから、念のためにと昇ったんだ」
・・・そしたら、私たちがどつき合いをしていたわけね・・・。
納得した。
勿論晩ご飯は出来ていないから、分担して家事をやることにする。
そしてお風呂に入ってから食卓につき、それも終わった夜の11時、テーブルでお茶を飲みながら、彼が私の家出中にしたことを教えてくれた。
「今回は」
クーラーのスイッチを切って、窓を全部開け放って風を入れてから、彼が言った。
「君がいつか帰ってくることは判っていた。だから君を探すより、とにかく本当に玉置がやったのかどうかを調べようと思ったんだ」
私は冷え防止に着ていたカーディガンを脱いで、え?と彼の顔を見た。
「・・・だって、あなたは彼女じゃないって・・・私の考えすぎだって言ってなかったっけ?」
「そうだな。でも俺は、君の頭を見くびったことはない。君がこうだと思っているなら、それ相応の理由があるんだろう、くらいは思う。・・・後で聞くと、その理由が口喧嘩の内容だったとは思わなかったけどな」
私は首を傾げて手を振った。
「・・・まあ、言ってなかったものね、こんなこと言われた、とかは」
「それで」
椅子にもたれて私をじっと見ている。思い出しているような顔をしてゆっくり話していた。
「前の百貨店のやつらを飲みに誘った。人事異動の話で盛り上がり、その中に玉置の話題を入れて様子を見てみたんだ。すると、一瞬で皆の反応が悪くなった。口にしちゃいけないことのように黙ってしまう」
去年の夏に首を突っ込んで元彼の守口斎と戦った時にも思ったけど、この人は行動が本当に早い。そしてスマート。人間の行動理由をよく読んでいるのだろう。実にさりげなく、的確に、情報を手に入れてくる。
「社員の女一人の異動に何が隠されているんだと追求すると、酔っ払ったヤツらが話し出した。彼女にはよくない噂があると。何人かの男が金をせびられ、支払ったことがバレて離婚になったらしい、とかな」
ここで、俺、飲んでいい?と聞くので、私は手の平をキッチンに振った。
「どうぞ。今では私、あまり惹かれないようになってるの。ビールの缶を見ても」
桑谷さんが戻ってきてグラスにつぎ、飲むまで黙って待っていた。
ふう、と息を吐いて私に視線を戻す。あの、冷静な黒い瞳に私がうつる。去年からそうだった。そして、これからも続いていく。
「・・・だから、俺は直接吉田に話しを聞きに行った。もうこちらも隠さずに、君の家出までの全部を吉田に話した。そしたら、玉置に言った話をしてくれたんだ。その嫌がらせは、きっと桜子だと。妊娠出来ないと判ってから、桜子は変わってしまったって。手術の後遺症で妊娠出来ないと判ったのは、結婚してからだったらしい。吉田はそれでもいいと言ったそうだけどな。・・・彼女は、壊れたんだな」
私は黙って聞いていた。
それは確かに、物凄い衝撃だったんだろう。だけど、私はそんな女に同情しない。同じことになったとしても、私なら、そうはならないと思うから。
「玉置の弱みを見つけ、脅すしかないと考えていた。証拠がない限り訴えることは出来ない。君が仕事を辞めるとは思えない。同じ百貨店で騒動が起こらないようにするには、玉置を脅すしかないな、とな」
私は少しだけ笑った。・・・母と全く同じことを考えたんだな。やっぱり配偶者には、身内の誰かと似ている人を選んでしまうって本当なんだ。
「それって、犯罪よ、桑谷さん」
私の言葉に彼は首を傾げる。だから、何だ?と言ってるみたいだ。この反応まで母と同じだった。
「俺は」
言葉を切って、ビールを飲み干した。
「君のためなら喜んで罪だって犯す」
現在、妊娠の影響で感情の起伏が激しくなっている私は、喜びを隠すのに苦労した。だけど落ち着いて息を吸い、出来るだけ表情を変えないで言った。
「―――――・・・子供の父親が犯罪者ってのは、あまり喜ばしくないわ」
私の言葉に彼は軽く頷いた。
「判った。これからは、しないでおく」
「出来る限り?」
彼はからかうような顔をして、人差し指を振る。
「そう。だけど、また、君が逃げ出すなら話は別だ」
私は一度言葉を切って、微笑んだ。・・・・そろそろ、話さないとダメなんだな。私が出た理由は溜まったストレスじゃないんだって。
「・・・逃げたんじゃないわ」
「うん?」
「私は、あなたを守ったのよ」
桑谷さんが真面目な顔をして止まった。私をじっと見ている。
「ああしなきゃ、翌日には離婚届だった」
彼の拳が握られたのを見た。無意識かどうか、目も細めている。
「でも」
私は続ける。
「私なしではあなたは潰れる。もう去年までの弱みのないあなたには戻れない。だから、離婚を回避するために出て行ったの。時間が必要だった。あなたが考える時間、私が息をする時間」
彼が瞼を閉じて手の甲で拭う。そのままで小さく呟いた。
「―――――・・・俺なしでは君も潰れるんだと言ってくれ」
「いいえ、私は大丈夫」
ガックリと彼は頭を垂れた。
「あなたを失ったら、4,5年は奈落の底を彷徨うでしょう。無傷ではいられない。だけど潰れたりはしないわ。女は現実的なのよ。消えた男をいつまでも想って泣いたりしない」
彼はそれを聞いて、苦笑まじりに手の隙間から私を見た。
「・・・そこは嘘でも、ええ、私もそうよって言うところじゃないのか?」
私は目を見開いた。
「嘘をついて欲しいの?」
ううー・・・と唸ってテーブルに突っ伏していたけど、彼はその内笑い出した。
肩を震わせて笑っている。大丈夫か?壊れたか、それか酔っ払った?まさか、缶ビール一本でこの男が酔うはずがない。
「ははは・・・・」
私が首を傾げたまま待っていると、桑谷さんはやっと顔を上げて言った。
「・・・それでこそ、小川まりだ。よくよく俺は大変な女に惚れたもんだ」
答えようがない。私は黙って肩をすくめて見せた。
まだ笑っている彼に、そういえば、と言った。
「今日、緘口令をといたの。明日には、桑谷の嫁さんが妊娠したって噂が広まってるはずよ。あなたはまた方々からいじられるわね」
彼はにやりと企んだ笑顔をした。
「その話を声に出して俺に言ったやつ全員から、お祝いをむしり取ってやる」
そしてまた楽しそうに笑っていた。
私はやっと本当に心が軽くなったのを感じた。
もう時刻は12時を回っていて、早く寝ないとと彼に寝室に追い払われ、私は笑顔でベッドに入る。
後片付けは彼がしてくれるらしい。
急速に眠りの中に引き込まれながら、私は薄れる意識の中で考えた。
・・・・バカ女は退治した。そして、彼は私と一緒にいる。
これでまた、勝ち点ゲットだ。
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