1、北階段の対決。


 1週間後、7月に入った。

 夏もいよいよ本番となり、百貨店は忙しくなりつつあったけど、私は福田店長の計らいで準社員からパートに降格して貰った。

 この店に入った時は独身で文無しだったのでお金の必要さと保険もきく準社員は有難かったけど、今では人妻なので、それは気にする必要がなくなったのだ。まあ、とにかく、桑谷さんにはそのように説明した。

 私が、あなたの扶養に入ってもいい?と聞いた時の桑谷さんの顔は、全く見物だった。

「―――――え??」

 驚いて、目をかっぴらいて私を見詰めていた。声も若干裏返っていたかも。

「・・・・そんなに驚かなくても」

 私の言葉に、いや、別に嫌ではないんだけど、と懸命に言い訳をして、その後まじまじと私を見た。

「君、働くことが好きだって公言してたよな?」

「好きよ」

「・・・パートになったら仕事減るんじゃないのか?」

 私はうっすらと笑った。

「減るわね。でもその分、家のことをちゃんとしたいの。まだこの家の改造も終わってないし、あなたの妻になった自覚が出てきたのよ」

 その言葉に、何と彼は感動したようだった。・・・野郎は単純だ。私は罪悪感など欠片もなく、ただにっこりと微笑んでいた。

 実際は、体がしんどくて働けないのだ。売り場にも迷惑だし、私の代わりにちゃんとしたフルタイムさんを雇うほうが店のためにもいい。

 現在妊娠4ヶ月なので、この繁忙期が終わったら退職するつもりだった。店長にはそう伝えてあって、8月の繁忙期が終わったら人材の募集をかけると言ってくれたのだ。

 実は、妊娠した事はまだ桑谷さんには言ってない。売り場の人のみに伝えて、しかも口止めしてあった。

 私は護身術や柔道をやっていたせいかお腹に筋肉が多いらしく、4ヶ月になってもお腹が全然出てこないので、楽勝で周りを誤魔化している。

 出勤は週に3日ほどになり、私の体調もよく、しかも頭痛以外に悪阻らしい悪阻もなかったので、デパ地下であっても普通に過ごせていた。まったく、それはラッキーだった。

 最近遠くからの視線に気付いて振り返ると玉置さんが見ていることが多い。

 何を考えているのか知らないが、噂話の効果かロッカーでの嫌がらせはなくなったので、気が緩んでいたのもあるだろう。

 私は、若干彼女を見くびっていたらしい。

 まだ直接的な証拠はないにせよ、桑谷さんが調べた結果、玉置さんには総務に友達がいて、ロッカーが空かないからとマスターキーを貸したことがある、その時、忙しくて誰も同行していなかった、という情報は仕入れていた。

 彼の中でも玉置が黒、というのはほぼ確実だったのだ。だから彼は玉置さんを見張っている。私はそれに安心していたのもあった。

 だから、危ない目に会うことになったのだ。



 その日私は遅番で出勤して、まだ時間に余裕があったので、店食でお茶でも飲んでいようと例によって北階段を上がっていた。

 相変わらず誰もいない。

 途中でドアが開く音がしたけど、私は気にせずに階段を上っていたのだ。そして、私物鞄を持ち直した時、後ろから声がかかった。

「―――――小川さん、落としたわよ」

 私はハッと振り返った。

 階段の数段下に玉置その人がいて、私の落としたものを指差し、奇妙な笑顔を浮かべて立っていた。

 私はパッと屈んで、床に落としてしまった黄色い手帳を拾う。

 玉置はゆっくり階段を上がりながら、うつろな声色で囁くように言った。

「―――――・・・小川さん、そうだったのね。外見では全然判らなかったわ」

 その声に、ぞくりとして全身が粟立った。

 私は彼女から目を離さないようにしながら、今拾った黄色い手帳を握り締める。・・・何てこと。全く、何てタイミングで落とすのよ、私は!!自分に舌打ちしたい気分だった。

 私の横をゆっくりと通り過ぎて、少し上で、玉置は止まる。切れ長の瞳は見開かれ、半笑いのような表情のまま私を見下ろしていた。

 私の手の中には、さっき出勤前に保健所で発行して貰ったばかりの母子手帳。この女、確かに見たのだ。手帳の表面を。

「・・・玉置さん、教えて下さってありがとうございます」

 私の言葉にうつろな瞳のままニコリと微笑んだ。

 ・・・・やばい。この女、幽霊みたいになってる・・・。全身が緊張した。無意識に浅い呼吸になっているのに気付き、深呼吸する。

 早く逃げなければ。ここから出ないと。誰かがいるところへ。もう、こんなことばっか、北階段は私にとって鬼門だ――――――

 踊り場までもう少しの距離で、にらみ合う形になっていた。

「・・・私、失礼しますね」

 私がそう言って動こうとした時、うつろな視線を私に固定していたバカ女が、予想もしないスピードで動いた。

 そして、ダイレクトに私を両手で突き飛ばしたのだ。

「っ・・・!」

 私はバランスを失い、そのまま2段ほど下へ崩れるように落ちた後、何とか手すりを掴むことに成功して中途半端な格好で階段途中で止まった。

 カッとして上段を振り仰ぐと、奇妙な笑いを顔に貼り付けたまま、玉置が見下ろしていた。

「・・・残念。案外運動神経がいいのね、腹ボテ女のくせに」

 冷や汗が出るのを無視して、私は体勢を立て直す。


 ムカついていた。

 この・・・このバカ女、私の妊娠を知った上で階段で突き飛ばしやがったあああああ〜!!!

 もう冗談では済まされない。素晴らしい反射神経で無事だっただけで、落ちてお腹でも打っていたら取り返しのつかないことになっていただろう。

 ・・・・このアマ!!

「イカレたバカ女!」

 つい、暴言が私の唇から出た。

 私は瞬発的に大地を蹴って上段まで駆け上り、スナップをきかせて玉置の頬を平手でぶっ叩いた。

 バシンと結構な音がして玉置の小さな細い体が後ろによろけ、踊り場の壁にぶつかる。

 彼女は小さく悲鳴をあげて、手で頬を押さえた。柔らかいパーマの前髪の下でギラギラと光る目を私にむけて、玉置が低く叫んだ。

「―――――私に・・・私に手をあげたわね、この腹ボテ女!お前なんか落ちて死んじまえばよかったのよ!!」

 私は無表情になってもう一歩近づき、今度は左頬を平手打ちした。

 完全に頭にきていたけど、落ち着いていた。だから彼女の動きはスローで見えた。

 玉置がめちゃくちゃに手を振り回して喚きながら暴れるのをお腹にだけは当たらないようにして、もう一発殴っとくかと右手を振り上げる。

 と、その手首を強い力で捕まれた。

「・・・もう止めとけ」

 いつの間にか、桑谷さんが後ろに立っていた。

「――――――桑谷さん」

「桑谷君!」

 女二人は動きを止めた。彼はするりと二人の間に体を割り込ませ、無表情で交互に見下ろした。

 私と玉置は荒い呼吸で、全身が乱れた格好で向かい合って立っている。

 私は彼に捕まれた手首を振りほどいて、後ろに下がった。

 バカ女に色んなところをぶたれていた。制服の乱れを直しながら、既にその存在でこの場を支配している彼を見る。

「・・・何してるんだ?」

 低い声で彼が聞いた。

 玉置はハッとなった顔で、興奮と腫れで顔を赤くして勢いよく喋りだした。

「この・・・小川さんが私を殴ったのよ!!いきなりよ!?だから応戦しただけよ!」

 この腹ボテ女って言おうとしたんだろうな。私は反射的にそう考えた。怒ってる時でも男性の前では‘女’に戻るのね。鼻で嗤ってやる。私は、そんなことは絶対ない。

 桑谷さんがこちらを向いた。

「そうなのか?」

 肩をすくめて答えた。

「このイカレたバカ女が私に暴言を吐き、階段から突き落とそうとしたからよ。運が悪かったら下まで転がり落ちてたわ」

 桑谷さんがひゅっと眉を上げた。

「階段は無事だったようだな。・・・暴言?」

 私はわなわなと震える玉置を目を細めて見詰めながら、さらりと言った。

「私のことを腹ボテ女と呼んだのよ。私だけでなく、子供までバカにされたわ。口で言っても判らないだろうから、行動で不快感を表明したのよ」

 桑谷さんは一瞬目を細めて私をじっと見詰めたけど、すぐに玉置に向き直った。

「妻はそう言ってるけど、本当なのか?」

 彼の低い声の中に何かを感じ取った。それは私だけじゃなかったらしく、玉置は怯えた顔でちらりと彼を見上げた。一歩後ろに下がる。

「わっ・・・私は・・・」

「俺の」

 彼の声が更に低くなった。

「妻と子供をバカにした挙句、階段から突き落とそうと?」


 玉置は桑谷さんから目を逸らした。体が震えている。それを見ていたら、私の中でマグマみたいに煮え立っていた怒りがさめていくのを感じた。

 彼は静かな声だった。目も別に睨んでいたわけではなかった。だけど、迫力が半端なかった。体が2倍にも3倍にも大きくなって見えた。

 言葉を失った玉置に、彼がゆっくりと言う。

「・・・彼女のロッカーに嫌がらせをしたのは君だと判っている。それに、なぜ君がこんなバカなことをするのかも判ったと思う」

 私は顔を上げて桑谷さんを見詰めた。

 ・・・・何だって?何が判ったって?

 既に体を完全に彼女に向けて、私には後ろ姿を見せている彼は続けて言った。

「吉田と話した。あんた、妊娠したと言っては男を脅し、金を取っていたらしいな。子供をおろすのに必要だと」

 私は呆気に取られる。・・・え!?今、何て言った?金を取る?どの男から?そして少し考えて、やっと、玉置の別れた夫が吉田さんだったと思い出した。

 桑谷さんは続けている。彼の呼びかけが、君からあんたに変わった。それだけで、更に言葉の冷気が増した。

「だけど、若い時の派手な遊びで中絶を繰り返し、藪医者に引っかかって堕胎の手術に失敗し、もう妊娠出来ない体になっていると。それが判っていて浮気をし、相手を脅して金を取るとは・・・あんた、その顔で結構やるんだな」

 玉置は怒った顔のまま固まっていた。口元が不自然にいがんでいて、私がビンタした両頬が腫れてきている。

「吉田はそれが原因で離婚したと言っていた。自分と幸せな結婚生活を送れば、浮気癖も治ると思ったと。だけど蓋をあけてみたら、妻は浮気を繰り返し、挙句の果てにゆすりまでしていたと判って嫌気がさしたんだと」

 ・・・・なんて女だ。私はじっくりと、目の前にたつ、小柄な女を見る。今では別嬪さんだとは到底思えない顔をしていた。目は釣りあがって顔は青ざめ、般若のようだった。

「自業自得とは言え、女性が妊娠出来ない体になるというのはかなりの衝撃と悲しみなんだろう。その点には同情する。しかし、だからと言って、他人の幸せをぶち壊しにするのが生きがいだとは、感心しないな」

 ・・・感心しない、なんてレベルじゃねーよ。何て迷惑な。

 桑谷さんが身を屈めて玉置の耳元に顔を近づけた。いつもより数段階低い声で、ゆっくりと言う。


「・・・バカなことはもう止めとけ。でなければ、全部バラすぞ」


 びくっと彼女の体が震えた。

 ゆっくりと顔を上げて彼を見る。

 桑谷さんは屈めていた身を起こして、普通の声で淡々と言った。

「そうなれば、あんた、終わりだ」

 彼女は震える声で瞳を開いて、キッと向き直った。

「・・・わ・・・私を、ゆ、ゆする、気?」

 桑谷さんは笑う。くっくっくと小さな声が私の耳に届く。

「いいや、まさか。黙っといてやるよ、俺には関係ない。あんたからの金など要らない。ただし―――――」

 彼は声から笑いを消して、少し首を傾げた。

「―――――またこんなことがあれば、話は別だ」


 玉置は震えていた。見開いていた目を一度ぐっと閉じて、小さく息を吐き出した。

 そして消えそうな声で言う。

「・・・・判ったわ。私の負けね。もう、何もしないわ」

 そしてくるりと体を返し、ヒール音を立てながらドアをあけて出て行った。

 私はそれをじっと見ていた。悲しい女の退散をじっと見ていた。


「・・・さて」

 桑谷さんの声に、ハッとした。そして腕時計を見る。もう売り場に入る時間が迫ってきていた。

「・・・やばい!!遅刻になる!」

 私が駆け出そうとしたのと同時に彼に腕を捕まれた。私はイライラと夫を振り返る。

「ちょっと放してよ!あのバカ女のせいで時間食っちゃって、もう勤務時間なんだから!」

 桑谷さんは迫力を増したままで、私の言葉は無視して淡々と聞いた。

「その前に、ハッキリさせて行ってくれ。今ここで起こったことに何か間違いはないのか?」

「あん?無いわよ!それよりも、時間が―――――」

「全部、何一つ、小さな欠片も、間違いない?」

 私は捕まれた腕をまた振りほどいた。そして彼に噛み付く。

「ないって言ってるでしょ!?」

 彼は真面目な顔になった。そして目を細めて、ゆっくりと口を開いた。

「・・・ってことは、君は妊娠してるのか?」

 私は目をぐるんと回す。・・・・ああ、畜生。一番面倒臭いバレ方だ。イライラと私は鞄をかき回す。そして黄色い手帳を掴みだして、彼の顔面に突き出した。

「そうよ!今妊娠4ヶ月になったところ!とにかく遅刻寸前だから、私は行くわ。説教もお仕置きもなしよ!妊婦は大事にされるべき存在なんだから!」

 そしてその場に彼を置いてけぼりにして、ドアを開けて階段から飛び出し、エレベーターを捕まえて、地下に降りた。

 後のことは考えなかった。

 考えたくなかった。

 あーあ・・・。全く、何て告知の仕方だよ!!






[ 15/18 ]


[目次へ]

[しおりを挟む]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -