3、ごめんで済めば警察は要らない。@



 頬を大きな手で撫でられる感触に私はうっすらと目を開けた。

「ごめん」

 そして、ボーっとした頭で彼が本日最初に口に出した謝罪を聞いた。

 ・・・あれ?今日謝罪と理由を話さなきゃならないのは私じゃなかったっけ?などと思って、眠い瞳をごしごしと擦る。

 また彼の低い、しかも凹んでいるらしい声が聞こえた。

「ごめん」

「・・・うん?」

 私は欠伸を一つする。

「何謝ってるの・・・?」

 まだ寝ぼけた頭と顔を彼に向けた。そこには痛そうな顔の桑谷さん。

「俺、昨日無理にしすぎたな。血が出てる」

 バチッと目が覚めた。

 ―――――――血っ!???

 ガバっと凄い勢いで私が起き上がったので、彼は驚いてのけぞった。

 下半身を横たえていたシーツをざっとチェックする。だけどどこにも血なんて見当たらないぞ!?と思って桑谷さんを見たら、彼は私の太ももを指差した。

「―――――・・・」

 確かに、たしかぁーに、若干の出血が確認出来た。ほんの1、2滴だろうが、彼も凹む位なんだから血なんだろう。

 私はそれを確認すると黙ったままでするりとベッドを抜け出して、人生最速で服を着る。財布が入っているポーチだけを引っつかみ、ドアに向かって歩きながらまだベッドの上で呆然としながら私を目で追っている彼に一気に喋った。

「ここの支払いは済んでるから、フロントに鍵だけ返してね。あと私の荷物全部持って帰ってくれる?生理が始まったかもだから、薬局に直行してから家に戻ります。この1週間の話は帰ってからで!それじゃあ宜しく!!」

 言い切ると同時に部屋のドアを閉めた。

 ホテルの前でタクシーを拾って産科に急行する。起きてから15分後には産科に到着していた。

 相変わらずここの病院は空いていて、すぐ診察に入れた。

 先生が診ている間も私は冷や汗をかきっ放し。彼だけは知らないが、既に告知済みのあとの親族数名を嘆き悲しませる結果にだけはなりませんように!と心の底から真剣に祈った。

「―――――大丈夫、だね」

 先生の声にハッと顔をあげる。

「子供は大丈夫みたいですよ。子宮からの出血ではなくて、もっと膣の入口のほうで切れたんだね」

 ホーっと私は息を吐き出した。

 ああああ〜・・・・良かったあああ〜・・・。子供じゃなかった。流れちゃったんじゃなかったんだあ〜・・・。

 私のその様子を見て、岩井先生は厳しい顔で言った。

「これ、もしかしたらレイプとかではないだろうね?もしそうなら―――・・・」

 ビックリした。だけどよく考えたら、私は寝起きのまま顔も洗ってないし、勿論化粧もしてない。つまりボロボロの外見だ。そして唇は腫れ、あそこも出血するくらいの状態なわけだ。

 私は慌てて両手をぶんぶん振る。

 まあ多少無理やりではあったけど、一応、合意の上ですから!

「大丈夫です!違います!えーっと・・・・ちょっと夫婦喧嘩をしまして・・・仲直りが激しかったと言うか・・・」

 後ろで看護師さんが笑ったのを聞いて、私は真っ赤になった。

 前では先生も苦笑している。

 だけど私の顔の前にビシっと指を立てて、真面目な顔で言った。

「私が言ったのは、安静、です。これは安静とはほど遠いでしょう。今回は無事だったけど、次はないかもしれないと思いなさい」

 ははーっとひれ伏したい私だった。


 帰り道、お腹に手を当てて、心の中でごめんね、と繰り返す。

 これは全て父ちゃんにお前のことを伝えてなかった母ちゃんの落ち度なのだよ。ゆめゆめ父を恨むんじゃあないよ。

 そして、もうあんなことはしないから、安心して大きくなってくれ給え。と続けた。

 とにかく、無事だった。それが私を明るくしていた。



 玄関のドアを開けると、彼の靴があった。

 もう帰ってきてたんだな、と思いながら靴を脱いでいると、ドアが開いて長身の桑谷さんが半身を出した。何と言えばいいのか判らないらしく、いまだ痛そうな、後悔し切りの顔をしている。

 私はにっこり笑って彼を見上げた。

「ただいま」

「・・・・お帰り」

 私の機嫌が良いのが判って、やっと少しホッとした顔で彼が言う。

 あー、朝から疲れたわあ〜なんて言いながら台所に入っていく私の後をついて来ながら、また彼が謝った。

「本当に悪かった。体は大丈夫なのか?」

「え?ああ、大丈夫よ。生理来た!と思って薬局に駆け込んだはいいけどもう全然出血なんてないの・・・」

 言いながら部屋を見渡した私の言葉が尻つぼみで消えていく。

 後ろで彼が、うー・・・と小さく唸った。

「・・・・これは、どういうこと?」

 私は腰に両手をあてて彼を振り返る。

 台所は、酷い有様だった。一言で言えば、ぐちゃぐちゃ。ゴジラかガメラが来襲したのかと思うほどの荒れ模様。破壊だ破壊。コップを一つ叩き割った私など、可愛いといえるレベルの。

 彼は片手で両目を覆って、私の視線から隠れながら言う。

「・・・あー・・・。ちょっと・・・その、むしゃくしゃしたので・・・」

「ので?」

 また機嫌の悪くなった声で私は復唱した。

「・・・えー・・・目につくものに当り散らした、というか・・・」

 ダイニングテーブルは倒れ、椅子の足は折れ、テレビも台から落ち、お皿が何枚か割れていた。衣服まで散らばっている。これはきっと、私が出て行く前に畳んであったはずの洗濯物だろう。

 私は体ごと彼のほうを向いた。

「・・・破壊するなら、自分の部屋にしなさいよ!」

 彼の持ち物であるテナントビルの最上階の部屋はまだそのままにしてあった。やるなら、暴れるならそっちで暴れろ!!私の、私のお気に入りで固めた家を破壊するってどんな喧嘩の売り方だ!

 桑谷さんは長い体を半分に折り曲げて、勢いよく頭を下げた。

「ごめんなさい」

「ごめんで済んだら警察は要らないんです!!」

 くそう!何てことしやがるんだこの男は!


 私はバタバタと家中をみて回る。

 だけど破壊工作が実行されたのは台所だけらしかった。寝室も出て行った時のままだったし洗面所や水周りに変化はない。それに私の大切な庭は、ちゃんと雑草もなく水分も十分で緑は今日も光を浴びて輝いている。

 ガラス戸を通してそれを確認した私は彼を振り返る。

「世話してくれたの?」

「ここを君が大事にしてることは判ってる」

 小さな声で彼が答えた。

 私が口紅で書きなぐった窓ガラスも綺麗に拭かれていた。そのガラスに指で触れる。

 私は少しだけ笑って、振り返り、腕を組んで彼を見上げた。

「誰かさんのせいで体中ベタベタよ」

 また情けない顔になった彼が可愛かった。

 妻が出て行ったからと台所を破壊する男。その獰猛さを普段は隠して、色々と頑張っている目の前の、私の男。

「だから、お風呂入って来きます。その間にあなたは台所を片付けて素敵な朝食を大量に作っておいて」

 それを聞いて、桑谷さんはやっと笑って頷いた。


「――――はい、奥様」


 お風呂に長い時間をかけて入り、さっぱりして出てくると、台所は一応元の姿に戻っており、彼はせっせと朝食を大量に作っていた。

「おおお〜」

 私は彼の手元を覗き込んで、嬉しい歓声を上げる。お腹減った。昨日の晩ご飯から食べさせて貰ってないのだ。

 器用にフライパンを操りながら、彼がボソッと呟く。

「・・・・そういえば、俺ばっかり謝ってるけど・・・どうしてだ?」

 私はうん?と首を傾げた。

「悪いことしたからでしょ?」

「君の謝罪はどこに行ったんだ?」

 私は髪の毛をタオルでごしごしやりながら椅子に座った。

「だって、お風呂の中で考えたんだけど、私ってば悪いことしてないじゃない。謝らなきゃならないような、一体何したっけ?」

 唖然とした顔で彼が振り返る。本気で驚いているようだ。

「・・・・いや、家出して、心配かけさせただろう?」

「それはあなたが私を怒らせたからでしょう?原因は無視するわけ?」

 ぐっと詰まったけど、持ち前の頑固さで譲らず頑張ることに決めたらしい。

「夫婦喧嘩するたびに家出されたらこっちの身がもたない。パートナーに心配かけるのはいいのか?」

 それに関しては色々言いたいことは山ほどあるが、今日は止めておこう、と判断した。だから私は意地悪な声を作ってこう言う。

「そのお詫びに、昨日私は滅茶苦茶にされたんじゃなかったの?」

 またぐっと詰まった。あの出血は彼の中でも衝撃であったらしい。よっしゃ、当分これで優位に立てるな、と私はほくそ笑む。

 そして、一応ね、と前置きをして、あっけらかんと謝る。

「心配かけて、ゴメンナサイ」

 彼は憮然とした。

「・・・気持ちが全くこもってない謝罪なら、しない方がいいぞ」





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