2、彰人のお仕置き。
ホテルに隠れて3日目。
本当にダラダラ〜っと過ごしてきて、酒を摂取しておらず、家事もせずに済み、妊娠を秘密にしておく相手もいないので、私は元気になっていた。
ううーん。もう休息はいいかなあ〜・・・元気になっちゃったし、家でも帰るか?そんなことを思いながら、ホテルの前の公園のベンチに座ってパン屋で買ってきたサンドイッチを食べていた。
もう夏前で、気温はかなり上がっていた。
母が持ってきてくれていた日傘で太陽を避けてはいたが、風がやんでしまって真夏なみの暑さだった。
化粧もしていないので、流れ落ちる汗も手の平でぐいぐい拭う。夫婦喧嘩の夜にコップで切った傷も塞がれつつあった。
「あっつ〜い・・・」
独り言にも飽きてきた。
妊娠したことを桑谷さんにどう切り出そうかで悩んでいた。避妊してないんだから、出来る可能性があることは彼も判っているはずだ。だけど、やはりいざとなれば驚くはず。私だって驚いた。
手紙でも書いて机においとく?
プロポーズの時みたいに電話で言ってみる?
いやいやいや、それよりは・・・・・
流れる汗と同じペースでダラダラと考えていた。
ふと顔を上げると公衆電話が目に入る。携帯は電源を切ってホテルの部屋に置きっぱなしなので、誰かに電話をしたければあれを使うしかない。
私はちょっと考えて、ゆっくりと立ち上がった。
日傘をくるくる回しながら電話ボックスに近づき、締め切ると暑いのでドアを足で開けて止めたままで、番号案内で大手の保険会社の電話番号を調べた。
そしてそのまま電話をかける。
2回ほど人から人へと回されて、やっと目的の男に繋がった。
『はい、楠本です』
ハスキーな声が耳の中で転がる。私は汗を流しながらくくくと笑った。
こいつも結婚してから、大分落ち着いた。声に昔のようなやんちゃさが消えている。
私の男の親友である楠本孝明は、現在は保険会社の設計部門の課長職に就いている。営業で無くなったため、女性からは保険契約を取らないという自分で決めたポリシーに振り回されることがなくなったと喜んでいた。
ヤツは、所謂美形なのだ。それも、極上に、いい男。なので、女性客からまもとに契約を取ろうとすると自動的に数々の困難がついてきたのだった。
「よお、楠本、元気?」
私の問いかけに、楠本は一瞬黙ったあと、罵声を浴びせた。
『まりっぺか!?お前今どこにいるんだ!ってか何やってんだよ!!』
私はこれを予想していたので、すでに受話器から耳を離していた。伊達に長い間こいつと友達をしていない。
「・・・うるせえな。野郎が耳元で喚くな」
『お前はどうしてそんなに口が悪いんだ。とにかく、どこにいるか教えろ』
「何でよ」
『迎えに行く』
はい?何であんたが私を迎えに?私は首を傾げて、ちょっと待って、と言う。
「もしかして、彼から電話があった?」
すると楠本は、いいや、と答えた。
私はそりゃそうか、と思う。大体桑谷さんはこいつの電話番号を知らないだろう。
『俺がかけた』
「え?」
『ほら、名義変更の話が終わってなかっただろ。あれで俺からお前の家にかけた』
・・・ああ!傘と受話器がなかったら、思わず手をうっているところだ。
そうだそうだ、名義変更まだしてなかったんだった。
こいつの友達だったのもあるし、うちの親が小さい頃から言っていたのもあるしで、大学卒業してから私は自分の保険をいくつか持っている。
それのほとんどを世話したのはこの楠本だ。
私は彼の、数少ない貴重な女性の保険契約者、というわけだ。
そして、この度私も結婚したので、死亡保険金の受取人を親から桑谷さんに変えた。その話をした時の桑谷さんの嫌そうな顔は忘れられない。
俺、金なんて要らないから、いい。彼はそう言ったのだ。
まりが死んで金なんて欲しくないと。
だけどうちの親はもっと要らないのだ。それにお金はないよりあるほうがいいし、これは配偶者って証明にもなるんだよ、と適当に言ったら、その最後の部分が気に入ったらしく、それならと名義変更に同意した。
別に同意は必要ないのだが、受取人が知らないままで保険金が支払われない場合がたくさんあるのだと楠本から聞いていたから、説明したのだ。
ところがその書類に残念ながら一箇所不備があり、手続きがまだ終わってなかったのだ。
それで、楠本が会社から我が家に電話を入れた、と。
『そしたらえらく暗い声の桑谷さんが出て、まりはいないって言うから、俺ふざけてさ、めちゃめちゃ気軽にアイツ家出したんですか〜、なんて言っちゃったんだよ。そしたらいきなり本気の声で―――――』
まりがどこにいるか知ってるんですか!?と楠本を問い詰めたらしい。
「あははははは〜」
私は噴出した。男二人が電話を挟んで同時に、え?!て驚いているのを想像して。私の笑い声を聞いて電話の向こうで楠本が苦情の大合唱をしている。
『笑い事じゃねえよ!驚いたんだぞ。ってか、本当に何してんだよ、さっさと帰れよ!可哀想なダンナ苛めてないで!』
「てめえにゃ関係ねーよ」
私の一言に、ヤツは唖然としているようだった。
『・・・俺、自分の嫁さんがそんな口きいたら外から鍵のかかる部屋に閉じ込める。更生するまで・・・』
大丈夫だ、あんたの奥さんのトマトちゃんがこんな口汚いわけがない。なんせ、白雪姫なんだぞ。それに、あんたの嫁ではないでしょ、妻だ、妻!
ふん、と私が鼻で嗤ったのもちゃんと聞こえたらしい。
『何があったか知らないけど、家出は大人のすることじゃないだろ?戻って話し合えよ、まり』
あいつのハスキーな声が心配で曇る。楠本は別に心配性な男ではない。きっと、それだけの応答だったのだろう、桑谷さんが。
「・・・まあ、その内に」
そこで、やっとヤツは気付いたらしい。私から電話をかけてきたってことに。
何か用か?と聞くから、別に、と答える。
『は?』
私は流れ出る汗をまた手のひらで拭って、言った。
「暇だったから、空いてたら晩ご飯でも一緒にどうかと思ったの。それだけ」
楠本は一度黙った。その沈黙は、熟考の証拠だ。
『・・・いいぜ、行こう、晩ご飯。俺、千尋に電話して―――――』
楠本が言いかけるのに、やっぱりもういい、と被せて断る。
『ああ?』
「私が家出してるの知ってるなら一緒にご飯食べれないでしょう。あんたのことだから、絶対桑谷さんにチクるんでしょ。そんで待ち合わせ場所に行ったら桑谷さんがお怒りモードで立ってるってことになる。そんなのごめんよ、迷惑だわ迷惑。じゃ、トマト・・・じゃなかった、千尋ちゃんに宜しくね」
そしてバイバイも言わずに受話器を置いた。
あぶねーあぶねー。ヤツの策略にのって彼に捕まるところだった。
干からびそうになりながら電話ボックスから逃げ出し、ヨロヨロとホテルまで戻った。
必要なのは、気のきく男友達なんかじゃなく、水と、冷たい空気と、睡眠。
あーあ、楠本のバカ野郎。あの感じだときっと弘美にも電話するだろうなあ・・・。もしくは、私の実家。まあどっちも問題なくあしらってくれるとは思うけど。むしろ、弘美も母も笑い飛ばすだろう。あんたには教えない、とか喜んで言いそう・・・。
正義感が強いのも、問題だぜ、と呟きながら、部屋へ退散した。
私はそのまま翌日をホテルでのんびり過ごした。
元々一人暮らしが長かったし、思ったほどにはホームシックにかからなかった。妊娠を内緒にしているという事が重荷になっていたから、戻る気持ちが薄れていたのもあると思う。
だけどホテルに隠れて5日目、明後日からは仕事にも行かなければならないので、仕方ないから家に帰ろう、と考えた。
玉置に対する心構えも出来た。何より、自分ひとりの時間を堪能して落ち着いたってのもある。
夕方の4時。居るか居ないかは運に任せて、私は久しぶりに携帯の電源を入れる。
そして彼の携帯ではなく、家の電話にかけた。もし彼が仕事でいなくて電話を取れなかったら、自分から家に戻ろうと思って。
耳元でコール音が鳴り響く。
目は窓から見える公園に向けて、緊張を払っていた。
そう言えば、私の庭、水やってないけど大丈夫かなー・・・と思いだしたころ、受話器の上がる音がした。
『―――――はい』
まるで寝起きのような、もしくは疲れて不機嫌という表現そのものの声で、桑谷さんが出た。
私は一度深呼吸をして、ゆっくりと言った。
「まりです」
『―――――』
電話の向こうが沈黙した。
その間、相変わらず窓の外の緑を見ながら頭の中で、1,2,3・・・と数えて待っていた。カウント8で彼の声が聞こえた。
『今、どこにいる?』
「〇〇ホテル。その302号室」
『そこにいろ』
速攻で切れた電話を、呆れて私は暫く見ていた。・・・・簡潔な会話。約1週間ぶりの夫婦の会話、18秒で終了。
驚くべきことに、真っ直ぐ来ても40分はかかるはずの距離を、彼は何と20分で来た。
ピンポーンと部屋のチャイムが鳴って、ドアを開けると彼が立っていたので、私は思わず呟いた。
「――――早!」
桑谷さんは表情を消したままで、肩で荒く息をついていた。額にも首筋にも玉のような汗が浮いている。
どうやら車か何かで近くまで来て、後は走ってきたようだった。
久しぶりに目にする彼は少し痩せたようだった。壁のように目の前に立って、呼吸を整えている。
部屋には入ろうとはせず、そのままで私を見詰めていた。大きく長く息を吐いて、腕で額の汗を拭う。それから彼は両目を一度ぐっと閉じて、ゆっくりと開けた。
彼の呼吸が整うのをドアを開けたままで待っていた私が言った。
「・・・・軽口は必要?」
彼はうっすらと目を細めて、低い声で言う。
「――――――言いたきゃ言えよ」
またこれだ。彼はキレる寸前・・・・いや、既にキレた後なのかも。私は心の中でやれやれと呟いて、ヒョイと肩をすくめて言った。
「聞きたいのは、謝罪、お経、それとも円周率?」
「理由」
「箇条書きで?それとも、もってまわった言い方で?」
「君の言葉で」
私は一歩後ろに下がった。手を離したので閉じかけるドアを桑谷さんが腕で押さえる。
その無表情の彼を見上げて微笑んだ。
「あなたを諦めたくなかったから、出て行ったのよ」
彼が動いた。
ガッと腕で抱きかかえられて、私は一言も漏らせないまま部屋の奥へと連れ去られる。ベッドに落とされ、私の両手は頭の上で一つにくくられ、大きな片手でシーツに縫い付けられる。
両足に彼の体重が乗り、無言で降りてきた唇に言葉も封印された。
ドアが閉まる音が、部屋の中に響く。
彼は私を拘束したまま熱くて激しいキスを繰り返す。こんな余裕のない彼を見たのは初めてだった。
酸素を求めて顔を背けると、手で戻されて固定される。
キスで意識が飛びかけた。
少しだけ唇を離し、彼も荒い呼吸で言った。声は低く、ザラザラとして、爆発前の可燃物のような危険な余韻をばら撒いている。
「―――――謝罪と理由は、後で聞く」
また口付ける。首から顎にかけて固定されていて、私は顔を動かすことも出来ない。
唇は既に赤く腫れ上がっているはずだ。
「・・・・は・・・・くわた、に、さ・・・」
「だから」
彼の瞳の中で、欲望と怒りが激しく燃えて揺らめいていた。ギラギラと光って一心に私を見詰める。その射抜くような視線だけで、呼吸を忘れそうだった。
「――――――今は言葉は忘れてろ」
5日間の休養で、私はとっても元気になっていた。
だから耐えられたのだと思うくらいに激しく何度も桑谷さんは私を抱いた。声も涙も懇願も彼の唇が全て吸い取り、私はなすすべもなくただひたすらに流されていた。
お腹のことを庇うことすら忘れていた。
何度も繰り返し繰り返し彼は私を翻弄する。私の意識は飛びっぱなしで空中を漂う。一体何が起きているのか判らないほどの、それは容赦のない行為だった。
ようやく疲れきった彼が眠りに落ちた午前1時、夕方から今までで何度か気を失っていた私は枕元の水に手を伸ばした。
体がうまく動かない。手も足も痺れて力が入らないのだ。のびきったゴムのようになった体を懸命に動かして、何とか水を取る。
砂が水を吸収するのと同じ速さでそれを飲み干した。
激しくて遠慮や気遣いの欠片も見えない行為だったけど、気分は悪くないし吐き気もなく出血もしていなかった。
それを確認して、私もぐったりと転がる。
ああー・・・良かった、出血してなくて。危ないところだった、と、今更ながら冷や汗をかく。
心の中でお腹にむけて話しかける。
よく頑張ったね、君は偉い!!
安静とは程遠い6時間だったけど、母子ともに激しすぎる父の愛情表現を受け入れることに成功した。
私は少し笑って、そのまま夢に落ちて行った。
夜明けだった。
開けっ放しのカーテンから忍び込む早朝の冷気に裸の肩が寒くて、私は目を覚ます。
取りあえずまた出血の有無を確認して、ないことに安心してから同じく裸のままうつ伏せで寝てしまった彼の肩にもシーツを引き上げる。
その無防備な寝顔をぼんやりと見詰めていた。この人の傍にいると、激しかったり緩やかだったりはその時々で違っても、とにかくあったかい・・・。
私は、温められる。
薄紅の光りが部屋に差し込んでくる。私はとても敬虔な気持ちになる。
そして静かに彼の耳元に唇を寄せ、囁いた。
「あなたも人の親になるの」
規則正しい彼の寝息。
明けていくこの世界。
お腹の中の新しい命。
「私達に子供が出来たのよ」
その言葉は金色の粒子となって昇華する。柔らかい幸福感が私をふわふわと包み込んだ。
もう一度一人で笑って、彼の隣に体を寄せる。
そしてまた、深い眠りに入っていった。
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