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「やっぱりね。ならばまた私の胸だけに留めておくわ。パートさんたちにもまだ言わないから、自分で時期をみて言ってね」

 にやりと店長は笑った。

「それもあって、ここに来たんでしょう。このパターンはそうよ。小川さんが桑谷さんを煙に巻きたい時に使うやつよね。去年のこと忘れてないわよ。また彼が売り場に来たら、小川はいませんて言えばいいのかしら?」

 これは冗談で、笑い話になるだろうと思って言ったみたいだったが、私がそうなんです、と頷いたもんだから、え?と店長は身を引いていた。

 まじまじと私を見ている。

「・・・やるの?」

「はい、お願いします」

「・・・一体どうしたの?」

「夫婦喧嘩で、私、家出中なんです」

 福田店長は、絶句した。



 泊まるところはある。休みも頂いた。これで私は6日間は引きこもれる。

 今回は初めから携帯は切っておくし、大体謎の多い彼女ではなく既に妻なのだから、桑谷さんが本腰入れて私の行方を捜すとは思えなかった。メッセージが「さようなら」だけなら必死になったかも、だけど。頭を冷やしましょう、だしね、と一人で頷きながら、母に指定されたホテルの門を潜った。

 ゆっくりしよう。考えることはたくさんあるんだから。

 それに、妊娠だとわかってからは確かに微熱なのを感じていた。体が熱いし、胸焼けのような不快感が付きまとう。

 今から考えたらストック場で彼に噛み付いたのも、この不快感が原因だったんだと思った。

 カウンターで母の名前を告げると、ちゃんと用意されてて驚いた。しかもまだチェックインの時間でないに関わらず部屋に案内される。

 母ちゃん、今までどんなホテルライフを?

 よく考えなくても私は自分の母親のことをあまり知らないのだ。大体いつでも仕事で海外にいて家にはいない母親だったし、たまにいても一緒にするのはショッピングやお菓子造りではなく護身術の練習や新聞の読み方だった。

 何かの質問をすると、答えではなく辞書や本や新聞を渡されたものだった。自分で調べろってことだ。

 だけど英語の単語の意味が判らなくて教えてと頼んだ中学2年生の時、英英辞典を渡されたのには困った。・・・これがひける能力がありゃ聞かないっつーの、と思って。

 私はそういうところから、人に頼らずに自分で何とかするように躾けられたんだった。

 そうか、初めてなんだ。

 父が居なくて、母と二人でホテルに泊まるのなんか。

 ・・・・何を話したらいいんだ。ものすごーく、困った私だった。


 都会に作られた緑溢れる公園を見下ろす素敵な部屋で、部屋の電話から実家にかける。

 母はもうすぐこちらに着くハズで、父が出るだろうと待機していると、穏やかな父の声が聞こえた。

『はい、小川です』

 私は微笑んで声を出す。この、父の声を聞くと安心した。小さな頃から私と一緒にいてくれたのは大学教授である父だった。

「娘です」

『おお、まり。母さんはまだ着いてないのかい?』

 のんびりと話す。私は椅子に腰掛けて、そう、母さんはまだなの、と答える。

「彼から電話、あった?」

 必死に探すことはないかもしれないけど、私の実家や友達に連絡をすることくらいはするだろうと思ったのだ。

 父は苦笑したらしかった。

『あったよ、昼前に。母さんが取ったんだ。桑谷君は何やら謝っていたようだったけど、母さんが、ちっとも真面目に話を聞かずに笑ってるから閉口したみたいだった』

 想像してしまった。私の口元も緩む。私が入れた電話の方が早かったんだろう。それで事情を判っていたので、母は笑い転げたのだ。

「あははは。母さんは彼に、何て?」

『えーっと・・・これが結婚生活ってものよ、諦めなさい、とか言ってたぞ。その内に帰るだろうから、ほっとけばいい、とか何とか』

 ひゃははははは。この親にしてこの子あり、とか思ったに違いない。その時の、うんざりしたような桑谷さんの顔が想像出来た。

「判った、ありがとう。また電話あっても私の行方は伏せておいてね」

 私のお願いに父はまた苦笑して、判った、とだけ言った。でもその後で、まり、と声が続いた。

「はい?」

『・・・彼がお前を大事にしてくれてることは凄く伝わってくる。あまり無体なことせずに、早く帰りなさい』

 私は窓の外の公園の緑を見た。

 父は昔から、声を荒げて怒ることはしなかった。ただ、静かにゆっくりと、言葉に力を込めて叱ったのだ。

 私は大体一発で言うことをきいた。

 今、父はその言い方をしている。いきなり出来た息子に同情しているのだろう。だけど、ごめんねお父さん。私は残念ながら、大人になってしまったのです。

「・・・・時期が来たら帰るわ、勿論。だけど今はダメ」

『そうか、判った』

 父の声は静かだった。きっと大いに苦笑しているのだ。母さんにそっくりだ、とか思っているに違いない。

 電話を切って、昨日の夜の足りてない睡眠を昼寝で補充していたら、ピンポーンとチャイムが鳴った。

 目覚めて一瞬ここがどこだか判らずに呆然と見回したけど、またチャイムが鳴ったのでハッキリと覚醒した。

 ドアを開けると母が居た。

「来たのね」

 私は笑う。母も笑って言った。

「来たわ。久しぶりね、まり!私達はお前のダンナさんに一度も会わないまま、娘の家出を手伝う羽目になってるわ!」

 実に楽しそうに言った。

 今年の1月に入籍してから、実はまだ実家に彼を連れて行っていない。桑谷さんはそれをすごく気にしているけど、電話するたびにうちの両親が正月の帰省でいい、と言うのだ。

 私はただ単に面倒臭いから、親の言葉通りでいいか、と思っている。ケアしなければならないのは気楽に二人で好きなことをしているうちの親ではなく、そっちの親でしょ、と思うのだ。

 色んなことをペラペラ喋りながら部屋に入ってきた母が、真ん中でくるりと振り向いて、私をマジマジと見詰めた。

「・・・まりったら」

 私は欠伸を一つして、眠気を払っている最中だった。そのままの格好で、うん?と母を見る。

「もしかして、妊娠したの?」

 ビックリした。・・・・何で判るのよ。本当に、女性って性別は全員恐ろしい。

「・・・どうして判るの?」

 私の問いかけにニヤリとした。

「じゃあ本当なのね!?」

「いや、だから、どうしてよ?まだ外見の変化ないでしょう。私だって昨日ハッキリ判ったとこなのに」

 私は頭の上に巨大なクエスチョンマークを浮かべていた。

 何で判るの?マジで、何で?

 母は荷物をベッドの横に置きながら答える。

「強いて言えば、雰囲気かしらね。後は微熱がありそうな顔色。それと状況判断。どうしようもない事が介入したから、まりは家出したんだろうと思ったのよ。考える時間欲しさにね。ただの夫婦喧嘩の家出じゃあなくて、夫婦喧嘩はオマケのようなものかしら、って」

 ・・・・恐れ入りました、お母様。

 ホテルのレストランで食事をしながら、簡潔に経緯を話す。

 桑谷さんの異動、それにひっついていきなり現れた社員の美人の女、された嫌がらせ、それに関しての夫婦喧嘩。

 母はワイングラスをくるりくるりと回しながら黙って聞いていた。

「その嫌がらせはまず間違いなく、その女性社員よね」

 母がキッパリと言った。私も頷く。

「そう思う。他に候補もいないし。でも口喧嘩のお返しにしちゃ陰険過ぎない?ロッカーでは人に見られる可能性だってあるし、大体犯人が女性であるのを言ってるようなものでしょう?」

 ロッカーにはカメラはないが、勿論男性は入れない。

 私の言葉に母は首を捻って、微かに微笑んだ。全く考えの読めない表情をしている。この曖昧な笑顔が、戦場でカメラをまわすのに役に立つのだろう。自分がどっちについているのかを知られてはならないのよ、と聞いたことがある。

「バレてもいいと思ってるのよ、それは」

「え?」

「本当なら名前も書きたいくらいだったんじゃない?これで様子を見てお前が病むようなら桑谷さんの結婚生活も壊せると思った、と思うわ。昔自分になびかなかった男は勝手に結婚して幸せでいる、それが嫌なんでしょう。桑谷さんを手にいれたいと思ってるんじゃなくて、幸せな人間の邪魔をしたいのよ、恐らく」

 ・・・・何て迷惑な女だ。私は憮然とする。

「だから、あなたの仕業?と聞いてみたら、案外あっさりと認めるかもね」

 そうなのか。それは面白そうだから、是非聞いてみたい。正し、その後やつに手を出してはいけないのなら、それを聞くのは拷問に近い。

「ところが」

 母は続ける。ワインをボトルで3本あけているのに、まだ酔ってるようには見えない。間違いなく、私はこの人の娘だ。

「お前は気に病むどころか人に話しまくって風評で身を守りだした。だから、これからよね。彼女がどう出るか、予測は出来ないけど」

 私は大して食欲もなく、まだ半分残っているお皿を向こうへ押しやった。

 そしてため息をつく。

「・・・まさか女を殴るわけにはいかないしね」

 私の呟きに母はカラカラと笑った。

「いいじゃないの。まりは無宗教でしょう。右の頬を打たれて左もさしだすことはないわ。やられたら、やり返しなさい。それよりも―――――」

 過激なことをさらりと言って、母は笑顔を消して私を見詰めた。

「・・・お腹の子供のことを、忘れちゃダメよ。安定期に入るまでは、少しの緊張でも影響が大きいのだから」

 私は驚いて母を見詰める。・・・何か、今、普通の母親っぽかった・・・。

「はい」

「回し蹴りはダメ」

「うん」

「お酒もね」

「我慢してるじゃない」

「ピンヒールもよ」

「3センチで妥協するわ」

 何だ?と思って答えていると、目の前で母が艶やかに笑った。

「やっと孫が見れるかと思って、今私はすごく喜んでいるのよ。でもお父さんにはもうちょっと内緒にしておきましょう、簡単に教えちゃつまらない」

 ええ、間違いない。私はこの人の娘だ。

 それによく考えたら、この人は私が法律的に結婚出来るようになった16歳の時から、私の結婚資金を貯めていた人なんだった。孫の顔を見れるまで、倍の16年も待ったわけだな。

 企んでキラキラしている母を見る。そのうちじんわりと喜びが湧き上がってきた。

 この子は、祝福されているんだ。それが嬉しかった。


「それで、どうしたらいいと思う?」

 コーヒーをパスして部屋に戻ってから、私は母に聞いた。母は機嫌よく、簡単よ、と笑った。

「彼女の過去を調べなさい。絶対なにか出てくるはず。それで脅してやったらいいわ」

「・・・・・」

「それか、同じく陰険な嫌がらせをするか。それとも・・・あ、そうだわ!」

 手をパチンと叩いて声を上げた。

「格好いい男の人に頼んで、誘惑させて、捨てさせるのよ!」

「―――――――」

 私は呆れて座り、嬉々としてあくどい計画を考える母親を見ていた。

 誰だ、この人。何だその楽しそうな瞳は。ていうか、怖い。この人、怖い女なんだ〜・・・。

 大体どこにいるのよ、そんな身勝手な計画にのってくれる極上の男が。極上の男は友達にいるにはいるが、あいつは堅物だからそんな計画には絶対に乗りそうにない。

「お母さん・・・それは、犯罪です」

 一応言ってみたけど、既にテンションが上がっている母は笑い飛ばしただけだった。

 勿論バレないようにするのよお!とはしゃいでいる。

 私は椅子に座り込む。

「やだ。そんな面倒臭いことしない」

 私が言うと、ちぇっと膨れていた。私はドン引きする。膨れるか、アンタ一体いくつなんだ?はしゃぎまわる母を見て、どっと疲れた私だった。

「なら仕方ないから正々堂々と喧嘩を買ってみたら?出来るだけ人通りの多いところで、その人の化けの皮をはがしてやればいいわ」

「・・・ああ、うん・・・。努力、する・・・」

 翌日、ここの料金は私持ちにしといたから〜!結果はちゃんと電話してよ〜!と明るく騒がしく手を振って母は帰って行った。父の待つ沖縄へ。

 私はそれを見送って、部屋で睡眠をむさぼる。

 眠い。そしてダラダラと続く不快感に疲れていた。うちで心配しているだろう彼を思う余裕もなく、私はコテンと眠りに落ちた。





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