1、母の忠告。@



 彼は頭を冷やしに行ったんだと判っていた。だから、その内にここへ戻ってくる。

 だけど、私はそれを待つつもりはなかった。

 話し合いにすらならない様相のときから決めていたのだ。私は、ここを出ないといけない。

 このままでは彼に憎しみを抱くかもしれないと思っていた。そして、二人とも、相手に思いは伝わらないかもと絶望するのが、目に様々と見えるようだった。

 時間が必要だわ。ちゃんと呼吸をする時間が。

 私は一人で頷くと、手の平の手当てをし、テーブルを片付け、洗い物をしてから服に着替えた。

 そして身の回りのものをざっとまとめて大きめの鞄に詰め込む。旅は慣れてる。荷物は少量にまとめられる。

 お気に入りの場所、庭に出れる縁側がある廊下に出た。そして化粧ポーチから口紅を出す。

 かなり前に行った海外旅行で小銭を使い切るために買ったシャネルのルージュ。だけど好みの色ではなくて、使わないままだったそれを捻って出し、廊下の大きなガラス戸に文字を書きなぐった。

『頭を冷やす必要があるわ。しばらく、さようなら』

 ルージュでは柔らかすぎてうまく書けないってことが判った。小さい頃に観た「魔女の宅急便」てアニメのオープニングに使われていた松任谷由美さんの曲「ルージュの伝言」に憧れていたから、一度やってみたかったのだ。

 だけど、綺麗に書けなかった。洗面所の鏡だとうまくいくのかしら・・・とぶつぶつ言いながら、折れた口紅をゴミ箱に突っ込んだ。そして台所の電気だけをつけて、さっさと家を出た。


 夜の中を駅前まで歩いて、電車に乗った。時間も11時を過ぎていて、私はぼーっと窓の外に散らばる町の明かりを見詰める。

 都心に出てから公衆電話を見つけ、女友達の弘美に電話をかけた。

『はい?』

 公衆電話からだろう、慎重な弘美の声が聞こえる。

「弘美?私よ」

 相手はしばらく黙ってから、笑いながら言う。

『残念ながら、私って知り合いはおりませんが』

 私もつい笑ってしまった。

「はい、こちらはまりです。急で悪いんだけど、今晩泊めてくれない?」

 うん?と相手の笑い声が止む。

『・・・どうしたの、まり?』

 私は端的に答えた。

「夫婦喧嘩よ」

 するとあははははと軽やかな笑い声が聞こえて、弘美が言った。

『バッカじゃないの、あんた達。締め切りも終わったし、私は勿論オッケー。バカバカしいけど力になるわ。おいでよ』

 私は受話器を持ったままにやりと笑う。

 持つべきものは、毒舌家の友達だ。この言われようでは涙も湧かないわ。

 コンビニでお菓子やなんやを色々買い込んで、弘美のマンションまでぶらぶら行った。

「へーい、いらっしゃーい!」

 明るく、ヘビースモーカーで全国毒舌家団体代表(そんなものがあれば、間違いなく代表だ)の弘美が玄関のドアを開ける。

 私はホッとして、頬がゆるんだ。

 やっぱり喧嘩は心が荒む。ビールとともに、それだって胎教には悪い筈だ。

 玄関には入らないままで、弘美に言った。

「彼にはナイショにして欲しいの」

「オッケー」

「携帯は使えないから、弘美の携帯をちょっと借りると思う」

「オッケー」

「色々全部、あることないこと聞いてくれる?」

 弘美が首を傾げた。

「・・・ないことは言わなくていいわよ。時間の無駄」

「慰めて、励ましてくれる?」

「あんたに必要なのは慰めや励ましや男じゃなくって、盛大なバカ笑いよ!いいから入りなさいよ」

 引っ張り込まれた。

 私は、弾んだ気持ちで友達を見る。素晴らしい、彼女は私の大事な起爆剤。

 私が持参したコンビニの袋から出したのがペットボトルのお茶で、弘美がのけぞって驚いた。

「・・・え!?」

「え?え、て何よ」

 弘美は目を見開いたままペットボトルを指差す。

「まり、それ、お茶だよ」

「判ってるわよ。買ったのは私だもの」

 弘美は変なものを見た顔をして、火のついてないタバコを指に挟んだまま固まっている。

「・・・アンタがビールを持ってこないなんて。それも、夫婦喧嘩なんてストレスが溜まりそうなことをしでかした後で。それにそれに、よく見たら、アンタ―――――」

「うん?」

「酔っ払ってない!」

 ・・・・私は一体、どんな女だったのだろうか。夫にしてアルコールとセットだと言われ、親友には袋からお茶を出したら仰天されるというのは。

 弘美はしゅっと目を細めると、じーっと私を見た。相当恐ろしい顔になっているのはきっと気付いていないだろう。鏡でも出してやるか?

「――――まり、もしかして。オメデタ?」

 私は驚く。何て鋭いんだ!と思って。さっすが女性。侮れない人種だ。だけどそう言った親友は、目の前で自分の言葉を手を振ってあっさりと打ち消し、どこに笑うところがあったのか知らないが、大爆笑している。

「ぎゃはははは!!まさかまさかまさかよねえ!ないない、まりに限ってそんな普通の女みたいなことねーよ!」

 失礼だ。何だってんだ、この女は。

 私は片眉を上げて、弘美をじろりと見た。

「・・・・あのね、やることやりゃあ出来るのよ、子供はね」

 ぴたりと爆笑を止めて、今度こそ本気で驚いた顔で弘美が私をじっと見た。

「マジで?」

「うん、将来の弘美のダンナの名にかけて」

「まーじーでええええ!?」

「うん、なんなら将来のアンタの子供の名前にかけてもいい」

 やかましいわ!そのムカつく賭け対象止めなさいよ!と彼女は立ち上がり、火のついてないままだったタバコを机に放り投げた。

「畜生!」

 私は怪訝な顔で見上げる。どうしてこんなに怒られなければならないのだ。

「何怒ってるの?」

 私の問いかけに、キッと顔をこちらに向けて、彼女が放った言葉はこれだった。

「私、ここでタバコ吸えないじゃん!自分の部屋なのに、どうしてくれんのよ!」

 ・・・・そこ?そこなの?先ずは、おめでとう!だろうがよ、社会人・・・。

 私は憮然とした。



 その後、包み隠さず話すのに2時間はかかった。深夜に若干のハイテンションで今までのことを話す。

 私が妊娠していると知ってしまったせいで急遽禁煙体勢に追い込まれたヘビースモーカーの弘美は、イライラとテーブルを叩きながら、桑谷さんと玉置さんと管理体制の悪い百貨店とに悪態をつきまくりながら座っていた。

「ダメ。無理。何で私がこんな目に」

 といいながらベランダに転がり出て、愛用のジッポでコンマ2秒でタバコに火をつける。

 あああ〜・・・うまい、美味すぎる〜・・と至福の声がベランダから聞こえた。そして、ちょっと落ち着いた声になってから、弘美は私に聞いた。

「それで、どうするの?明日には家に帰るの?」

 私は手をぴらぴらと振る。

「まさか。当分帰らない。ホテル暮らしよね。ここにいるとアンタが禁断症状で死んじゃうと思うし」

「・・・ええ、ここは諦めて下さい」

 もう、どうしてそんな面倒臭いことになったのよ〜・・・と今まで話を聞いていたハズの女の呟きが聞こえた。

「彼から電話か訪問があると思うの。その時は、よろしく」

「・・・仕方ないわね。もう謝ったんだから、許してやったらいいじゃないのよ。彼は別に罪がないでしょうが」

 私はチッチと舌をならして指を振る。

「彼は私の気持ちを理解しようともせず、丸め込もうとしたのよ。これで妊娠したなんて言ったら、これ幸いとばかりに仕事を辞めろとか言うに違いない」

「・・・辞めたらいいじゃん」

 私は、もしもし?と弘美を見詰めた。ベランダから半身だけ部屋に入れていた弘美は、その私の顔を見て、あー、はいはい、と手を振る。

「基本的に一人で立ちたいアンタにそんなこと出来るわけないわよね。・・・あーあ、私は桑谷さんに同情するよ。可哀想に、まりと結婚したばっかりに・・・」

 ストレートなご意見ありがとう、だ。

 大体私は人に命令されるのが嫌いなのだ。仕事を辞めろと言われてハイ了解ですなどとは頷けない。

 自分の食い扶持は自分で稼ぎたい。私が家にいるとビールの消費が増えるだけだっつーの。

 養ってもらわなくてもいい。主従関係を結びたいわけではない。だから彼のことを「主人が」などとは呼ばない。私が欲しいのは、魂の半分、パートナーなのだ。

 手を入れる為に努力したなら、それを持続させる為の努力も必要であるべきだ。ヤツは晩ご飯のあと、それを軽んじた。

 今そこをちゃんと固めれないと、遠くない未来にまた同じことを繰り返すだろう。そうすると一緒にはいれなくなると思う。

 彼を失えない。

 だから、今離れるのだ。


 蛍族に転向させられた弘美が部屋に戻ってくる。

 そして、取りあえず今は寝ることになった。もう、午前2時だった。

 電気を消した部屋でソファーに転がりながらうとうとと考えた。桑谷さん、帰ったかな。伝言に気付いたかな。

 ・・・・・怒ってるんだろうなあ〜・・・・。

 暗闇の中に浮かび上がる彼の顔。でも、思い描くことが出来るのは、怒髪天きている迫力満点の彼ではなく、あの日のミルク色の海での透明な瞳だった。

 桑谷さんを傷つけられるのは、私だけ。

 私は今その特権を行使する。

 そして、未来を固めたい。

 その為に、今は逃げて隠れるのだ。

 彼から。



 弘美が作ってくれた朝ごはんを食べながら、行儀悪くあぐらをかいて、私は電話をかけている。

 相手は、実家だ。

『・・・お母さんは彼に同情するわ』

 母が言った。

 私はコーヒーを飲みながら受話器を見る。・・・ここにも、敵が。何てことだ。

『まあでも、まりの考えも判らないでもない。あなたは私似だから、責任は私にあると言える。―――――判ったわ』

 ため息と共に諦めたような声がしたと思ったら、今度は嬉しそうなトーンに変わって母が話す。

『私の定宿をとっておく。それに、楽しそうだから私もそっちにいくわ』

「え?」

 驚く私にテキパキとホテルの名前と場所を告げて、昼にはそこに行くように、と指示を出していた。

『夕方にはそっちに着く。私の名前で部屋を取るから、直接上がるわね。じゃあ、後で』

 そうして電話は切れてしまった。


 私はそれを呆然と見ていて、弘美に急かされてやっと思考能力が戻ったくらいだ。

 話を聞いた弘美は朝から爆笑をして、まりのお母さん好きだわ〜!!とピョンピョンはねていた。

 ・・・元気だな、31歳。落ち着いてくれ。


 展開は思ったようではなかったけど何とか泊まるところはキープしたから、今度は休みを取らなきゃならない。元々今日と明日は連休だったからいいけれど、その後2日のシフトを誰かと変わってもらわないと店に穴が開いてしまう。

 そんなわけで、弘美にお礼を言って部屋を出たあと、私は勤務先の百貨店へ向かった。

 今日のペアは大野さんと福田店長だったはず。遅番の福田店長を上手く捕まえられるといいけど・・・と思いながら売り場へ行くと、カウンターには福田店長がいたから驚いた。

「おはようございます。・・・あれ?今日大野さんでは?」

「あら、小川さん、おはよう」

 ニコニコと笑って店長が振り返る。そして、自分の用事で早番と遅番を変わってもらったのだと教えてくれた。

「丁度よかった、店長、お話があるんです。すぐに済みます」

 お茶にいくことはないから、と言うとカウンターの前に出てきてくれた店長に、妊娠のことを話す。

「それは、おめでとう!ちゃんと妊娠だったのね、こちらも安心したわ〜」

 微笑んで、手を握ってくれる。その優しさに疲れた心が一瞬で解けた。

「なので、予告通りにこちらにはご迷惑おかけすることになります。すみません」

 私が頭を下げるのに、肩をポンポンと叩いて大丈夫よ、と話す。

「では応援を頼まなきゃね。体調は大丈夫なの?それと、仕事は続けるの?」

 私ははい、と頷いた。

「準社員では産休も育休も取れませんでしたよね、確か。だから一度は辞めることになると思います。だけど、遠い日になっても、こちらには戻って来たいんです」

 店長も頷く。

「戻って来てくれたら嬉しいわ。だけど、先のことは取りあえず置いておいて、今月のシフトは大丈夫そうかしら?」

 それなんですが・・・と私は一度深呼吸をして、福田店長を見詰めた。

「・・・嫌がらせの、ストレスが出ているらしいんです」

 医者からはストレスに感じるようなことは極力さけるべし、と言われただけだが、それを大きく大きく解釈して、つまり、ここに来なければ嫌がらせも受けないんだよね、ということにしたのだ。

 ストレスはよくない。だけど仕事にいけば嫌がらせを受ける。よって、仕事に行けない。

「今週様子を見て、と言われたので、出来ればでいいんですが、明後日と明々後日の勤務をどなたかと代わって貰えないでしょうか。来週かその次かで穴埋めは必ずしますので」

 私にいたく同情したらしい優しい店長の顔が曇る。私が受けている嫌がらせを誰よりも心配してくれたのは彼女だった。

 そして顔を上げて、きっぱりと頷く。

「大丈夫よ、大野さんと竹中さんとも相談するけど、無理なら他店から応援を呼ぶし、私は入れる」

 心底から申し訳ないと私は頭を下げる。店長は笑ってまた肩を叩いた。

「・・・予感がするんだけど、小川さん桑谷さんには妊娠をナイショにしてるんではない?」

 おおっと。私は目を瞬いた。・・・・バレてるし。




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