A
だから、今晩あたり、桑谷さんに捕まるかも、とも。
こんな時、売り場が離れてよかった、と思う。また鮮魚からじっと見詰められると鬱陶しい。彼がまだ鮮魚にいたなら、その噂はその日の内に聞いたはずだ。それがまだってことは、3階まで広がるのに時間がかかったということ。
今日は問題の2週間目だったので、私は仕事帰りに病院にいくと言ってある。産科とは言わなかった。彼は別に不思議がらずに、判った、と頷いていた。
遅番の彼と早番の私は見事に時間がずれるので、今日百貨店で出会う機会はない。なので彼が家に帰ってきた夜10時くらいに、きっと尋問にあうだろう。
俺、聞いてない、と。
そんなことをつらつら考えながらバックヤードを歩いていると、配送があったらしく地下に降りていたんだろう噂のバカ女と遭遇した。
「あら、小川さん」
私は捨てるダンボールを持ったままで足を止める。
来たか、バカ女。
「・・・玉置さん、お疲れ様です」
にっこりと微笑む。こっちだって、受付嬢をしていた時に鍛えた完璧な笑顔があるんだぞう。
玉置さんは私に近寄ってきて、微笑を浮かべた顔で言った。
「聞いたわよ、何か大変だったんですって?前のネズミの他にも色々あったとかで・・・」
やっぱり3階にも伝わったんだな、と思った。
ふわりといい香りがする。化粧品も、高いいいのを使ってるんだろうなあ〜、毛穴なんて全然ないじゃん、と思いながらじっと見詰めた。
私は、はい、と頷いて、廃棄場にダンボールの束を捨てる。
実際のところ話がどれだけ大きくなっているのかは知らないが、別にいいか、知らないふりでぶりっこしましょ。
「そうなんです。もうロッカーを開けるのが怖くなってしまって・・・」
困った顔をしてみせる。
「それからは大丈夫なの?」
通りすがりのメーカーの人間が玉置さんに見惚れたのが判った。彼女もそれを知っているようだった。ちらりと後ろを振り返って、その男性に微笑む。
私はそれを、ほお〜っと思いながら見ていた。
自覚なく誘惑してんのかしら・・・。そうだとしたら、これはもう天性のものだよね。
この人販売員なんかしてないで銀座でもいけばもっと花開くのでは?
やっと視線が私に戻ったので口を開く。
「ここ何日かはありませんね、ロッカーへの嫌がらせは」
「それは良かったわね」
お互いにニコニコと笑って話した。腹の中では何を考えているのか判らないっていうのではいい勝負だろう。
「では、失礼しますね」
私は会釈をして歩き出す。
彼女が私の後ろから見ているのを感じていた。きっとあの艶やかな笑顔は消えているはずだ。
私はふん、と鼻をならす。
くるならきやがれ、バカ女。
「おめでとう、だね。ちゃんと卵あるよ」
岩井さんというおじいちゃん先生がにこにこしながら言った。
私は微笑んでありがとうございます、と頭を下げる。
「まだまだこれから危ない時期も続くから、もう妊娠しているんだ、という自覚を持つようにね。高いヒールはやめなさい。仕事は何だっけ?」
「デパ地下の販売員です」
先生は椅子に腰掛けて、うーんと呟いた。
「立ち仕事の上冷えやすい環境だな・・・。まあ、しんどくなったら言いなさい。いつでも診断書は書いてあげるからね」
私ははいと頷く。優しいおじいちゃん先生で、心があったまる。ついに、妊娠も確定したんだ。
家に帰ってから、まずは予告通りに桑谷さんのお母さんに電話をした。
「やりました!」
第一声でそういうと、間をあけて、歓喜の声が携帯から溢れ出した。
「おめでとう!まりさん!あああ・・・どうしましょう!ありがとう、本当にありがとう!」
私はあははと笑う。よかった、喜んでくれたら。また心が温かくなったのを感じた。
「あのー、彼にはまだナイショにするつもりなんです」
「え?どうして?」
「・・・うーん。何と言うか・・・反応が予測出来ないし、私にまだその覚悟がなくて」
お母さんには正直に話す。
お母さんは黙って聞いていて、そうね、と静かに返した。
「判りました。私も黙っておくわ。伝える楽しみは、妻の権利よね」
最後は笑っていた。
私は幸せな気分で電話を切った。
そして、お風呂にゆっくりと浸かる。あたたまって、最近の嫌なことも全部チャラになるような幸福感に包まれていた。
ああ〜・・・極楽〜・・・。
ゆっくりと丁寧に体を洗い、お気に入りの部屋着を着て好きなものを作って一人で幸せに食べる。
時間は9時をさしていた。
時間を確認すると、私の意識は一瞬ハッとした。
あああ〜・・・・そろそろ桑谷さんが帰ってくるころだ・・・。忘れてた。多分、きっと、噂話について持ち出されるだろう。
うーん・・・ここはまだ不味くならないビールを一本だけ飲んどく?いっとく?許してくれる、ハニー?お腹をさする。
色々頭の中で言い訳をして、結局ビールは一本あけ、私は彼の帰宅に備えた。
そして、15分後。ガラガラとドアが開く音がした。
夫の帰宅だ。
私は意識的に呼吸をゆっくりとして、彼を迎えに立ち上がる。
「お帰り」
声をかけると玄関で靴を脱いでいた彼が振り返った。
「ただいま」
私の耳はちゃんと捉えた。桑谷さんの声がいつもより低くなっている。ひょうきんさの欠片もなし。・・・・やっぱり、聞いたんだな、あれ。
知らないふりで見上げる。
「どうしたの、機嫌悪い?」
桑谷さんはじっと私をみて、何もいわずに横を通り抜けた。
晩ご飯を出し、テレビをつけて私もテーブルにつく。ビール飲む?と聞くと要らないと返事が返って来た。
私は自分の分にと冷たい牛乳をグラスに入れる。
「お風呂、沸いてるよー」
「うん」
彼はいつものペースでガツガツと晩ご飯を食べる。尋問はなしかな?と思って、ちょっと肩の力をぬくと、彼の低い声が聞こえてきた。
「ご馳走様」
「え、もう食べたの?」
驚いて振り返ると、テレビを消して、真面目な顔した彼と目が合った。
「―――――今日、聞いた」
「うん?」
私は首を傾げる。実際は、ドクンと心臓が鳴った。牛乳のグラスを持って椅子に座る。
「・・・・君は色んな嫌がらせを受けてるらしいな」
無表情の桑谷さんからは、冷気が漂うようだった。
「まあね」
「俺、聞いてねえぞ」
やっぱり。私はため息をついた。こう予想通りだと笑っちゃう。一語一句まで想像と同じじゃないの。たまには違う反応してみせろっつーの。
「・・・ネズミの話はしたでしょ?」
「他のは?」
「家に帰ったらやることも一杯だし、忘れちゃってたのよ」
彼は黒目を細めた。迫力が増したまま座ってこっちを見ている。
「食堂で聞いてビックリした。お前の嫁さん大変らしいぞ、だと。何でそれを4階の子供服から聞かなきゃなんねーんだ。自分の妻からではなく」
ぶつぶつと苦情を言っている。鮮魚のアルバイトにまで言われたぞ、と機嫌悪そうに言う。
「あなたに言ったって、好転するわけじゃあないでしょう?」
私の言い方に更にムカついたようだった。
「犯人は判ったのか?自分で対処出来るなら――――」
「やったのは玉置さんよ」
ぴたりと彼が口を閉じた。目を開いている。驚いた顔で止まり、その後で怪訝な顔をした。
「玉置・・・?証拠はあるのか?」
証拠、だと?今度は私がムカついた。
「しそうな人が他に見当たらないし、彼女とはロッカーで喧嘩の売り買いをしたのよ。それに」
私も表情を消した。
「制服にかけられていたのは水性絵の具よ。あの人は文具でしょう?」
彼はひょいと肩をすくめた。瞳の中で揺らいでいた怒りの色は消えている。
「・・・やろうと思ったなら、誰であれ家から絵の具を持ってくるだろう」
「は?」
何だ?私は体が熱くなったのを感じた。
彼は、彼女の話題から逃げようとしている?どうして庇う?証拠があるとかないとか―――――――――
この人らしく、ない。
私も彼にならって低い声で言う。
「うちの家に絵の具なんかないわよ」
普通ないだろ。よっぽどでなきゃ。子供がいるとか、自分が絵を書くとかでなきゃ。
彼は目を瞑ってため息を吐いた。
私は持っている牛乳のグラスを握り締める。
「証拠はないわ。今は、まだ。だけど必ず見つけるし、私はこのことでかなりの精神的ダメージを受けたのよ」
「・・・・」
私が怒ったことが伝わったようだった。桑谷さんは椅子に座りなおし、両手をテーブルの上で合わせた。
「それは判る。ネズミの時の君の凹みようは覚えている」
「それに彼女は、ネズミの死骸を嫌そうにもせず普通に持った。今考えたらあの日は私の反応を見たくてロッカーでぐずぐずしていたとしか思えない」
宥めるような表情で、彼が慎重に口を開いた。
「それは考えすぎだと思うぞ。玉置さんは時間調節で出勤だったのかもしれない。それに―――――」
困った微笑で私を見た。
「君だって、ネズミだろうがゴキブリだろうが平気だろう?」
時間が止まったみたいだった。彼の放った言葉は痛みを伴って真っ直ぐに私の鼓膜を揺らす。
私はその時、確実に頭の中の血管が一本切れた音を聞いた。
彼から目を離さないままで、飲んでいた牛乳のコップをテーブルに叩き置いた。
ガチャン!と凄い音がして、中身の牛乳は天井近くまで飛び上がり、コップは私の手の中で砕けた。
コップを握る手の形のままで切れた皮膚から出る赤い血が、牛乳の白と混ざってテーブルに広がる。
私のブチ切れを呆気に取られて見ていた彼が、そこで我に返った。
「―――――おい、大丈・・・」
私に手をのばそうとしたところで、下から掬い上げるように睨みつける私の視線と出会い、体を止めた。
「・・・・まり」
「うるさい」
出た声は低かった。我ながら、よくそんな凄みが出たものだと驚いた。
「――――――」
桑谷さんは言葉を失って立ちすくむ。目を見開いたまま固まっていた。
「・・・私は、怒ったわよ」
彼は動きを止めていた体を再び椅子に埋めて、眉間に皺をよせて深いため息をついた。
「―――――まり」
「うるさい」
「・・・俺が悪かった。とにかく、手当てを―――――」
そしてまた手をのばす。
私は目を離さないままで相変わらずの低い声で言った。
「私に、指一本、触れないで」
彼がするりと目を細めた。今やまた、私と同じように体から怒りが発散されつつある。
手の中で砕けたコップのガラスが照明で光る。私の血は牛乳と混ざり、ピンク色になってテーブルの端から滴り落ちていた。
空気は緊張で満ちていた。
「一体、何を悪いと思って謝ったの?あなたが一向に私を慰めてくれないこと?それどころか自分は報告を受けてないと私を責めたこと?それともあのバカ女を庇うこと?もしかしたら私がとばっちりで迷惑をこうむっているのを判っていて、それでも自分が何もしないこと?」
話しながら私は口元を歪めて不快な声で笑った。
手は痛くなかった。でも後で痛むことが判っていた。桑谷さんはぐっと両目を閉じて、長く細く息をはいた。
「・・・・その、全部でいい。俺が悪かった」
「まさしく失言よね。一度出た言葉は二度と戻らないわ。あなたはそれを学ぶべきね」
「・・・」
「確かに私はネズミもゴキブリも平気よ。だけど、だから、何だって言うの?平気だから投げ入れられても笑って許せと?それは、今、いう事なわけ?やられた酷いことに関してはスルーするの?」
「・・・手当てをしないと」
私はあはははと声を出して笑った。怒りのあまり、自分が壊れたのかと思った。多分、壊れていたのだろう。
「・・・ちゃんと聞こえてた?――――――私に、指一本、触れないで」
彼は片手を頭に突っ込んでかき回し、今にも壁を殴りそうな怒りで充血した目で見る。それからイラだった声で言った。
「・・・これ以上、どう謝ればいいんだ?」
「謝罪が欲しいんじゃないのよ。そんなことも判らないの」
また深呼吸をして両目をきつく閉じる彼を見詰めた。
どうして判らないんだ。そこじゃないでしょう。ポタポタと音がしてピンクの液体が床を叩く。
ガタン、と音を立てて彼が立ち上がった。
そのまま財布だけを掴んで部屋を出て行く。まもなく、玄関のドアが開いて閉じる音も聞いた。
私もそこで、全身を緩めて息を吐き出した。
「・・・・ああ・・・全く・・・」
野郎って、どうしてあんなにバカばかりなの。
皮肉な笑顔で切れた手の平を見詰める。
話し合いにすらならなかった。結果は、手の平の傷と夫の退場。
あーあ。
[ 9/18 ]
←|→
[目次へ]
[しおりを挟む]