A
「上だなー。気をつけて」
「はい」
埃を被っているのにしかめ面してディスプレイ用品をお腹に抱える。そしてそろそろと脚立を降りた。
「は、取れた、と」
取った物を床に置いて脚立を直す私を桑谷さんがじっと見ているのに気付いた。
「何?」
彼は腕を組んで棚の一つにもたれかかったまま、ぼそりと言った。
「・・・本当に凹んだみたいだな。元気がない。何があった?」
私は苦笑を浮かべたままで彼の近くまで戻る。
「・・・あまり思い出したくないのよ。店長が待ってるし、行かなきゃ」
そして横を通り過ぎようとしたところで、彼に腕を捕まれた。
「言えよ」
私の腕を掴んだままで彼は足を伸ばして入口のドアを蹴って閉める。バタンと音を立ててドアは閉まり、ストック場の中には私達二人だけ。
私は疲れてため息をつく。・・・もう、面倒臭いんだってば。
「あなたは売り場に戻らなくていいの?」
「俺はこのまま休憩だ」
「私は違うのよ。さっき出勤したばかり」
「だから早く言えよ」
くそ。しつこいな。私は目をぐるんとまわしてまたため息をつく。
「出勤したら、私のロッカーの中でチューちゃんが死んでたの」
「え?」
桑谷さんが目を見開いた。
「チューちゃん?」
「ネズミよ。知らないの?」
私はイライラと返す。桑谷さんはその私に驚いたようだった。腕を放して身を引く。
「・・・ロッカーの中に?」
「そう。それで一度売り場に行ってから靴を買いに行かなきゃならなくて。無駄な出費だし、自分のロッカーで生き物が死んでいるのはやっぱり気持ち悪い」
私は床に置いていた資材を持って、彼を振り返った。
「えらくイライラしてるんだな」
彼の呟きがまたムカついた。
「生理前なのよ!」
つい叫んでしまってから、そりゃ来ない限り、永遠に生理前なんだわ、と考えてまたため息をつく。
桑谷さんは無表情で私を見ている。何やら機嫌の悪い妻を持て余して、観察しているようだった。こういう時、彼はいつも無駄口を叩かずに黙って私をじっと見詰める。
私は小さく呼吸をして、ドアを開けながら言う。
「・・・ごめんなさい。とにかく、私は戻るわ。鍵、ありがとう」
「ああ」
そして資材を抱えて売り場に戻った。
行ったときよりも仏頂面で戻ってきた私に福田店長が驚いて、どうしたの、と聞くから話すと、ああ、と苦笑していた。
「生理前のイライラは、男性には永遠に理解出来ないでしょうね。桑谷さんも間の悪いというか・・・」
言いながらまだ冴えない私の顔を見て、福田店長は首を傾げた。
「どうしたのよ、一体」
私は肩を落として、実は、と話す。
「・・・彼の実家へ母の日のお祝いに行ったときに、お義母さんに妊娠じゃないのって言われて・・・」
「え?」
元々持病でずっとなかった頭痛が最近酷いこと、でも生理不順で日数的にはまだ良く判らないことを話す。
福田店長は黙ってそれを聞いていて、カウンターを指でトントンと叩いていた。
「・・・有り得るわ。私も悪阻は酷くなくて、一回も吐かなかったし」
「ううう・・・」
唸る私の手を叩いて、店長はまあまあ、とにっこり笑って言った。
「もう結婚もしてるんだし、悪いことじゃないじゃない。むしろ喜ばしいことよ」
「・・・はあ。それは、確かにそうかもですが・・・」
「ハッキリするまで気持ち悪いでしょうけど、仕方ないわね。来週には6月になるんだし。・・・もし陽性だったら、すぐ教えて頂戴ね。繁忙期のシフトの問題があるわ」
店長の言葉にハッとした。
そうだ!一人混乱状態でそれを忘れていた!
今妊娠となると、この夏の繁忙期にもろ被ってしまう。妊婦の販売員はたくさんいるが、やはり重いものはもてないし、大体あの体ではこの狭いカウンターの中に入れない。
だから、変動シフトを組んでもらうか別のアルバイトを雇って穴埋めをしたりするのだ。
お客様にも同僚にもとても気を遣われるハメになる。それで当然だし、他人の事なら私も喜んで気でも何でも遣うが、いざその状態に私が耐えられるかは全く別だ。
「・・・・済みません」
私の凹んだ声に、店長はカラカラと笑う。
「謝ることじゃないわよ!当たり前のこと。でも手配があるから、判ったらすぐ教えて頂戴ね。もしかしたらあなたは悪阻の酷い人かもしれないし。そうだったらとてもデパ地下では仕事できないわよ」
ね、と言って福田店長は催事の会場を指差す。
今週の催事は九州物産展で、餃子やラーメンの匂いが売り場にまで流れてきていた。妊婦でなくても体調の悪い日は気持ち悪くなることがある。
うんざりした私の肩を叩いて、店長は明るく言った。
「まあ結果がでるまであまり考え込まないようにね。それで余計生理が遅れるかも。とにかく遅くなるから私はお昼に出るわね」
はい、と頷いて、私はそうだと店長を引き止める。
「・・・桑谷さんには秘密にしてるんです」
店長は頷いた。
「了解です。誰にも言わないわ。ここのゴシップ流布力は凄いものがあるからね」
ええ、去年はそれを大いに利用させて頂きました。
店長がお昼に出て、私はしばらく呆然とカウンターに佇む。
・・・ああ・・・私の毎日が、変わっていく・・・。
そんなこんなで私は一人、鬱状態で6月までを過ごしていた。その私を心配する桑谷さんに「5月病よ」と簡単に答えて、その気になれない私は、夜もしくは朝、たまに昼にある誘惑も3回に2回は逃げた。
お酒を口にしなくなったので、台所にはビールが溜まっている。それを眺めて桑谷さんが振り返った。
「―――――重症だな、まり」
「はい?」
雨で、私は室内に洗濯物を干しながら振り返る。いきなり話を振られて頭が混乱した。
「何が重症?私のこと?」
彼は肩をすくめてビールを指差す。
「君とアルコールはセットなんだ、俺の中で。それが、飲まれないビールが台所に溜まっている初めての光景に驚いている」
私はパンと叩いて皺をのばし、洗濯物を干していく。頭の中で言い訳を懸命に考えていた。うーん、よし、女性の永遠のテーマで逃げよう。
「・・・私も初めてよ。だけど、最近お肉がついてきたのよ」
「ん?」
私は二の腕と太ももをつまんだ。
「見て、この不快な脂肪」
桑谷さんが苦笑した。
「・・・ぷにぷにしていて気持ちいいけど。それに、気にするほどついてるとは思わない」
「ダメ、これは不快なのよ。そして、それは運動不足とアルコールによるカロリー摂取の結果だと思っているの」
「ジムにでも行くか?」
彼の声に笑いが含まれた。・・・よしよし。誤魔化せている。
私は洗濯物を終えて籠を持つ。そして彼を見て首を振った。
「繁忙期に入ったら店でも動くようになると思うし、もう少し暑くなったらビールも我慢出来ないと思う。ちょっとジタバタしてみてるの、私」
にっこり笑うと、やっと納得した顔をして、桑谷さんが頷いた。
・・・・はあ〜・・・危ない危ない。心の中で胸を撫で下ろす。いやあ、中々大変だわ。さっさと検査しようっと。
検査棒はもう既に購入済みなのだ。あとは、実行するだけ。私は壁のカレンダーを睨む。そして、籠をしまいに洗面所に向かった。
6月に入った最初の日。
私はまた自分のロッカーの前で、唇を噛んで立ちすくむ。
「・・・・」
信じられない。不快さを押し込めて、たまたま誰もいないロッカールームで、私は目を閉じて目の前の光景を追い払おうとしていた。
今度は虫だった。生命をうしなったそれが、バラバラと私のロッカーの中に転がされている。
・・・虫だけに、無視したい。
下らない駄洒落コメントを呟きかけた。取りあえず、怒りに力を借りて非常に事務的にそれらを片付ける。ぱっぱと掃除をして、私はベンチに座り込んだ。
・・・・これは、私のロッカーに自ら忍び込んだとは思えない。これが偶然でないなら、あのチューちゃんだって、もしかしたら・・・。
2回目の休憩の時間で、たまたまロッカールームには誰も居なかった。今朝は別に異常もなかった。ってことは、出勤してから今までの間に入れられたのだ。
私のロッカーの暗証番号は、4つ並んだ下のダイヤルを二つ回すだけにしかしていない。だから時間さえかければ誰にでもあけることは出来るはずだ。
もしくは――――・・・・。
私は斜め後ろの玉置さんのロッカーを振り返る。
後ろから、じっくりと私の手の動きを見てさえいれば・・・。
「畜生・・・」
ネズミだって虫だって、実際のところ大して苦手なわけではない。好きでは勿論ないが、彼らの存在を忌み嫌ったりまではいかない。
だけど、ここ最近の私は情緒不安定なのだ。
しかも、自分のお腹の中に子供がいるかもしれないと思っていて、その理由だけに、何であっても死骸ってだけで拒否反応が出てしまう。
アクション映画ですら殺される悪役を見て、彼にも母親がいて、色んなことがある人生を一所懸命生きてきたんだろうなあとか考えてしまい、今までみたいな爽快感を感じたり出来ないのだ。
「・・・畜生」
えぐい仕返しだ。これが彼女の仕業だとしたら、マジでえぐい。今の私にはキツイ。
そしてゆっくりと思い出した。
彼女、ネズミの時も大して嫌そうではなくティッシュで包んでいた。私も周囲もそれに驚いたんだった。
・・・自分でやったのなら、出来るだろうよ、それも。
ふつふつと怒りが沸いてくるのを感じた。
あのアマ。ここで私にバカにされた仕返しがこれだとしたら、呆れるほどの陰険さだ。
もう休憩時間は残っていないはずだった。
私は深呼吸をして落ち着く努力をすると、立ち上がってロッカーを閉めた。暗証番号も設定を変える。これが防御になるかは判らない。だけど、やれることはしておかねば。
あーあ、と眉間の皺を指で伸ばす。まったく、どうしてこんなことに。私は今それどころじゃないってーの。
アンタに構ってる暇なんかないんだよって怒鳴りに3階の文具まで行きたいぜ。
玉置の、あの綺麗な顔を張り倒したい。そうすればさぞかし――――――
歩きながら無意識のうちに指を鳴らしてしまった。
証拠を掴まなければ。まずは、それだ。そしてあのバカ女の首をしめたい。
残りの勤務時間を、私は頭の中で彼女をボコボコにする想像をして楽しく過ごした。
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