2、攻撃と防御。@
その夜はいくらかぼーっとしていたらしく、桑谷さんに何度か大丈夫か?と心配されてしまった。
私がビールも一本で終わらせたので、彼は本気でこれはおかしい、と思ったようだった。
「頭痛、まだ酷いのか?病院は?」
私はお皿をシンクに運びながら、振り返りもせずにそのまま言う。
「大丈夫よ、ご飯前に飲んだ薬が効いていて、多少ぼーっとしてるだけ。それを思い出してビールも我慢したの」
罪のない嘘ならスラスラはける。そして、強引に話題を変えた。
「お母さん、元気だったよ。一緒に行けばよかったのに」
途端に覇気のなくなった声で、彼がうんと返事をする。
「・・・行ってくれてありがとう。俺は、また今度でいい」
「顔見せるのが、そんなに嫌なの?」
「・・・別に、嫌では」
「孝行したい時に親はいずって言うでしょ?たまに会いにくらい行ったら?」
私の突っ込みに、これ以上は分が悪いと思ったらしく、ヤツは風呂を理由に逃走した。
恐らく、照れくさいんだということは判っている。
ずっと若くして自殺するという歴史を繰り返してきた桑谷家の男に生まれ、母親もその呪縛にかかって苦しんできた家だ。呪いを解いて無事結婚したとはいえ、おいそれとはわだかまりは消えないのだろう。
彼は、自分を見る母親の目に、悲しみと苦しみと恐怖を感じてきたのだ。その記憶を溶かすのは、難しい。
台所を片付けてしまって、お風呂から音がするのを確かめた。
私は廊下に出て、庭の牡丹を眺める。
私がもし、子供を産んで――――――
完全に、呪いを解けたなら。その子の存在で、親の気持ちを彼が判るようになったなら・・・・そうなれば、関係は変わってくると思う。
彼も、お母さんも。そして多分、私も。
またお腹を撫でてしまう。
・・・・ここに、いるの?心の中で問いかける。
君は、いるの?
毎年少しずつ時期が早まって、5月も中旬から、中元のギフトの早期割引が始まった。
「まだ夏は先じゃないよ〜・・・」
ぶつぶつ言う竹中さんに、それはもっともだけど、と頷いて、さあさあと店長はお尻を叩く。
ギフトの見本を出しにいく役目は熾烈なじゃんけんの結果、竹中さんに決定したのだ。
私はそれを笑いながら見ていて、そういえば、この時期だったな、ここの店に男への復讐のためにもぐり込んだのは、などと考えていた。
1年の差は、デカイ。
去年と今年ではあまりにも違いすぎて、その差にクラクラするほどだ。
そんなわけで早期割引が始まって日々の業務が若干増えてきたある日の昼前、私は遅番の出勤で、売り場に入る11時半に間に合うようにとロッカールームのドアを、10時50分に開けた。
ずらりと並ぶロッカーの2列目に入って行き、最初に出くわしたのは一番会いたくない人だった。
「あら、おはよう、小川さん」
玉置さんが本日も輝きを放ちながらにっこりと笑う。
・・・またお前か。
正直な所うんざりしたけど、それは隠して私も笑顔で会釈する。
「おはようございます」
早番では会わなかったのにな。何でだろ・・・。彼から仕入れた情報で、出勤時間も違ってて喜んだばかりなのにな。ってか、私服のスーツで仕事なんだからロッカーにそんなに用はないでしょうが、早く出て行け、と心の中で呪いながら私は自分のロッカーを開けた。
その途端、奇妙なものが目に入る。
「うわっ・・・!」
つい叫んで後ろに飛びのいた。
私のロッカーの中、店内で履いている黒いローファーに被さって無残にねじれて転がっているのは、ネズミだった。ミミズのような長い尻尾が目に入る。
ザアっと血の気が引く音を聞いた。
「―――――――どうしたの?・・・・あら、まあ」
後ろから玉置さんが覗き込んで、パッと口元を手で押さえた。同じく異変に気付いた周囲からも悲鳴が上がる。
「・・・どうしてこんなところに」
私の呟きに、本当ね、と応えて、美しい眉を顰めて玉置さんが聞く。
「―――――・・・死んでるわね。小川さん、ロッカーの中に、食べ物とか入れていたの?」
正視に堪えなくて、私は可哀想な生き物から目を逸らす。
「・・・入れてません。地下ですらあまり滅多に見ないのに、どうしてロッカーになんか・・・」
そして、なぜ私のロッカーなのだ。
あああー・・・気分悪い。深呼吸しよ。
「とにかく、このままにはしておけないわよね」
ネズミが(しかもお亡くなりあそばしたのが)大丈夫らしい玉置さんは、自分の鞄からティッシュを出してそれを包み込んだ。
「ゴミのおじさんにどうしたらいいか聞いて来るわね。小川さん、真っ青だけど大丈夫?医務室行く?」
私は、いえ、と手を振る。
「大丈夫です。ありがとうございます。済みません、処理まで・・・」
玉置さんは美しく笑って、気にしないで、とロッカールームを出て行った。
周りのロッカーを使っている従業員が一斉に息を吐き出した。何人かが、あの人すごーい、と玉置さんを賞賛している。
奥の方から騒ぎを聞きつけた隣の店の友川さんが走ってきた。
「小川さん、大丈夫!?」
「うん、何とかね。気持ち悪いけど」
・・・・あーあ、私の靴・・・。情けない顔でもう履けない店内用のローファーを見た。買いに行かないとダメよね。これにはもう二度と足を突っ込みたくない。ベンチに座り込んで、深いため息をついた。
とりあえず制服に着替えて名札はつけずにカーディガンを羽織り、売り場へ降りる。
「おはよう、小川さん。―――――あら?」
まだ髪も下ろしたままの私を見て、福田店長が首を傾げた。私物鞄を仕舞って財布だけを手に取り、私はしゃがんだままで店長を見上げた。
「私のロッカーで、チューちゃんがお亡くなり遊ばしてまして」
「ええ!?」
「・・・靴の上で」
「・・・あらあら」
それで、ヒールなのね、と店長は頷く。
「済みません、スーパーに靴買いに行ってもいいですか?」
了解を貰ったので、すぐに戻りますと頭を下げて、同じ施設の中に入っている大手のスーパーへと走る。
もう取りあえずでいいからとパッと選び、2000円で黒いローファーを買って百貨店へ戻った。
「いいの、あった?」
店長が聞くのに、私は仏頂面で答える。
「もう何でもいいや、と思ってコレです。でもこの2000円の出費、ムカつきました」
私の言葉に福田店長は苦笑した。
「・・・まあ、原因が原因ですものね。でもロッカーでチューちゃんなんて、初めて聞くわ〜」
ここはまだオープンして6年目の百貨店なので、地下であってもネズミはあまり居ない。見かけたことなどないし、ちょっと話に聞くかな?程度なのだ。
施設としては上等で、バックヤードや従業員のトイレなども他の百貨店に比べたら格段の差がある。綺麗さも、便利さも。
なのに、なーぜー。
「ううう・・・本当に驚きました」
しゃがんでお客様から隠れ、髪をまとめて帽子に突っ込む私の泣き言に、店長はよしよしと優しく慰めてくれた。
「気分変えに、資材でも取ってきてくれない?」
「はい、了解です」
私は笑顔でこたえる。店長、愛しいぜ。
滅多に使わない資材は3階のストック場に置いてある。売り場も暇だしまだお腹も空いてないし、急がないからゆっくりでいいわよと言う店長に頷いて、バッグを持っていつもの北階段を3階まで上がった。
「あれ?」
廊下の端にあるストック場まで歩いて行って、ドアの張り紙に気がついた。
『施錠中。鍵は総務まで』
・・・・うそん。私はガックリと肩を落とす。・・・総務って、2階のこれまた端じゃん・・・。
何でよー、いつの間に鍵をかけることに決まったのよ〜・・・。目の前のドアに八つ当たりしたい。イライラと拳を握り締める。
今日はツイてない日なんだな、そういう日ってあるよね、と仕方なく自分にそう言い聞かせていたところで、低い、よく通る声が耳を撫でた。
「――――あれ、まり?」
振り返ると、本日はスポーツブランドから支給の上下を着た桑谷さんがパッキン(段ボール)を二つ抱えて遠くのドアのところからこっちを見ていた。
私は無表情のまま手をヒラヒラ振る。
「どうした?えらく暗い顔だな。3階に用か?」
スタスタと歩いてきて、足元にパッキンを下ろす。軽々と持っていたからウェアかなんかの軽いものかと思ったら、下ろした床に結構な音が響いてビックリした。
店内で彼に遭遇するのは久しぶりだ。私はテンションを少し持ち直して、ストック場のドアを指差した。
「今朝は色々とツイてないの。気分変えに資材取りに来てみたら、コレだし。また2階まで行くなんて面倒臭い・・・」
ぼそぼそと苦情を言うと、ああ、と明るい声を出して彼は笑った。
「一つ、解決だな。鍵は俺も持ってる」
「・・・おおー!!」
そうか、彼は3階で働く社員!しかも責任者クラスの人間ではあるから、鍵も任されてるんだー!
思わず両手を叩いて喜ぶ。素敵。これぞ運命の出会い!
腰に巻いている小さなバッグから鍵を出してストック場のドアを開けてくれた。
「ありがとうございます!」
ウキウキとなった私が頭を下げると、これ置いてくるとパッキンを抱えて売り場の方へ歩いて行った。
消えている電気を片手で押してつけ、自分の店の棚のところで資材を確認する。
脚立を持ってきて上の方から取っていたら、彼が戻ってきた。
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