2、我慢なんてしない。@
午前中、売り場から振り返ると、鮮魚で働く彼が見えた。
昨日は私が休みで一日弘美といたし、その前日は無視していて、その前2日間は彼が居なかったから、姿を見るのも久しぶりだった。
その事実に、実はうんざりした。
福田店長が私の様子に気付き心配そうにしていたけど、瑣末なことですので、とかわしす。
彼が一度もこっちを見ないのは、不自然だった。
・・・・あのヤロー、私を避けてる・・・。
お昼の休憩でも会えなかったのは、わざわざ無視しているとしか思えない。
と、いうことで仕方なく(というには嬉々として、だけど)、私は強行突破に出た。
逃げられない道に追い詰めることにしたのだ。
つまり、売り場に出向いた。
休憩が終わり売り場に向かう途中、デパ地下の店員入口を入って一礼をしてから、自分の売り場に戻るのではなく、鮮魚売り場を目指した。
丁度、厨房ではなく、売り場に出て手を叩いて客寄せをしている彼を発見した。
その人めがけて真っ直ぐに歩いていく。
大きなよく通る声で、刺身のパックを並べながら本日のお勧めを紹介する彼の横に黙って立った。
「どうぞ、ご利用―――――」
客だと思って体を横に避け、顔を上げた彼が私に気付いた。
「――――――」
口を開けたまま一瞬固まった彼を、私は無表情で見詰めた。
コホン、と空咳をして、小さな声で桑谷さんが言う。
「接客中だ」
私はわざと目を大きく開けて、たまたま人通りの途絶えた鮮魚売り場を見回した。お客様はどこ?
彼は目を伏せてため息をついた。
「――――――・・・訂正。仕事中だ」
私は目を細めて口元で笑った。自分でも皮肉な笑顔だろうと思った。
「・・・確か以前、似たようなことをあなたにされたわね」
ようやく私に体ごと向き直り、肩をすくめて彼は言った。
「それで、君は俺を追い払った」
「『こうでもしなきゃ、君が捕まらない』ってあなたが言った」
「『公私混同は恥ですよ』って返されたんだったな」
私は下を向いてため息をつく。
そばに来ていたお客様が通り過ぎるのを黙って待っていた。
お互いの記憶力が確かなのはわかった。
あの時の私と同じように、マーケットの社員さんやバイトさんたちの視線を彼が気にしているのにも気付いていた。だけどそんなこと、今の私は気にしない。
「・・・何がどうなっているのか、今日中にちゃんと説明してちょうだい。でなきゃ――――――」
言葉を切った私を、彼はいぶかしげな顔をして見る。首を傾げていた。
「あなたは私を失うことになる」
私はゆっくりとそう言ってから、挑戦するかのように笑顔を見せた。
「・・・俺と結婚しないってことか?」
声を更に小さく低くして、桑谷さんが言った。細めた目が表情を変える。
私は小さく微笑んだまま言葉を繋ぐ。
「いえ、失うの。そのままの意味で」
「・・・仕事を辞めて、部屋も解約して、行方をくらます?」
「そうね」
デパ地下の喧騒が遠のいた。空気の中に緊張が満ちる。
「―――――俺はまた君をみつける」
「前と同じ手は使えないわ」
桑谷さんは私の返答に口元だけで笑った。本格的に機嫌を損ねたのが判った。
「少し時間がかかるかもしれない。・・・・だが、必ず見つける」
私は笑顔を消し、彼をじっと見詰めた。
そしてゆっくりと言った。
「その時には、私は既に他の男の妻になっている」
一瞬ハッとしたような表情で私を見たあと、目を伏せて額を腕でぬぐい、彼は長いため息をついた。
「・・・・・今晩、君の部屋に行く」
私は一度頷いて、鮮魚売り場を離れた。
心臓はドキドキいっていたけど、目的は達成した。これで彼は私から逃げられない。
周囲の視線を浴びながら、営業用のスマイルを貼り付けて自分の売り場へ戻る。
心の底から思った。
‘可愛い女’なんて、クソ食らえ。
どちらも早番で、しかも閑散期だったので、6時には仕事が終了した。
百貨店から近くの部屋に移っている私は、買い物をしても6時半には帰ることが出来る。
スーパーのビニール袋を提げて自分のアパートに戻ると、見上げた二階の自分の部屋に明かりがついているのに気付いた。
どうやら桑谷さんはもう来ているらしい。
しばらく立ったままで呼吸を整えて、階段を上がっていった。
廊下に響いたヒールの音で気がついたらしく、部屋までもう少しってところで先にドアが開く。
不機嫌なのを隠そうともしない彼が、ドアを抑えて私を通した。
「――――――お帰りもなし?」
私はビニール袋を台所に運びながら言う。後ろから入ってきた彼が低い声でお帰り、と呟いたのを聞いた。
淡々と冷凍食品と生ものを冷蔵庫へ仕舞う。
動きながら、何をどう聞こうかと考えていた。そうしたら、その内面倒臭くなってきた。・・・大体、何で彼が不機嫌なのよ。放って置かれたのは私でしょうが。
冷蔵庫を閉める前に取り出した水をペットボトルから直接飲んだ。ゴクゴクと音を立てて飲み干す。
・・・・何か、またムカついてきた。
後ろで腕を組んで壁にもたれている彼をちらりと見て、言った。
「・・・・機嫌が悪そうですね、桑谷さん」
視線が空中で絡んだ。高まっていく緊張感が、部屋の空気を暗くしていく。
「・・・」
「・・・どうして私が睨まれてるのか判らない。でも、仕事帰りに機嫌が悪い人と一緒にいるのは嫌だわ。どうぞ、帰ってくださいな」
ペットボトルをシンクに置いた。片手で瞼を揉んでいる彼に体を向ける。
「・・・説明が聞きたいんだろう?」
彼への返事として首を振った。
「もういいわ、必要ない。不快な思いまでして聞きたくない。あなたが話したがらないことを無理やり聞き出したって、更に不快になりそうよね、あなたのその態度だと」
一度頭を振って深呼吸をする彼を見る。怒りを抑えているのだと判った。
私と視線をあわせ、表情を消した彼が言う。
「俺が君を大切に想っていることは判っているはずだ。あんな・・・職場で、それを盾に取るなんて」
彼は細めた目に怒りを込めてギラギラ光らせていた。
私はフン、と挑戦的に顎を上げる。
「それはごめんなさい。―――――私は、目的を達成するためなら使えるものは何でも使うのよ」
相手と同じように腕を組んでシンクにもたれ、付け加えた。
「我慢なんてしないわ」
舌打ちをした彼がじっとこちらを見詰めた。眉間に皺をよせて、瞳を細めて。
怒りを全身から発散していた。
私は乾く唇をなめて湿らせる。
彼と対峙している。
空気は緊張してピリピリと音がしそうだった。
無意識にもう一度舐めた舌先を彼が目で追うのが判った。
「・・・・誘ってるのか?」
「まさか」
「ストレスを感じると、それを癒そうとして人間も動物も性欲が増すんだ」
彼の声がざらざらしていた。
今ここで服を脱いだら彼と仲直りが出来るんだろうか?一瞬考えて、自分の頭を叩きたくなった。―――――そんなバカな。
私は冷蔵庫からもう一本ペットボトルを出して、壁際の男に投げた。驚きもせずにそれを片手で受け止めた彼に言う。
「頭冷やして。帰るか、話すか、どっちでもいいからさっさとして頂戴。時間の無駄よ」
桑谷さんが水をラッパ飲みして、長く息をはいた。
そして私を見た。瞳の光は消えていた。
「・・・・俺が悪かった」
私は皮肉な笑顔を浮かべる。
そりゃそうでしょ。男女が喧嘩した場合、たいてい悪いのはヤローに決まってる。
心の中でそう呟いた。
[ 4/21 ]
←|→
[目次へ]
[しおりを挟む]