2、会話、不可。
「おはようございます」
方々に挨拶しながら自分の売り場まで進む。彼との付き合いがばれてから(別に隠してはなかったんだけど)、知り合いが一気に増えた。主に百貨店側の社員さんに。
元彼である斎が私の店の斜め前のプロパー店で店長をしていた頃は、あのバカ野郎の異常に綺麗な外見のせいで元カノである私にも注目が集まっていたけど、その時はメーカー側の社員さんやパートさんとの知り合いが増えたんだった。
いまやその悪魔の元彼はガッツリ犯罪者であり、ここでは名前を出すことすらタブーになっているけど。
なんせその事件の影響を受けて、食品の最高責任者が移動になったわけだし。
この10月、ほんの3日前から着任した新しい食品の責任者は佐賀部長、私はまだ見たことはないが、多少横暴な人だと噂で聞いている。
「おはよー、小川さん」
隣の店のパート、友川さんが笑って手を振る。私もそれに笑顔で応えた。
夏の繁忙期をすぎ、9月のお彼岸も終わって、洋菓子売り場は暇な時期だった。11月の歳暮早割りや12月のクリスマスと年末の大繁忙期に向けての一時的な休憩みたいなもので、洋菓子も和菓子もほんわかした空気が流れている。
10月は人事の異動も多く、たくさんの店で社員さんの入れ替わりもあったりした。だからデパ地下でも見慣れない人が多い。よく知らない人と会話する気力はなく、暇で、ともすれば眠気を誘う日々なわけだ。
暇な売り場でダラダラと翌月の売り上げノートを作る。
うちの売り場はパートさん二人も安定して働き続けているし、店長の移動も今年はないと聞いているから半年ほどの経験しかない私が一番の新人だ。
長年の派遣生活で身に着けた「人の仕事は奪い取ってでもやれ」をここでも敢行した結果、社員さん並の管理業務も任されるようになっていた。パートでそこまでしなくても・・・とは自分でも思うが、元彼に仕返しを企んだ為に嘘をついてもぐり込んだこの売り場で、保険もつけて貰え、しかも2ヶ月前には時給も上げて貰ったのだ。
恩は常に意識すべし。
「おはようございます」
11時半、遅番の大野さんが出勤してきた。情けないことに、今日はまだレジは開いていない。店の前を通るお客様ですら、まだ4人しかいなかった。
開店休業状態の売り場を困った微笑で手で指し示すと、大野さんはあははと笑った。
「閑散期だし、仕方ないわよ。品だしもないなら、いつでも休憩どうぞ」
・・・まだ、お腹はすいてないけれど・・・。振り返ってチラリと鮮魚売り場の方へ目をやるけど、背の高い影は見当たらなかった。
「まだ来てないみたいよ。桑谷さんの名札変わってなかったもの」
私の視線に気付いて同じように鮮魚の方へ目をやりながら、大野さんが言った。
名札が変わってない?あれ、でも今日遅番で出勤だって・・・。鮮魚のシフトは遅番だと11時半じゃなかったっけ?
首を傾げる。百貨店の店員入口横の出勤ボードにかかっている販売員の名札を、出勤したらひっくり返すのが決まりだ。大野さんはそれを言っているのだ。
「・・・ま、いっか」
彼は鮮魚の責任者だし、あちらは変則シフトもあるから今日はもっと遅い勤務時間なのかもしれない。
「じゃあ、お昼先に頂きますね」
頷いて、大野さんはガッツポーズを作った。レジは私があけてみせる、って。可愛いおばちゃんだ。
店員食堂で、一人でぼーっとお弁当を食べる。
桑谷さんと婚約して、彼は持ち家で家にお金がかからないからと、ほぼ同棲であるのを理由に私の家賃の半分を払ってくれている。そして食費や光熱費と毎月お金をいれてくれるので(つってもまだ2ヶ月目に入ったとこ)、私は貯金まで出来つつあるのだけれど、相変わらずお弁当組みだった。
身についた節約根性は簡単には抜けない。
百貨店の照明が眩しくて疲れた目を閉じて休める。
暇があって考えるのは、結婚の二文字。
9月にプロポーズされた時、最初は受けるつもりでいたのだ。だが、親に話そうと思いだして、ふと、このままでは両親からの彼への質問に何も答えられないと気付いた。
髪を切って不安定な彼の精神状態のこともあった。
だから、半年の猶予をおいたのだ。敢えて。
来年の1月で、私は31歳の誕生日を迎える。正月明けたら一度実家に帰るつもりではあるし、その時に両親に結婚を考えている男性がいるのだと言うつもりだった。
友達からの結婚式の招待状は30歳になる前にピークを迎えた。そして、既に離婚第一号も友達から出ている。
私に至っては、無理に急ぐ必要もないかってな心境だった。
今年の5月までは守口斎とまだ付き合っていたし、その後はそれどころじゃない展開だった。
ようやくぼんやりと考えるのだ。桑谷彰人の妻となるかと。
男らしい雰囲気と筋肉質のすらりとした体格。判断力と決断力。許容範囲は広いが、基本的には頑固。考えの読めない瞳。優しい口元。あの素敵な手。
私に付き合ってくれる男は彼くらいだろう。それは判る。
こんがらがって頭痛がしてきたから、取り合えず止めた。彼は出勤したのかな・・とぼんやり考えて、コーヒーを淹れに席を立った。
休憩から戻る途中、鮮魚売り場の奥の厨房で働く彼を発見した。
良かった。やっぱりいつもより遅いシフトだったんだ。
こっちをみたら手を振ろうと視線をそっちにやったままだったけど、彼は売り場を横切る私には気付かず手を動かしていた。
売り場に戻って、宣言通りにレジをオープンさせていた大野さんを褒めちぎり、ストック場へ行く。
そろそろ消防の点検があるって言ってたな・・。倉庫、片付けないと、と考えながら商品を紙袋に入れていく。
これと、あれ。それに、あれも。商品を入れた紙袋を持って、今度は鮮魚の前は通らずに自分の売り場に戻った。
彼とは今晩会える。
大野さんと話しながら、私は晩ご飯の献立を考えていた。
の、に。
彼は来なかった。
百貨店が閉まる8時半を過ぎてからメールを受信し、今日も昨日の知人と会わなくてはならなくなったから行けないと、理由と謝りの内容だった。
「・・・ふうん」
呟いて、携帯を閉じる。
何か、釈然としないものを感じた。
こういう事もそりゃあるとは思う。何かの用事があったから昨日だって休日を潰して会いに行っていたわけだし、例えば相手側からの相談事なら今夜も引き続きのっているってことだって、あるだろう。
・・・・でも、何か。
ちょっと様子がおかしいような・・・。
食べられなかった彼の分のおかずをそのまま弁当箱に詰める。明日の私のお昼ご飯だ。
スッキリとしない気分のまま、入浴を済ませ寝る支度をした。
イライラしている時はこれに限る、とラベンダーのお香を枕元で焚く。
「・・・・・何だろう」
何てことないメールだった。普通に、彼が打ちそうな内容の。でも、私の神経は何かに引っかかったようだった。
メールを読み返して首を捻る。
別におかしいとこは・・・ない。
電気を消して、横になる。
眠りに落ちる瞬間、そういえば、恋人になってから直に彼と話さずにいた一日はこれが初めてだ―――――と思った。
彼の夢を見た。
まだ長髪の桑谷さんと、二人でお茶をしている。
知らない喫茶店みたいだった。
私が話しているのに相槌を打って聞いていた彼が、ふと何かを気にして窓の外を見た。
私の話は止まない。彼は窓の外に視線を向けたまま。
私が話を止めて尋ねる。どうしたの、と。
彼は何も言わず、視線は窓の外のままでゆっくりと立ち上がった。
そして呟いた。
「・・・・行かなきゃ・・・」
―――――え?どこへ?
そう口に出したところで目が覚めた。
目を開けて、荒い呼吸のままで暗い天井を見詰めていた。
・・・・夢だ。何だろう。悪夢だったとは言い切れない。だけど・・・このざわざわする心は。
ごろりと横向きに転がって、汗をかいていた額をぬぐう。そして、携帯がライトを光らせているのに気付いた。携帯をあけるとメールの着信。
「・・・・何てこと」
私の声が一人の部屋の暗闇へ吸い込まれて消える。
メールは彼からで、こう書いてあった。
『夜遅くすまない。少し立て込んでいる。君の部屋には当分行けそうにない。2日間、仕事も休む。また連絡する』
受信時間は深夜3時少し前。
夢とダブった。
箇条書きのメールをもう一度読み直して携帯を閉じる。
・・・何かが起きたんだ。責任者が仕事を休むくらいのことが。
そして、彼は行ってしまった。
私に何も言わずに。
翌日もその翌日も、本当に桑谷さんは休んでいた。
すれ違う鮮魚の社員さんが、「あれ、一緒じゃなかったの?」と声をかけていく。
皆、私と旅行かなんかに行ったのだろうと思っていたみたいだった。ってことは、彼はちゃんと理由を言わずに休暇を取ったってことか。
私は一々微笑みながら会釈を繰り返し、適当にはぐらかしていく。
そして、胸の中では暴言の雨嵐だった。
くっそおおおおおお〜!何してんだよあの男は!大の大人が理由も言わずに仕事を二日も休むなっつーの!!それでもお前は責任者かよ!!って。
笑顔で接客をし、いつもどおりに業務をこなしていたが、休憩時間には携帯のチェックを欠かさなかった。
ただし、2日間で彼から来たメールは1通のみ。
「防犯には気をつけること」
って、まるで幼稚園の子供に言い聞かせるような文章のものだった。
生理前なのもあって、私のイライラは究極に溜まっていた。部屋でビールを飲み、缶を潰してゴミ箱に投げ入れて発散する。
・・・私、一応婚約者なんだけど。
それともそう思ってただけで違うかったのかな。
説明とか、言い訳とか、何でもいいけどあるべきじゃない?
一体どこで何してんのよおおお〜・・・・。
彼は探すプロでも私は一般人、彼がどこにいるかなんて勿論知らない。興味がないから彼の部屋の合鍵は貰ってないし、やつの部屋で帰りを待つことも出来ないのだ。
ムカつくから「どこにいるの」なんてメールはまだ送ってない。
信頼しているなんて甘ったるい言葉は吐かない。ただ単に、あちらからくれなかった情報をお願いして聞くのが嫌だっただけだ。
明日には出勤するだろうから、百貨店で聞けばいい。
5本目のビール缶を両手で潰してゴミ箱に投げ入れた。完全に、ただの酔っ払いだった。
化粧も取らずにごしごしと手で目元をこすったので、アイラインとマスカラが取れて目に入り、沁みて涙が出る。
「・・・・あーあ・・・」
複雑な過去を背負った男を好きになった、これが代償か、と思った。
カーペットに転がした携帯を恨めしく見詰める。
すきっ腹に入れたビールが不快感を増して私を責める。
ため息をついて立ち上がり、お風呂の支度をしに行った。
夜の1時半。
盛大なイライラと不快感、それに単純な欲求に負けてついにメールをしてしまった。
『何してるの?明日は会える?』
文章を打ったそのままで、転がって、暗い天井を見詰めていた。
30分後、彼からの返信。
『仕事は行く。まだ時間が取れない。申し訳ない』
・・・・・・・・・マジで、ムカついた。
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