番外編 桑谷彰人の憂鬱
・番外編 桑谷彰人の憂鬱・
殺風景な自分の家のドアを開けて、デスクの上に車の鍵と入口の鍵を放り投げた。
元々は税理士が事務所を構えていた繁華街の小さなテナントビルの最上階を、前職の絡みで安く買い取り、ここに一人で住んでいる。
・・・住んでいる、とは言わねーか。自嘲気味に口元を歪めて笑う。
寝に帰る、だけだな。必要な時に。
雑多なテナントビルの最上階、約14畳ほどの元事務所は、床はむき出しで片側一面に並んだ窓にはカーテンもブラインドもない。事務用デスクと椅子、それに書類棚、後で取り付けたシャワー室、小さな台所と、大きなベッド。それに事務所が出て行くときに譲り受けた細長い個人ロッカーが二つ。自分のものは全てそこに片付けられるだけしか持っていない。
部屋の真ん中の空間があくようにそれらの少ない家具を設置して、真ん中ではトレーニングをしたりボクシングバッグを吊り下げて打ったりしていた。
ガランとした埃っぽい部屋に、むさくるしい男が一人。これがずっと続くと思っていた。
この夏までは。
腕時計は既に深夜の1時を指していた。
明日(正しくは、今日、だが)から始まるデパ地下の食品共同イベントの準備に借り出されて、こんな時間だ。
電車では帰れないかもと車で出勤して正解だった。
腕を振って肩の凝りをほぐす。頭痛もするじゃねーかよ、畜生。閉店から今まで奴隷のようにこき使われた。
「・・・身がもたねーよ」
つい、苦情が口から漏れる。
窓の外にはまだまだ元気な繁華街の明りと喧騒が溢れている。
こうも明るいと眠れやしない、といつも思うのだが、この部屋の居心地をよくしようとは一向に思わないのだ。
いや、春先まではちゃんと考えてはいた。次の大きな休みがくれば、もう少し人間らしい部屋に改造しようと。
ただし、この春先から夏にかけて、俺の身辺は豹変したのだ。
単純に言うと、恋人が出来た。
流れに乗っているうちに彼女のところが世界で一番居心地の良い場所になってしまったため、今更この部屋に手を入れようという気がなくなってしまったのだ。興味が完全に失せて、今もこの部屋は殺風景なまま。
冷蔵庫からコロナビールを出して窓際に立ち、下を見下ろす。
通りには、飲み屋からの帰りの者、それを更に取り込もうとする店の客引き、その隣に立って今夜のねぐらを確保しようと、通りかかる男の袖を引く商売女たち、それを見張る黒服と、世の中の縮図のような、いつもの光景が広がっていた。
ガランとした埃っぽい部屋を見回す。
ここに初めて通した時の彼女の呆れた顔を思い出した。
適当に座って、と言ったら、どこに座るの?と顔に書いて見回していた。そして仕方なくベッドに腰掛け、上に羽織っていたカーディガンを脱ぎ、タンクトップ姿で、暑い、と手で顔に風を送っていた。
窓からの明りで髪の毛がツヤツヤと光り、とても綺麗だった。
ちゃんとした女なのに、こんな荒削りの殺風景な部屋にもしっくりと合っていて驚いたものだった。
いつもみたいに真っ直ぐに個性を発散してそこに存在していた。
彼女を思い出すといつもなるように、体がぐっと強張った。
あの瞳と視線がぶつかると、一瞬呼吸を忘れてしまうことがある。ひたりとぶれずにこちらを見て、妙にいきいきと光りを散らすのだ。
ビールが回ってきたかな・・・。
瓶をキッチンに置いて、一度深呼吸をした。すきっ腹にビールは、いつでもちゃんと効く。
百貨店の地下の食品の鮮魚コーナーで売り場責任者をやっている俺は、これで6連勤目を終わらせた。
今週は大学生のアルバイトが揃って試験中とかで人手が足りず、ハードだった。6連勤の内3日は通しで朝から晩まで働いて、ドロドロに疲れが溜まっている。
新しく着任した食品責任者の部長は嫌味ったらしい男で、一度販売会議でたてついてから俺を目の敵にしている。鮮魚は直接関係ない今度のイベントの準備に、鮮魚からも一人出せと乗り込んできたので、他のメンバーに被らせるわけにいかず、仕方なく俺が出るハメになり、今日は出勤の上に終電越えての残業となったのだ。
・・・・あのオッサン、その内労働組合にチクってやる。あれこそ公私混同だ。いい年した親父が後輩をいびるなっつーんだよ。
畜生、今晩は本当なら、彼女と過ごせたのに――――――――
同じデパ地下の、メーカーで構成される洋菓子売り場のチョコレート屋に勤める彼女の名前は小川まりと言う。
顔の造作が凄く良いというのではないが、バランスよく配置された目鼻立ちに、何よりもあの個性と雰囲気で、美人であると評される。
可愛いというよりは綺麗だし、酷く色っぽいかと思えばいきなり男みたいな行動や発言をして回りを仰天させている。えらく華奢なヒールを素足に履いたクールビューティーな格好で、赤提灯の店で飲んだくれたりするのだ。それがまた、よく似合う。
その、無鉄砲でハチャメチャで柔らかで絹のような瞳をした謎の多い彼女に、俺は滅法惚れている。
この夏は随分と彼女に振り回されたものだった。・・・まあ、それを迎合したのは俺だったけど。
彼女を思って熱くなりだした体を持て余して、シャワーを浴びることにした。
もう一本ビールを出して、シャワールームに持ち込む。
冷たいやつを浴びる必要がある。
冷たいのを、長いこと。この体を落ち着かせるために。
簡易シャワーを浴びながら、緩んでくる口元を押さえるのに苦労した。
明日は、彼女に会える。
「――――――何だって?」
俺の声が事務所に響いた。
雑多な事務所の一番端で、古い机の向こうに座った滝本は眼鏡の奥から静かにこっちを見た。
「もう一回言おうか?」
「いや、いい。記録見せてくれ」
親切な、というよりは、歳を取ったなとからかうようなニュアンスを聞き取って、かつての相棒の言葉を手で払った。
ちゃんと、聞こえた。
必要なのは情報だ。
「何て名前だっけ?あいつは。・・・・細川。ああ、そうだったな」
思い出した。
滝本が放ってくれた記録には当時31歳だった細川政也の写真が貼ってある。優しそうなと形容される表情で前をむいて写っている写真が。
ただし、こいつは変態ストーカーだった。
「・・・・・何だって、いつまでもバカなんだよ・・・」
俺が刑務所に放り込んだこの元ストーカーが、この度晴れて出所したらしい。そして愚かなことに、過去の恨みを引きずって、俺に『お礼』を言いにきたらしい。
―――――――大人しく娑婆を楽しめってんだよ、この腐れストーカーめ。
心の中で毒つく。本人を前にしてバカかお前はと罵ってやりたいが、それは大人のすることじゃあないしな・・・。
26歳の時に一緒に調査会社を立ち上げた元相棒の滝本(今はここの社長)が、椅子に深く寄りかかった。
「確かに面倒臭いが、あいつもそんなにバカだとは思いたくないし、お前が身辺に気をつけてさえいれば大丈夫だろう。お袋さんと連絡取ってるのか?」
「取ってない」
「だったら、テメエの心配だけだろうが」
普段は柔和な表情に紳士的な態度、完璧な敬語を駆使して話すのに、俺相手だとどうしても素顔が出てしまうらしい滝本を眺めた。
俺も椅子に座りなおしてため息をつく。
確かに、今までの俺なら気にもしなかっただろう。笑って手を振って、それで終わりだったはずだ。だけど、今は―――――――
「・・・それがそうもいかないんだ」
「ん?」
「テメエの心配だけってわけにいかねーんだよ」
何やら楽しそうな表情になった滝本が身を乗り出した。
「・・・・まさか、お前」
細川の写真がついた記録紙を滝本の机の上に放り投げる。
「ある女性に惚れてる」
「惚れてる、だけ?もう恋人なのか?それに寄って――――――」
「恋人だ。実は、プロポーズもした」
ひゅっと眉を上げて、滝本は更に面白そうな顔をした。
「・・・どうしたんだ、独身貴族の彰人が。大体お前と一緒に居られる女性が、本当にこの世にいるのか?」
・・・・俺はどんな怪物なんだよ。チッと舌打ちをして不快感を表す。
「女とは浅い付き合いもしくは腕枕だけ、しかしないのがポリシーじゃなかったのか?」
そんな宣言はした覚えがない。俺はむすっとしたままでぶっきらぼうに返答する。
「俺は大人になったんだよ」
「・・・ほお〜。よほどいい女なんだな」
―――――――ああ、最高だよ、色んな意味で、彼女は特別だ。だけどそれは口には出さなかった。
くっくっく・・・と口の中で笑いながら、滝本が促した。
こいつには話したくないが、こればかりは仕方ない。
俺は彼女のことを話す。
俺がここで調査員として働いていた頃に警察に突っ込んだ元犯罪者が俺に仕返しを企んでいるなら、彼女にも火の粉が降りかかるだろうことは一目瞭然だ。
それは何としても防がねば。
出所したばかりの元犯罪者のせいで、俺の生活は乱れまくりだ。
楽しそうな滝本を脅して真面目にさせ、二人で対策を練ったり色々仕掛けたりして、帰ってきたらまたまた深夜0時。
今朝はちゃんと彼女の家に行けたから、それなりに幸せな激しい運動もしたし眠気が酷い。
もうビールはなしで、ベッドに転がった。
夢うつつの中で今朝の彼女が蘇る。
ほとんど全裸でタオルケットだけを巻いて寝ていた。ほとんど全裸ってのは、着ていたのは可愛い紐パンツだけだったからってこと。
企んだ瞳で楽しそうに俺を見上げて、いとも簡単に誘惑した。・・・あんなの反則だろ。あんな薄っぺらい、ほとんど解けてる紐だけで何とかひっついている下着なんて。見た瞬間から剥ぎ取りたくて死にそうだった。
あまりガツガツいきたくないが、彼女を前にするとどうしても自制心が崩壊しそうになる。
柔らかい唇も、ちろりと動く舌も、つんと尖った胸も、細い腰も、白い太ももも―――――――記憶があふれ出して止まらず、眠気が飛んで体が熱くなってしまった。
「・・・・おいおい」
寝返りを打つ。俺は寝なくては。明日は仕事だ。変動シフトだから、出勤は12時でいいのが救いだな・・・。このままでは確実に寝不足だ。
だけど、記憶の暴走が止まらない。
彼女をひっくり返して後ろから攻め、腰を掴んで動く快感とか――――――
頬を上気させ眉間に皺を寄せて潤んだ瞳で俺を見上げるのとか――――――――
あの時しか聞けないとろける甘い声とか―――――――――
「・・・・・マジ、無理だ」
すっかり起きてしまった体を持て余して自分で頭をはたく。今抱けないのに想像して興奮してどうすんだよ!!俺は10代の少年かよ!
まさか、自分がこんな風にのめりこむなんて。
・・・あー・・・今すぐ飛んで行って、襲いたい。きっと今日も着ている緑色の柔らかい部屋着ごと、あの体を食べてしまいたい。
明日・・・いや、今日も、俺は仕事帰りに調査会社にいかなくてはならないのに。ちゃんと対策が出来るまで、彼女に近づけないのに。彼女を守るために、出来るだけのことは先にしようと思っていた。
簡単に計算しても、どれだけ急いでも、3日はかかる。今の細川の状態の調査と、仕返しをする気が本当にあるのかどうかの見極め、それが判れば盗聴などの手配もしなくてはならない。
明日職場にいったら、何とかシフトを調整して休みをもぎ取るつもりだった。幸いにも大学生の試験期間はちゃんと終了したようだし。
「・・・・畜生、細川のくそったれ・・・」
ごろんとまた転がった。
窓の外はまだまだ元気な繁華街の明り。うー・・・と唸って瞼を強くもんだ。
彼女は賢い。それに、鋭い。何とか巻き込まずにこの騒動を終わらせるために今の内に休みをもぎ取って懸命に頑張る必要がある。
細川は元ストーカー。彼女の存在を知られると、あらゆる意味でやばいことはハッキリしている。彼女は俺のアキレス腱だ、厳重に守らなければ。自分を許せなくなることはしたくない。
彼女が巻き込まれると―――――更にややこしくなる可能性は大だ。あのお転婆は首を突っ込んで、かき回すに違いない。そんなしんどいことは本気で御免だ。
今が百貨店の閑散期で助かった・・・。繁忙期だったら当然無理だ。責任者がいきなり休めない。
彼女にはしばらく会えない。
だから、あの綺麗な笑顔も見れないし、あの体も味わえない。
「・・・・全く・・・」
呟いた声はしわがれて、埃っぽい天井に上っていく。
「勘弁してくれ・・・」
自然に寝るのは諦めて、起き上がった。
酒が要る。その力を借りて、眠ることにしよう。
コロナビールを取り出した。
桑谷目線の場面切り取り番外編 終わり。
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