1、私は婚約者。
一度起きて開けた窓から、初秋の風が吹き込んでくる。
カーテン代わりにかけた私のお気に入りの布が揺れて光を零す。
閉じた瞼にその光を受けて、ゆっくりと目を開けた。
「・・・・・何時・・・?」
独り言は空気にまぎれて消えた。寝転んだまま手を伸ばして携帯を開く。
午前9時43分。
私は携帯を閉じて、またタオルケットにくるまる。今日は休日、起きて誰かの世話をしなければならない身分でもない。
この部屋の窓から見える職場には行かなくてもいい日なら、もうちょっとゆっくり・・・。
意識を再び深いところにやろうとしたら、ピンポーンとチャイムが鳴った。
勿論無視する。
用があるならまた押すだろう、と思っていると、がちゃりとドアが開く音がした。
私はタオルケットから顔を半分出した状態で、目を閉じる。
この部屋の鍵が2つ付いたドアを開けられる人間は二人しかいない。一人は私で、もう一人は――――――――
「・・・何だ、まだ寝てるのか」
ぼそりと声が聞こえた。
その低い声はよく響いて、私の耳までハッキリと届く。タオルケットに隠れた口元を緩ませて私は笑った。
「――――――まり」
声の主が屈みこんだ気配がした。
私はゆっくりと瞳をあける。そしてタオルケットから腕と顔を出して、うーんと伸びをした。
さらけ出された首筋やデコルテラインを彼が見ているのに気付いていた。
「・・・・窓、開けたまま寝てたのか?」
むっつりとした声だった。彼は怒ると、第一段階でこういう声を出す。前職の影響やらこの夏までの私の環境を考慮して、防犯には口うるさい男なのだ。
にっこり笑った私を見て、更に機嫌が悪そうな顔と声で続けた。
「――――――裸で」
タオルケットを挟む形で出した足も、勿論見えている。
「・・・裸じゃないわよ」
私は言った。本日の第二声で、寝起きの掠れた声が出た。
「下着はつけてるもの」
・・・ただし、紐パンツだけど。と心の中で付け足した。片足を完全に出しているので、彼もそれには気付いているはずだ。
昨夜は職場である百貨店のイベント前の準備で遅くなるから自分の部屋に帰ると聞いていたので、今朝こうなることは予想していた。朝に彼が私に会いにくるってことは。
私が微笑んだままじっと見ていると、彼はため息をついて立ち上がり、窓を閉めた。
「・・・・覗かれたらどうするんだ?」
まだ怒った声だった。
「大丈夫よ」
私はタオルケットの中でうつ伏せになる。そうすると、鍛えている自慢の背中がよく見えるはずだ。
十分に彼の視線を楽しんでから、言った。
「・・・・20分前に開けたばかりだから」
ひゅっと彼が眉を上げた。そして、やっと仕方ないなって顔で微笑した。
「俺が来るのが判ってたのか」
声が優しくなった。
そばに寄って来た彼をちらりと見る。屈みこんで、私の背中に口付けをした。
「勿論よ。しかも――――――」
私はタオルケットをどけて、仰向けに転がった。
「・・・誘惑出来ると、知ってたの」
微笑む必要すらなかった。その後は、彼は簡単に落ち、文字通り、誘惑は成功した。
9月の後半まだ夏の名残がある季節、平日の午前中に、私は婚約者である彼に抱かれ快楽の夢の中へ。
私の名前は小川まり、年齢30歳、職業デパ地下のチョコレート売り場の販売員。
私を見下ろして微笑む彼は、桑谷彰人34歳、職業デパ地下の鮮魚売り場責任者。
私たちは婚約していて、職場である百貨店が見える私の部屋で、休日の今日、朝っぱらから不純行為をしているわけだ。
シャワーを浴びてくる、と私が言うと、彼は朝食を作っておく、と言った。
・・・・いい男だ。これだから、一人暮らしの長い、しかも自立した大人は素敵だ。
嬉しい気分で鼻歌を歌いながらシャワーを浴びる。
彼、桑谷彰人とは、今年の6月に出会った。
それまで付き合っていた美形の彼氏の守口斎(現在様々な犯罪により入牢中)に仕返しをするために入った百貨店の、地下のマーケットの鮮魚売り場に居た彼は、百貨店の社員に転職する前は警備会社と調査会社にいたという“その道”のプロで、別の思惑がありはしたが、途中から私を助けてくれて2回は命すら助けてくれた恩人だ。
私たちは恋に落ち、バカ野郎の斎が逃亡先の関西で逮捕されてからは職場公認のカップルとなった。
父から曽祖父にかけて30代前半で自殺をしていると自分の血に怯える彼は、お守りにしていた自分の長髪を、34歳の誕生日を迎えたその日に切り落とした。
前も後ろも長く、サムライヘアーにくくっていた時とはえらく印象が変わった短髪になったけど、冷静な一重の目や素早い反射神経、ユーモアを解する明晰な頭脳は変わらない。
そして、あの大きくて器用な手で、私を愛するやり方も。
髪を切ると同時にプロポーズされたけど、私は今はダメ、と答えたのだ。
「半年待って」
と伝えた。こちらにはこちらの事情がある、と。彼は不服そうにしていたけど、私の部屋でほぼ同棲の生活を送ることで、まあいいかと思ったらしかった。
そうして、お互いにプライバシーを守りながら、婚約者として幸せな日々を送っているというわけ。繁華街にあるビルの最上階のテナントハウスは持ち家らしいけど、その部屋も売らずに持たせたままでいた。
忙しい夜には、彼は自分の部屋で眠る。私はその自由を愛していた。
「わお、豪華ー」
小さなテーブルにいっぱいいっぱいに並べられたお皿の中身を見て歓声を上げる。
金色のオムレツ、トースト、サラダ、コーヒー、ハムの盛り合わせ。朝からゴージャスだ。
まだ髪は濡れたままで、部屋着を簡単に着た格好で椅子に座った。
「頂きます」
両手を合わせてお辞儀をし、ふわふわの素敵なチーズオムレツを食べる。幸せな笑顔の私のその顔を、前に座った彼は嬉しそうに見ていた。
「食べないの?」
「勿論、食べる。でも作ったご飯を美味しそうに食べる人の顔を見るのは、料理人の幸せだからさ。先に、観察」
彼がニコニコそう言って、自分も食べ始めた。
「・・・いつの間に料理人に。あなたは魚屋さんでしょ?」
「さばいて刺身も出すぜ」
・・・それでは料理人とは言えないと思うが。それは口に出さないでおいた。なんにせよ、何させても上手いし早いから、この男は重宝する。
「今日は休み?」
サラダを口に入れながら聞くと、ちらりとこっちに視線を投げて頷いた。
「――――――そうだけど、昼から出かける」
ふーん、と返した。別に何か二人でしたい予定があったわけではないから、こちらに異存はない。大体、彼の休みを一々把握していないのだ、私は。
「夜はどうするの?」
この部屋へ帰ってくるのか、という意味だ。
来るならその用意があるし、時間によれば晩ご飯も作るし寝ずに待つつもりだ。
彼は少しだけ宙を睨んで首を傾げ、それからゆっくりと首を振った。
「・・・遅くなると思うから、自分の部屋に帰るよ。明日は遅番だから出勤にも余裕があるし」
「はい、了解。そしたら私は家事をして、ゆっくりしとこうっと」
両手にマグカップを持ってコーヒーを飲む。ううーん、幸せ。朝のこの一杯で、やっと私は覚醒する。
「・・・・昔馴染みに会うんだ」
窓の外に目をやりながら彼が呟いた。
「へえ。そしたら髪型が変わっててびっくりするかもね。全然イメージが変わってしまってるんだから」
彼は肩を越える長髪だった。職場のデパ地下ではいつもひとつにくくっていて、長身の上に長髪、体格もいいのでかなり目だっていた。
無事に誕生日を迎えられたからとお守りにしていた長髪を切った時、百貨店側の社員の中には短髪だった彼を覚えている人もいたけど、大多数は(特に地下では)初めての事だったので、見る人見る人が驚き、大変な騒ぎになったものだった。
皆が急に髪を切ることにした理由を彼に聞くと、笑って、その度に何と『洋菓子の小川さんにプロポーズする為』などと答えやがったものだから、私まで大変になったのだった。・・・くそ。
それまでの「あの二人は付き合いだしたらしい」から「結婚秒読みだってさ」に噂話の中身が変わり、元彼の守口斎からこの夏に桑谷さんに乗り換えてもう結婚なんて早いから、きっと出来ちゃったんだろう、なんて妊娠してることにまでされていた。
何だか皆がやたらと好奇の目でみるなあ〜と気楽に考えていた私は、自分のプロパー店の店長である福田店長から、小川さん妊娠してるって本当!?といきなり聞かれて売り場で倒れかけた。
「・・・・何デスカ、それは?」
私がよろよろと起き上がって聞くと、だって皆が・・・と言って周りの店を見渡す。
各店のパートのおば様達がキラキラしたおメメでこちらをみていた。
そして隣の店の田中さんが寄ってきて、唖然としている私に噂話のことを教えてくれたのだ。
だから腹立ち紛れに嘘八百言っておいた。
「違います。桑谷さんは彼氏になりましたが、結婚はまだです。・・・私が短髪の桑谷さんを見てみたいって言ったら翌日切ってきたんですよ」
それで、デパ地下では公認のカップルとなったわけだ。
昔馴染みがどれほど昔のことかは知らないが、彼がデパ地下勤務になってからは長髪だったため、私は言ったのだ、イメージが変わって驚くだろうね、と。
すると彼は手をひらひらと顔の前で振った。
「伸ばしだす前の知人だから、驚かないと思う。あの頃は今よりもっと短かったし」
「へえー。想像つかないな」
誰にでも過去は年の分だけあるが、彼の過去は複雑かつ強烈だ。あまり話も聞いたことがないし。
最近は落ち着いたけど、髪を切ってすぐの頃はまだうなされることもあった。
3代続いて自殺した父親たちのことが強迫観念になって彼を襲うのだ。
一人の夜はどう対処していたかは知らないが、一緒に寝ている時に、夜中、ガバッと跳ね起きて、全身を震わせながらうずくまっていた事があった。
すごい汗で、目を見開いて震えていた。
私は手を取って布団に導き、抱きしめて頭を擦り付けた。暫くすると彼の体から力が抜けて、小さく口元で笑った。そして、ありがとうって言ってから気を失うみたいに眠ってしまった。
そんな事が2,3回あった。
別に無理に切らなくても良かったんじゃない?似合ってたのに、と私が言うと、過去は過去としてちゃんと処理したかったんだ、と返事が来た。
「君と一緒にいるなら、大丈夫と思える」
そう言って、あの冷静な目でじっとこちらを見詰めていた。
私がカップを持ったままつらつら思い出していると、立ち上がって、お皿を片付けだした。
「買い物とかあるなら、今の内についていくけど」
日用品のストックを頭の中で思い出して、まだ大丈夫、と答える。先週必要なものは買っておいた。
それよりも、私が部屋についたばかりの彼を誘惑していたからもう既に11時だ。
「ここは片付けるし、行って。もうこんな時間」
壁の時計を見て、彼は頷いた。そして私を引き寄せて抱きしめる。
「・・・防犯だけは、守ってくれ」
「はい。畏まりました」
接客用の私の返事ににやりと笑って、手を離す。
「明日は出勤?」
「うん、私は早番。休憩もずれるね」
朝から入るか昼から入るかで、休憩時間が全然合わなくなるのだ。明日は一緒にお昼を食べれない。
「晩ご飯食えばいいさ。じゃあ、また明日」
そして大きな黒いスニーカーに足を突っ込んで、出て行った。
窓から入る10月の風を受けながら私はテーブルについたままで微笑む。
今年が始まった時は、まさか秋にはこうなるとは思ってなかった。
悪魔のような斎と5月に別れて、しかも殺されかけ、仕返しをし、別の男と出会って恋に落ちるなんて。私さえ頷けば、今頃人妻にまでなっていたわけで。
うわー、恐ろしい、この私が人妻・・・。まあ、だから人生って面白いだろうけど。
彼との出会いからを思い出して、一人で笑っていた。
そんな平和な休日だった。
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