3、あぐらをかいてプロポーズ。
明けて、新年。
朝からよく晴れて寒く、キラキラと埃が光りを反射して眩しさに声が出るほどだった。
足取りも軽く徒歩10分の百貨店に向かう。そして驚いた。
まだ開店までは2時間もあるというのに、もう既に百貨店の入口にはお客様の行列が出来つつあった。福袋目当ての行列らしい。
・・・・マジで!びっくりだわ〜、それに、呆れた。こんな寒い日に、しかも1月の1日に、わざわざ早起きして着こんで福袋を買いにくるのが理解できない。福袋っていってみればギャンブルだと思っているからなおさらだ。
私なら、正月はゆっくりしたい。
頭をふりつつ店員通用口を入る。許可証を見せて、ロッカーまで行こうといつもの北階段を使った。
今日は時間が早いので、元々人気のないこの階段は私しかいないようだ―――――と思ったら、上から降りてくる人の足音が聞こえた。
脇に避けて、私は上がっていく。
と、その足音が止まったから、何だろうと思って顔を上げた瞬間、体がふわりと浮き上がったのを感じた。
「―――――え?」
思わず声が出た私の唇は、別の温かい唇で柔らかく塞がれる。
目を開けたままで驚いていたけど、相手が判ったと同時に体の力を抜いて瞼を閉じた。
上から降りてきたのは桑谷さんだった。
階段の踊り場の暗がりで、私を抱きしめてキスをしていた。
何か、かなり久しぶりでドキドキした。
柔らかく舌を差し入れて絡め、唇を噛んで熱を分ける。深くて情熱的な口付けを長いことしていた。
「・・・・おめでとう」
やっと唇を離して、ぼそりと呟いた彼を見上げる。
私はにっこりと笑って、嬉しく言葉を返した。
「明けまして、おめでとう。・・・ビックリした」
私をストン、と降ろして、彼は子供みたいな無邪気な顔で大きく笑った。
「ずっと忙しかったし、今日も忙しいし、君を捕まえられるのはここしかないって思ってた。作戦成功だ、これで頑張れるよ」
「そうか、明日も会えないし、私は明後日から実家に戻るから・・・次は5日の夜か。5日は、仕事?」
私の問いに、頷いた。
「残念、俺は早番で仕事。その次は7日が休みだ。・・・・そうだ、俺も4日は実家に戻ってみるよ」
最後の言葉に、私は笑った。
そして時間を気にして早口で言う。
「7日、私も休みだったはず。じゃあ、その日は泊まりにきてね。話も聞かせてね」
彼は微笑して、判った、と言った。そしてぽりぽりと頬を掻いて続ける。
「・・・7日か。えらく長い禁欲生活だな。既に辛いのに、耐えられるかな、俺。つい今もスイッチ入っちゃったんだけど」
私は脱力して言った。
「体力、あるんですね・・・。こんなに忙しいのに性欲なんて沸かない。だったら今、キスなんてしなきゃよかったのに」
それとこれとは別なんだよ、と彼はカラカラ笑う。ストーカー騒動で明るいキャラが消えていたので、こんな軽い桑谷さんは久しぶりに見た。
「・・・気をつけて帰ってくれ。沖縄まで」
「はい」
そして手を振ってわかれた。
飛行機は、雲の上を飛んでいた。
白い雲海が広がる外の世界を、私は小さな窓から眩しく見詰めた。
・・・・・飛んでる。
飛行機に乗ると、いつでもその度に驚くんだった。人間て、飛べるんだよね・・・。凄い生き物だ。
実家に電話して帰ることを伝えたら、いつもは元日なのにどうして今回は3日なんだ、と父親に聞かれて初めて、百貨店に転職したことを言ってなかったことに気付いた。
簡単に、サービス業なのよ、私は今、そう伝えると父は苦笑していた。
元気そうだな、まり。いつでも帰っておいで、と。
那覇空港は、混雑していた。チケットだって高い年始だ。それも当然か。
親に送ってもらったチケットで、私はいつでも悠々と帰る。私個人は貧乏だけど、両親にはお金があるのを知っている。
やはり本土よりも温かい空気を思いっきり胸の中に吸い込み、タクシーに乗り込んだ。
ここから車で2時間、沖縄本島の北部に両親の住む家がある。
私の両親は、大学教授の父と、世界を飛び回る報道カメラマンの母だ。
父の定年退職後、両親二人の希望を叶えて沖縄に移住したのだ。相変わらず母はいつでも居ないけど、父は沖縄の大学で非常勤として職を得ていた。
桑谷さんには一度も話したことがない家族の事を、私は深く愛している。だけどその割りには、何故こんなに会話に出てこないのかが謎だと自分で思うくらいに、私は両親のことを口にしない。
思うに、本当に自己で完結している人間なのだろうと思う。
タクシーの止まった音で判ったらしく、父が外へと迎えに出てきた。ロッジ風の平屋は白いペンキで塗られた壁が光り、その前に立つ父の笑顔を照らしている。
背の高い、いつでも笑顔の父を抱きしめた。小さい頃からの父の匂いがした。
私と似ている父が、顔を覗き込んで言った。
「・・・・おや、前より美人になったようだね。いいことがあったのかい?」
綺麗な標準語で話す。
私は声を出して笑って、荷物を玄関に投げ入れた。
奥から母が現れた。
「お帰り、まり。何が欲しい?」
「ビールビールビール!!泡盛でも可!」
言い捨てて、手だけを母に振り、海に面した裏庭に回る。
そこではデッキチェアに父が座って、既に寛いでいた。
私は靴を脱ぎ、薄いパーカーだけを羽織って横に並ぶ。やがて飲み物をもった母も来て、1月の太陽を浴びながら、皆で外で乾杯をした。本州では雪も降っているのに、ここではまだ野外でビールが飲めるほどに温かい。
父と母は待っているようだった。
私がいきなり帰ってきたのが、正月の帰省ではないと思ってるようだった。
だから私は、母が慎重に注いだビールの泡を舌で舐め取って、おもむろに口を開いた。
「結婚しようと思うの」
父と母が顔を合わせた。二人とも別に驚かずに、静かな、それでいて面白がっているような顔をしていた。
暫くして、父が言った。
「判った」
そして母も続ける。
「式はあげるの?」
私はしばらく無言になった。・・・・えーっと。うん、大変あっさりとした会話になってしまったわ。
「・・・式を挙げようとは思わない。ってか、他に聞くことないの?どんな人か心配じゃないの?」
父がビールを飲んで美味しそうに笑う。
そして私の方をくるりと向いた。
「お前は、30歳だろう?」
「そうね」
あなたたちが教えてくれた生年月日が間違ってなければね、と心の中で突っ込む。成り行きがわからなくて仏頂面になった娘を優しく見て、父が笑う。
「もう十分、自分で色々経験したはずだ。お前が選んだのなら反対や心配なんてしない」
「・・・はあ」
「それに」
母が父の後を続ける。
「一生で、結婚は何回も出来るのよ。一度くらい失敗したって大丈夫」
・・・・・・はい、まあ、確かに。おっしゃるとおりですが。
とてつもない興奮や反応を期待していたわけではない。だけど、沖縄に引っ込んで毎日海を見る生活を始めてから、確実に両親の性格は丸くなっている。
・・・・こんなに何も突っ込みがないとは思ってなかった・・・。何だったのかしら、私の悩んだ日々は。
拍子抜けした状態で、改めてオリオンビールを飲んだ。
1月とは思えない柔らかい風が吹いて、繁忙期で疲れた私の心身を癒す。のんびりと両親とビールを飲んでいて、まっさらな頭になったようだった。
「お前の心は、決まったのか?」
父を見た。笑い皺を顔中一杯に作って、穏やかに私を見ていた。
「それを決めるために、ここにきたんだろう?」
――――――やっぱり、バレてたんだ。
可笑しくなって笑う。私はいつまでも、この人たちの子供なんだ。離れて暮らしても、すべてお見通しな感じがした。
「・・・多少、危険な人なの。いろんな意味で。だけど、大切にしたいと思ってるのよ」
父は頷いた。言葉はなかった。
母も頷いた。だけど、こちらは忠告があった。
「なんであれ、彼に危険がまとわりつくなら、まりが用心することよ。教えたことは忘れてないでしょうね?」
わたしも頷いた。
報道カメラマンの母は戦場や危険な国にも飛んでいく。私はそのせいで、小さな頃から一通りの護身術と警戒心、そして物事へのドライな見方を学ばされたのだ。
一番大事なのは、生き抜くこと。
生きてさえいれば、いつかかならずいい事はあるのだから、と。
一人になっても立っていられること。
「大丈夫よ」
笑って、言った。
去年、トチ狂ってしまって自殺しかけたことは内緒だ。あれは、本気で恥だった。両親には絶対に言えない酷い有様。原因となったバカ男に仕返しが出来て、私はラッキーだったのだ。
だけど今回の事では、助かった。この両親に育てられていて、乗り切れたのだと思っている。
私がぼんやりと桑谷さんのことを考えていると、父の声が流れてきた。
「・・・返事が、まだなんだろう、その様子だと」
それもバレてるらしい。父は、家の裏から続く堤防の先を指差した。
「電話、しておいで。自分の気持ちを伝えてきなさい。それをちゃんとするまで今日の晩ご飯はなしだ」
電話。彼に。桑谷さんに。
「はーい」
私はオリオンビールを飲んで立ち上がる。仕方ないわねって顔の母にウィンクしてみせて、携帯電話だけを持って、裸足で歩き出した。
後ろで両親が見ているのが判っていた。
今度は私からプロポーズだ。
堤防の一番先に、あぐらをかいて座った。
目の前に沖縄の海が広がり、風が髪を揺らす。
夕方の5時半で、今日は正月の変則シフトで彼が昼から休みなのを知っていた。
しばらくじっくりと波が揺れるのを見詰めた後、おもむろに彼に電話をかける。
呼び出し音が耳の中で響く。このタイミングを失ったら、次があるか自信がない。出てくれますように。
どうか――――――――
呼び出し音が7回目、私の胸に不安が忍び込んだ時、ふいに電話が繋がった。
『――――――もしもし?』
桑谷さんのよく通るハッキリとした声が鼓膜を打つ。
思わず体が震えた。
「・・・・・・」
口は開いているのに言葉が出なかった。何と、私は緊張していた。
『―――――・・・・まり?もしもし?』
彼の声が怪訝そうに曇る。きっとディスプレイで名前を確認しているはずだ。
私は深く呼吸した。――――――いくぞ。
「・・・1月23日、空けといて欲しいの。2時間でいいから」
ふいを突かれたように、今度は彼が向こうで黙る。
『―――――――1月23日?水曜日か?・・・仕事だけど、早番だから夜は空いてる。どうした?』
「その日は」
私が言った。混乱している彼が面白かった。よく考えたら、挨拶もしてないじゃん、私ったら。
「私の誕生日なの」
1月23日、私は31歳になる。そして、その日に―――――――
電話の向こうで彼がホッとしたように笑った。
『へえ、そうなんだ。もっと早く言ってくれたら仕事休んだのに。じゃあ、ご飯行くか?地上からも金額も高いところにでも』
「ううん、ゴージャスなご飯はいいの。でも私にあなたの2時間を頂戴。その2時間で―――」
私は携帯を耳に押し当てながら微笑んだ。彼の反応が予測出来ない。
「――――――婚姻届を出しに行きたいの」
向こう側が、完全に、沈黙した。
「桑谷まり、に、なりに行く」
ハッキリとそう言って、口を閉じた。
私は携帯を強く押し付けて、風と海の音で聞き逃さないように集中する。
「・・・ハロー?」
問いかけると、動く気配が伝わってきた。何かに座ったようだった。・・・ベッドが軋む音かな?
そして大きく息を吐く音が聞こえた。長らく呼吸を忘れていたらしい。
『―――――――・・・・届け出すのに、2時間もかからねーぞ』
小さく声が聞こえた。
「その後で、指輪を買いに行きたいの」
『うん』
「実は、どれが欲しいか決めてあるの」
『・・・なら5分で済むな』
「そしてその後で、新婚初夜を迎えるの。2時間、要るでしょ?」
『・・・だったら、2時間じゃ足りねーな』
そう言いながら、桑谷さんは笑い出していた。
電話の向こうで私の夫となる人が、上機嫌で笑っていた。
私は両親の家の方を見て、大きく手を振った。うまくいった、の合図の代わりに。
沖縄から戻った私は、なんと驚く大金を手にしていた。
最初の夜の晩餐で、両親が私に一冊の通帳を手渡してこういったのだ。
「お前のお金だよ」
私は黙って受け取り、中を開けて腰を抜かすかと思った。そこに書いてあった金額は504万円。
一度見て閉じ、また見直した。ゼロの数が間違ってるんじゃないかと思って。
「・・・・一体、何?」
閉じた通帳をつき返しながら、私が父に聞くと、父はそのまま母を振り返った。
してやったりって顔で母が言う。
「あなたが16歳になって、法律的に結婚が出来る歳になってから、毎月3万をあなた名義で貯めていたの。いつまでも結婚してくれないからこんなに溜まっちゃったわ」
・・・・16歳で、結婚しなきゃならなかったのかしら、私は。と思ったけど、じゃあ困った時にとっておくからここに置いておいて、と言ったら、今度は父が言った。
「まりが好きに遣いなさい。その為のお金だ。ただし、貯金なんて駄目だぞ。嫁入り資金なんだから」
はあ、成る程。嫁入り資金として貯めていたのね。そしたら一向に私が結婚しないから、大金に膨らんだってだけ。ちょっと納得した。
仕事柄、母にはいつでも危険がつきまとっていた。いつ自分が死んでも大丈夫なようにっていうのが母の口癖だった。きっとこれもそのつもりだったのだろう。
だから私は、最後には押し抱いて貰ってきた。
嫁入り資金、504万円。
去年の春先には所持金しめて13万ほどだった私が、今では威張れる貯金額に。
空港から自分の部屋に戻ってきて、ライトアップされて夜の中輝く百貨店を窓から眺めた。
あそこに、桑谷さんがいる。
あと2週間ほどで、私は彼の妻になる。
明日は二人とも仕事だけど、時間帯が違うから会えないだろう。そして明後日の7日は彼がうちへ来てくれる予定だ。
窓枠に寄りかかって微笑みを浮かべた。
気持ちは吹っ切れていた。ある程度の未来予想図も出来つつあった。
あとはそれを実行にうつすだけ。
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