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 サービスエリアから彼が電話して予約した海岸沿いのホテルに着いたのは、もう11時を過ぎていた。

 ホテルの自動販売機でビールとおつまみを買って、部屋に上がる。

 早朝からの仕事の後の長時間の運転に疲れたらしく、桑谷さんが頻繁にあくびをしていたから、私は笑って、先にシャワーを使わせた。

「寝て。そして、明日元気になって」

 私が言うと、彼は拳で口元を押さえながら、うー・・・と唸った。

「・・・抱けるかと思ったのに」

「元気になってからにして」

「・・・はい」

 よっぽど眠かったのだろう、彼はシャワーから上がると、下着をつけただけでベッドに潜り込み、そのままコテンと眠ってしまった。

 私もシャワーを浴びて、ふかふかのバスローブを着込んでから、大きな窓際の一人用ソファーに座り込んだ。

 ベッドライトだけをつけて部屋の電気を消す。

 冷蔵庫からビールを出して、窓枠に置いた。


 そして暗い海を見た。


 月が出ていて、もうすぐで満月だった。

 空気が澄んでいて明かりが海に落ち、波頭だけが時々キラキラと光る。

 缶から直接飲みながら、心底寛ぐのを感じた。

 ここ最近で、こんなに心が静かなのは初めてだ。一人の静かな時間。私はこれを切望していたんだ。

 ビールの苦い味が口の中に広がる。

 ただ黙って窓からの黒い景色を眺めながら、深夜を過ぎるまでそうしていた。

 規則正しい寝息が聞こえる。私はソファーの上で体を捻って、シーツの中の彼を見詰める。

 ・・・・・最初に彼に抱かれた時も、ホテルのこんな部屋だった。

 寝ている男の寝息に安心して、自分が寂しく悲しかったのが判ったんだ。

 しばらく彼を見ていて、それから立ち上がった。カーテンは閉めなかった。明日の海から昇る朝日が見たかった。

 彼の隣には滑り込まず、もう一つのベッドのシーツをはがす。

 今晩は、一人で眠る。私はそれも、渇望していた。



 柔らかい感触を瞼に感じた。

 温かい何かにつつまれたようだった。


 ゆっくりと、少しずつ目を開けていく。

「・・・うん?」

 何かが私を抱きしめていた。ハッといきなり覚醒して、身を起こそうともがいた。ただし、ガッチリと捕まえられていて、それは叶わなかったけど。

「・・・あれ、起きちゃったか」

 耳元で低い声が聞こえた。

 大きな手がお腹から擦り上がって、私の胸を柔らかく包む。耳朶と首筋に唇の感触。私はもがくのを止めて、力を抜いた。

「・・・ごめん、我慢出来なくて」

 桑谷さんが同じシーツの中に入っていた。そして後ろから私を抱いている。

「・・・おはよう。一体、いつの間に・・」

 私は呟いて、体を捻って彼の方へ顔を向けた。

 夜が明けたばかりみたいだった。部屋は薄明るく、窓の方からまだ弱い光が差し込んでいる。

「・・・・さっき。起きたらベッドに一人で驚いた。隣のベッドに寝てると思ってなくて」

 私は欠伸をしながら言い訳をする。昨日はあなた本当に疲れてるみたいだったから、と。

 キスが落ちてきた。

 温かくて柔らかいそれを、私も久しぶりにしっかりと味わう。桑谷さんの香りと、その温度。

「・・・・」

「・・・・」

 無言で、体を探り合った。

 彼は大きな手で愛おしむようにあちこちを撫でる。

「・・・朝飯前、だな」

 低い声で笑って、桑谷さんが私を見詰めた。

 既に息が上がり始めていた私は、彼の口にそっと手の平を当てる。

「・・・黙って。お喋りは、後で」

 了解、と小さく呟くのが聞こえた。



 そして私は彼が見せる夢の中に落ちて行った―――――




 まだ朝の9時前だった。


 ベッドから抜け出した後、海岸の浜辺を二人で散歩していた。

 睡眠時間が短かった上に目覚めと共に激しい運動もしたけど、心も頭も澄み渡り、気分もよかった。

 こんな短い小旅行とはいえ、やっぱり旅はいいな。心の洗濯だ。

 今朝は曇り空で、景色はミルク色だった。

 全てが白くてぼんやりと光り、そのたらんとした景色が優しく沁み込んでくる。

 風も温度も冷たかったけど、靴を脱いで裸足で砂浜を歩いていた。

「連れ出してくれてありがとう」

 私が言った。2歩ほど前を行く、彼の背中を見ていた。

「とても嬉しかったし、気分転換も出来た」

 振り返らずに、彼は頷く。

 波も水平線もそれにかぶさる雲も、すべてがミルク色だった。ベルベットみたいにまったりと沈んでいた。さらさらと風が吹きとおり、波の音が聞こえる。

 ぼそりと彼の声が聞こえて、私は海から目を戻す。

「・・・・あのままだと、君を失うと判っていた」

 私は立ち止まった。

 波が砂浜を洗う音だけが響いていた。

 そのままもう少し先まで歩いて、桑谷さんも止まった。そしてゆっくり振り返る。

「俺の過去の遺物に巻き込まれて不自由な思いをしていること、悪いと思ってる」

 透明な瞳をしていた。空と、海と、私が映る。ミルク色の世界で、彼は佇む。

「君は」

 声が途切れた。しばらくして、小さく続けた。

「・・・・もう俺と一緒にいてくれないんではないかと」

 あの大きな彼が、子供みたいに見えた。小さく小さく、縮んで。

 私は言葉も発せず、それをただ見詰める。彼も静かな表情のままで私を見ていた。

 結婚を約束した。

 だけど私たちは、お互いの親の事も知らない。

 彼のお母さんは生きているのだろうか。どこに住んで、何をしている人なんだろうか。

 複雑な過去。暗い20代後半と、自分との戦い。彼は一人で戦ってきた。

 『よく目を見開いて、この世の中を見ることだよ』

 私を大切に、そして自由奔放に育ててくれた両親は、いつも私にそう言った。

 自分の立っている場所をちゃんと見ること。いつでも把握しておくこと。

 いつだって、敬愛する両親の言葉を実行する努力をしてきた。

 だけど―――――――――


 数歩先に立つ男の人を眺める。


 ・・・・全てに、その教えが当てはまるわけではないんだわ。


 彼の過去から手が伸びてきて私を煩わす。それはこれからも起きることかもしれない。両親なら、今の内に止めなさいって言うかもしれない。

 目を開いてちゃんと見ろと。

 まり、ちゃんと、しっかりと周りを見なさい、と。どうしてわざわざトラブルに飛び込むの、と。


 ミルク色の景色の中に、厚い雲を割って天空から光りの梯子が下りてきた。

 そこの場所だけ、海が輝きを放つ。


 私は彼から目を離し、その光景を眺めた。

 そして靴を脱いだままでその場に座り込み、風を顔に受け、砂の感触を足と手で楽しむ。

 すくいとった砂が風に流されて散らばった。私はそれを目で追う。

 そして、口元をゆるめた。

 彼はとても複雑な人。だけど―――――――――

 だけど、自分で決めたのだ。


 私は片目を瞑ろうと。


 敢えて全ては見ない。全部を見回して、その膨大でほの暗い彼の過去に疲れてしまわないように。

 見なくていいものも、この世の中にはある。

 知らなくていいものだって、たくさんある。

 だから私は片目を瞑る。彼と一緒にいる為に、喜んで視界を狭まらせよう。


 ゆっくりと彼に視線を戻して、微笑んだ。

「・・・欲しいのは、嘘になるかもしれない約束、それともリアルタイムの真実?」

 彼も海を見ていた。そして黙っていた。

 短くなった前髪が、彼の額をさらさらと擦る。

 桑谷さんは海に向けていた視線を私へと戻し、目を伏せてから言った。

「―――――両方」

 覚悟したような声だった。

 私は深呼吸をした。そして彼を包んでいるミルク色の風景に向かって、はっきりと声を出した。


「・・・私はあなたが好きだし、必要だし、一緒にいたい。そしてそれは――――――永遠に続く」


 ・・・はず。と心の中で付け足した。

 彼が目を開けて、こっちにやってきた。そして私の前に同じようにあぐらをかいて座る。

 11月の朝、海岸の砂浜で二人であぐらをかいて座りこむ。足元は砂だらけで、海の風は冷たかった。髪の毛がバラバラと顔の前で舞い、視界を狭めてしまう。

 静かな表情で、不思議な光りを湛えた瞳で、彼は私を見詰める。泣いているのだろうと思った。

 彼の目に涙が零れたわけではないけれど。今、心の中で泣いているのだと判った。

 私は髪の毛を押さえつけて、体をゆっくりと前に倒し、瞳を閉じた。

 そして二人は、塩味のキスをする。



 雲の割れ目から、光りがまた、零れ落ちた。










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