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「・・・だけど、もうあの沈黙営業も見れなくなりますよ」
パッと尾崎さんが振り返った。
「見れなくなる?」
その言葉を言ったのは砂原さん。尾崎さんは目を見開いて俺を見ている。
大事なのは、間だ。これが営業結果を大きく左右する。俺は心の中でカウントを始める。
3・・・2・・・1。
悪戯っ子のような顔を作って、口の前に人差し指をつけた。
「まだ内緒ですよ、尾崎さん」
「はい?」
にっこりと微笑んだ。
「あいつは営業を卒業するんです。この4月からは商品開発に移動するんですよ」
種蒔き。
だけどそれにもえ?と言葉を発したのは女友達の方だった。
うーん。俺は横目で彼女を観察する。この女性は高田のことを知ってるんだな。そして、多分、応援しているんだろう。そんな反応だ。
ならば、頑張ってもらおう。俺は営業方針を撤回する。余計なことを言わない方向でいくぞ。
「・・・商品開発部?」
「そうです。高田は昔から保険を募集することよりも作ることに興味が強かった。だけど、俺の為に・・・というか、俺のせいで営業を続けていたんです。商品開発は本社勤務になるから」
また、間。
尾崎さんには篤志が俺に引っ付いてる理由は話してある。あれを思い出してくれるはずだ。―――――――脈があるなら。
手助けになるように、付け加えた。
「俺はもう大丈夫だから、もうお守りは要らないから・・・やりたいことやれよって、篤志に言ったんです。今年の正月に」
ちらりと尾崎さんを見る。彼女は理解したようだった。
「施策の旅行で聞いたんだ、俺も。決まったって」
これで終わり。さて、あとは女友達に乞うご期待―――――――――――
ガラスにうつる女性二人の表情を注視する。女友達の砂原さんが、尾崎さんの肩に手を置いた。
「いいの、美香?」
「え?」
振り返った尾崎さんは混乱しているようだった。
砂原さんが呆れた声を出す。
「・・・信じられない。こんなにあんたは判りやすいのに、どうして今はそんなに鈍感なの?高田さんて人、どこかに行っちゃうんでしょ?」
俺は微かに頷く。そうだ、頑張れ友達!
少しうろたえた声で尾崎さんが返す。
「・・・いや、そうは言っても本社だし・・・」
言葉が尻つぼみで消えていく。呆然としているようだった。
彼女の中でもまだハッキリした感情じゃあないのかもしれない。だけど、ショックを受けている。だからこれは・・・大丈夫かも。
そう思ってグラスを置いた。
自分の中で色々考えていたらしい尾崎さんは、暫くして表情が変わった。
いきなりくるりと振り返る。俺をしっかりと見詰めて、ハッキリと言った。
「―――――――――私、行ってきます」
やった。
俺はニッコリと微笑んだ。
「行ってらっしゃい」
今度は砂原さんを振り返る。素敵な女友達は安心した声で、私のことは気にしないでと声をかけていた。
今や周囲は見えてないぼんやりとした目線で、尾崎さんが立ち上がる。
そして後ろも振り返らずに走り去った。
その後姿をじっと見ていた。
ふんわりと膝のところで翻ったドレスの裾が俺の瞼に柔らかい残像を残す。
大きく息を吐き出すと、くすりと笑い声が聞こえて振り返った。
彼女のゴージャスな女友達がシャンパンのグラスを掲げながら俺を見て笑った。
「これが、スーパー営業の力ってやつですね」
――――――――バレてる。
俺も声を出して笑う。ううーん、素晴らしい、何て素敵な女性だろうか。
彼女が色っぽく微笑む。
「美香は行っちゃったし、私と飲んでくださいます?」
俺は笑顔で頷いた。
「喜んで。――――――でも、その前に」
「はい?」
「もう一つだけ、企みがあるんですが、協力願えますか?」
大きく微笑むと、目の前の彼女もゆっくりと、だけど顔中に広がる笑顔で応えてくれた。
俺から篤志への、最後のプレゼントだ。
晴天。
月日の過ぎるのは本当に早く、もう秋が来ていた。
今年の3月末で本当に営業職を卒業した篤志は、念願かなって本社の商品開発部へ移動していった。
俺はまさしく水を得た魚状態で、篤志に見張られていたときの鬱憤をはらすかのようにあっちこっちへ飛び回り、思う存分営業に精を出していた。
楽しい〜!やっぱ、これでなくちゃ。仕事も遊びも思う存分だ。
だけど度々あいつからは電話がくるから、睡眠は見張られてるのだと判ったけど。でもお陰で気力体力共に充実していて、毎日がすこぶる楽しかった。
尾崎さんのあの素敵な女友達とはいい飲み友達になった。
女性としてはすばらしいが、彼女にはたった一つの欠点があったのだ。それは、何と俺と同じワークホリックだということ。
彼女相手じゃ、一緒に住んだとしても顔を見るのは一日に5分だね、とお互いに笑いあって、恋愛関係には発展しなかったのだ。
アッサリとした性格の彼女はずけずけとものを言い、俺も遠慮なく話せる営業仲間になった。互いにお客さんを紹介しあったりしている。
たまに篤志と尾崎さんに呼ばれていった宴席には彼女がきていて、俺たちは気が済むまで営業の方法についての話に花を咲かせている。
それはそれで、贅沢な付き合いだった。
篤志は結局彼女を手に入れたのだ。そして自分が移動になったことで、堂々と付き合いを公表した。
最初はぶっ飛んで驚いた第1、2営業部の職員も(皆の驚き方はそれは見ものだった)、尾崎さんがどんどん元気になり、体型もまともになって誰にでも笑顔を見せるようになった頃には祝福モードに代わっていた。
一人の女性が素敵に変身していく過程を目の前で見られることってそうそうないものだ。
それは少なくとも、その場にいた人間を幸福な気持ちにさせた。
そして天高く馬肥ゆる秋、何と、あの稲葉が結婚したのだ。
同じことを考えていたらしく、ヤツは2月戦の施策旅行で彼女を手にいれたらしい。
あっちとこっちでほぼ同じことをしていたわけだよな、お前達、そう言って楠本さんが爆笑していた。
彼女にベタ惚れの稲葉はちっともじっとしていない彼女を完全に自分のものにするために、結婚することにしたらしい。・・・最終手段だな。
そんなわけで、今日の佳き日。あいつはこの上なく幸せそうな笑顔でウェディングドレスに身を包んだ大事な彼女を抱きしめている。
俺たちはそれを端から見て笑っていた。
「おい、ほら、あれ」
どっかの漫画に出てきそうな王子様みたいになった正装の楠本さんが俺の腕を引っ張る。
「はい?」
振り返って楠本さんの指差す方向をみると、篤志と尾崎さんがいた。
あの夜みたいに綺麗に、でもさり気なく着飾った尾崎さんの耳元に、篤志が顔を寄せて何か囁いている。
尾崎さんが目を見開く。
体を起こした篤志は何と照れているようだった。
隣の楠本さんが楽しそうに言う。
「中々見れないレアものだな。・・・高田の照れた顔なんてな」
―――――――本当だぜ、あいつが照れている。
「・・・わお」
俺はまだ驚いてその珍しい光景を眺めていたけど、差し出された手を握ったときの尾崎さんの笑顔にハッとした。
瞳を潤ませて、彼女が篤志に寄り添う。
花びらが風に舞っている。
稲葉が彼女と嬉しそうに笑っている。その彼らを取り囲む人の輪の中で、篤志が尾崎さんと微笑んでいた。
手を繋いで。
その光景は、俺の瞼の裏にはりついたままだった。
夜、月明かりの中、俺は自分の小さな部屋のベッドにもたれて手紙を読む。
潤子が置いていったインクの滲んだ手紙の最後にはこう書いてある。
‘あなたは一人でも大丈夫な人じゃない。だけど、私は必要じゃないのね。私はまだ、こんなにもあなたを欲しているけれど、でも、さようなら’
「別れましょう」の文字から始まる手紙。だけど、これは――――――ともすれば、恋文。
読みすぎて手垢もついて折り目で破けそうになっているそれを、俺は今晩も月明かりの下で読み返す。
あの無表情の篤志の人間らしい顔。
はにかんだ顔なんて初めて見た。
それに応える尾崎さんの零れるような笑顔。鮮やかな花がぱっと咲いたような。その場が一瞬で明るくなるような――――――――
俺はまだ、手にしたことがないそんな恋を。
今ならきっと、仕事だけじゃなく、誰かと人生を楽しもうって、一緒に並んで物事を見て行こうって思えるかもしれない。
いつか、誰かと―――――――――
過去になってしまったけどいつまでも振り払えない恋文を手にして、ダラけた格好のままで寝転んでいた。
俺も、いつか。
誰かとまた、恋に落ちたい。
「ともすれば、恋文」終わり。
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