1、平林の反応


 あれから平林さんとは廊下でのすれ違いすらなくて、私はいまだ昼食のお礼を言えずにいた。

 高田さんが宣言通りに平林さんに代金を請求したのなら、お礼は平林さんに言うべきだ。そう思ってはいたのだが、何せ事務所が違う上に多忙な彼のこと、ちいーっともお礼を言うチャンスは巡ってこなかったのだ。

 全然必要ない時にはよく見た愛想の良い男とその隣にいる見目麗しい男は、必要があるときには影も見なかった。

 そしてそのまま1週間。12月に入っていて、気温も完全に真冬だ。

 今日は支社長出席での11月戦の表彰式。支社全体の職員がホールを借り切って集まるイベントで、それを楽しみにして仕事を頑張る職員もいるらしい。

 私はひたすら給料の為に働いているので、そんなこと気にしたことはないが。むしろそうやって周りが燃えれば燃えるほど、醒めてしまうタイプなのだ。思えば学生時代の体育祭や文化祭も、熱くなっていくクラスメイトを横目で見ながら一人でやる気をなくしていたものだった。損といえば、損な性格・・・。

 というわけで表彰とは無関係の私は、約2時間ある式の間、堅い椅子に座りっぱなしでひたすら舞台へと拍手をするだけの黒子に徹することになる。

 うんざりしながら壇上で微笑みを浮かべて表彰や商品を受け取る成績優績者たちをダラ〜っと眺めていた。

 へええ〜、6件も入れたんですね。凄いっすね〜。ほおおお、経保(経営者保険)を3つも。やりますね〜、一体どんな所から契約がうまれたんですか?とかの感想を心の中で呟きながら。

 第2営業からは、勿論、平林さんも高田さんも呼ばれていた。

 名前が呼ばれると、高いんだろうスーツに身を包んだ彼等が本日もスマートに壇上に上がる。堂々とした立ち居振る舞い。輝くような平林さんの笑顔ときりっとした高田さんの格好いい姿。それはそれは立派だった。

 前の席に座る前川さんと弓座さんが、小さく歓声を上げる。彼女達は、奴らのファンなんだろうな、と私は観察していた。

 男を見てキャーキャー言ってたのって、いつの話だろう。ってか私ってそんな時期あったっけな・・・。壇上から視線を外して、ぼんやりと考える。

 イケメンには全然縁のない今までだったし、私はもう、大学生の頃から元夫が好きだった。

 彼は決して美形ではなかったけど、くしゃっと笑う顔がとっても好きだったな。

 甘えん坊で、おねだり上手だった。一緒にいて楽しい人だった。

 彼を思い出すとまだ緩む視界を恨めしく思った。自動的に泣けてくるのだ。畜生、彼はまだ、私の中にいる。

 ・・・もうちょっと、ちゃんと話しあってから別れたかったな・・・。

 でも彼は、私を裏切る前に別れてくれたのだ、そう思うことにしていた。不倫をして、私を傷つけたわけではない。そうなりそうだったから、それで私を傷つける前に別れを選んだのだ。ある意味、誠実ではあった。まあ・・・浮気ではなく本気だったってことで。

 そう思うことで私は自分を慰めてきた。自分が選んだ男は私に優しかった、そう思いたくて。


 華やかな音楽が鳴り響くホールで、壇上ではキラキラとライトを浴びながら笑顔の営業達。

 私は暗い客席で、彼等に拍手を送りながら痛い過去をまた思い出してしまった。

 あーあ、これが私の人生なのね。なんというか、いつでも脇役。結婚をしてやっとヒロインになったかと思ったら、それは4年で急な終わりを告げた。

 別に脇役でもいいのだ。その他1だって別に構わない。だけれども、今のこの長くて暗いトンネルのような状況からは一体いつになったら抜け出せることやら。

 惰性で拍手を繰り返しながら、後の時間をぼーっと過ごした。

 それでも少しは前進だと感じられることもあったのだ。

 あの昼食から、私はご飯がマトモに食べられるようにはなっていた。それはやっと実感出来る、一つのいい事だ。自分にとって。

 元々弱い朝はあまり詰め込まないようにしているけど、昼食と夕食は楽しめるようになった。どうでも良かったランチの店を選ぶようになったし、夕食はたまにアルコールもお供した。

 すると興味がなかったテレビの世界も面白みが湧いてきたから不思議だ。

 前よりは、ちょっとは笑うようになったのだ。きっと食べることでエネルギーが湧いたのだろう。

 頭は複雑でも体は単純でよかった。生物はこうして生きていくんだな。

 そして体には肉がつき始めた。まだふっくらとはいかないが、それでも頬がこけていて顔色が悪かった1週間前までよりかは遥かにマシな外見に。

 髪の毛にも艶が出てきたようだった。

 ビバ!栄養!

 上司である副支部長や、営業達、そして仕事上一番話す事務の笹田さんにも言われた。

「尾崎さん、最近ちょっと元気そうですよ。顔色もいいし」

 って。皆が何故か安心したような顔で、その方がいいですよと口々に言う。

 私はそれを驚きを持って見詰め、少しずつね、と自分に言い聞かせたのだった。

 少しずつ、私は人生を取り戻していきたい。脇役でも構わないから、地味で地味でいいから、またこの世の中を楽しめるように。また他人との繋がりを求めたくなるように。

 ぼーっとしている内に式は閉会式を迎えていた。

 これからは各自解散となる。このような大会がある日はもう営業はしないと決めて、気楽に皆でご飯を食べに行く人達も多い。上司連中は大体この後昼食会を経て会議に突入するので、見張りがいないからだ。

 羽を伸ばす日、と決めて最初から参加しない人もいる。勿論各事務所の出席率で参加が少なければ上司が怒られるから、それは仮病を使って休むんだろうけど。

 私は大体いつでも帰宅していた。そして家事をしたりでダラダラしていたんだった。今日はどうしようかな。

 出口に殺到する営業達をまだ座ったままで見詰めながら、うーんと考えていた。

 ま、取り合えずトイレでも行くか。

 混雑している出口は避けて、そろそろ空きだしたトイレへ向かう。だけど入ってみればまだ順番待ちだったので一番後ろに並んだ。

「あ、尾崎さん。お疲れ様です〜」

 私の後ろに並んだのは同じ事務所の中村さん。まだ26歳の女の子で、明るくてハキハキした子だった。

 彼女も平林さんと同じタイプで、誰にでも臆せず自分から話しかける。なので私も話せる数少ない同僚だった。

「お疲れ様。腰が痛いわね」

 壇上表彰なんて縁がなく、ずっと座りっぱなし組の私達は顔を見合わせて笑う。

「このホールの椅子めちゃくちゃ堅かったですね。それに寒かったし。課長に文句言わなきゃ」

 今日の会場選んだのはうちの課長なんですよ、と頬を膨らませている。

 大きな瞳に輝く栗色の長い毛。うーん、可愛いなあ〜。親父化した私が心の中で彼女を賞賛していると、あら、と中村さんが言った。

「尾崎さん、大変、伝線伝線!」

「え?」

 彼女が指差す先は私の足。見ると、確かにふくらはぎの所に小さな穴が開き、そこから伝線しつつあった。

「やだー・・・。今日替え持ってないなあ〜・・・」

 ストッキングは高いのに。うんざりしてため息を零す。すると後ろで中村さんが鞄を漁りながら言った。

「大丈夫ですよ、私アレ持ってますから」

 そして出した透明マニキュア。おおー!何て準備がいいんだ!その高い女子力に感動したけど、でも、と私は片手を振る。

「いいよ。私この後もう帰るし、もう伝線してても別に」

 するとぐいっと手を突き出して中村さんは口を尖らせた。

「応急処置してるかどうかで全然違いますよ!電車でしょ、尾崎さん?私この後同期とランチなんで、返却は明日でいいですから」

 確かに、私は電車組。どんどん伝線が広がるストッキングって、結構目立つものだ。それに現実問題、冬で外は寒いのだ。コートから出る足の表面の穴は小さいとは言え塞ぎたいかも・・・。

「えーっと・・・はい、では借ります。ありがとう」

 私ににっこりと微笑んでみせて、彼女はマニキュアを差し出す。それを拝み受けて、やっとトイレの順番が回ってきた。

「じゃあね、ありがとう」

 私はもういちどお礼を言って個室に入る。

 どうせ出口はまだ混雑しているだろう。それを空くのを待っている間に応急処置をしてしまおうか。


 ところがトイレを出て人の中をすり抜け隅っこの方へ足を向けると、ばったりと平林さんと会ってしまった。

 何故だ、会社の廊下では会わないのに、支社中の人間が集まっている場所で会うなんて。

「あら」

「尾崎さん、お疲れ様です」

 表彰者がつける胸元の赤いバラを外しながら平林さんが笑う。おや、珍しく一人?私は恐る恐る周囲を見回して、やたらと綺麗な男が居ないのをこっそりと確かめた。

 それから口を開く。

「はい、お疲れ様です。支社一番の成績、おめでとうございます」

 取り合えず称えておこう。私には逆立ちしても出来ない芸当なのだから。ほんと、一度同行営業してみたいな。どんなやり方か観察してみたい。

 まさかそんなこと言えやしないけど、と一人で思っていると、ありがとうと愛想の良い声が聞こえた。

 あ、それで思い出した。

 私は顔を上げて微笑みを作る。お礼を言うときくらいはちゃんと笑おう。

「平林さん、先週のお昼ご飯、ありがとうございました。高田さんが支払わせて下さらなかったんですけど、平林さんに払わせるって・・・」

「あ、いえいえ。こっちこそすみませんね、途中で出てしまって」

 彼はヒラヒラと手を振る。

「構いませんよ、平林さんは人気の営業さんだとは存じておりますから」

 私がそう言うと、あはははと軽やかに笑った。

「尾崎さん、あの後ちゃんと食べましたか?」

 彼はそう言うと、高い場所から覗き込むようにする。いやあ全く、本当に愛嬌のある笑顔だなー。私は少し下がって距離をとり、はいと頷いた。そしてへらっと笑う。

「食べられましたね〜。きっとビールの魔法ですよね。あのお店美味しかったし。有難いことに、あれ以来食欲も戻って来まして」

「それは良かったです。あいつ金だけ請求して何も言わないから、結局尾崎さんが食べたのかどうかが判らなくて。そういえば、ちゃんと会話になりました?」

 平林さんはそう言うとにやりと笑った。

 やっぱり判ってて無口の男を私にぶつけたんだな、このヤロー。私は心持目を細めて威嚇する。

 唸ってやろうかと思ったけど、周りにはまだ人がいる。じゃれてると思われると面倒臭いので止めた。

「お陰様で、食べるのに夢中で話をする暇がありませんでした」

 そう言うと、それだけでも平林さんは笑っている。想像したんだろうな。

「何だ、ちょっと期待したのにな。あいつ本当に喋らないからな〜」

 横を通り過ぎる知り合いに片手を上げながらそう言った。私はつんと顎を上げる。思い出したぞ、その後に高田さんに言われたムカつく一言を。

 私のその様子に気付いて、平林さんが瞬きをする。うん?と首を傾げて促した。

 仕方ないから小さな声で言った。あまり人に聞かれたい話ではない。

「・・・高田さんとは全然会話しませんでしたけど・・・店を出てから言われた一言に、ムカつきました」

「え、何何?」

 敬語を忘れて平林さんが嬉しそうな顔をする。もしかしてこの人、元々かなりやんちゃな性格なのかしらね。人が怒って喜ぶってどうよ。

「あいつ何て言ったの、尾崎さん」

 ワクワクしているようだ。うーん、仕方ないな。

 内容が内容なので、また声を潜めて少し近づく。平林さんも少し首を傾けて耳を近づけた。

「言われました、もうちょっと食べた方がいいですよって」

「うん」

「それが・・・その・・・あの、このままでは私が・・・」

「うん?」

「えーっと、だ・・・だ」

「だ?」

 ええい、言いにくい!しかし、この人相手に照れるのも何か違うぞ、私。コホンと空咳をして、一気に言った。

「抱き心地が悪そうだって。痩せ過ぎてて」

 平林さんは片手で口元を押さえてパッと体を起こした。

 見開いた両目がキラキラと輝いている。

 ・・・喜んでる?の、よね、この人・・・。私はまたムスッとした。

「失礼でしょ。高田さんに言い逃げされたんですけど、後で怒りのあまりコンクリート蹴っ飛ばして、足が痛かったです」

 まだ口元を押さえたままでしばらく私を見ていたけど、やっと言葉を出した平林さんは笑っていた。

「本当にあいつが言ったんですか、それ?」

「嘘なんかつきませんよ」

「ああ、いや、尾崎さんを疑ってるんじゃないんだけど。・・・でもマジで?はははは」

 おい、コラ。

「ちょっと、笑うところじゃないですよ、平林さん」

「あ、ごめんね」

 そう言いながらも肩を震わせて笑っている。流石に爆笑はしてはいないが、くっくっくと抑えきれない声が漏れている。

 通り過ぎていく他の営業が、何事かと振り返っていた。

 くそう。何だよ、この男笑い上戸か?私はぐるんと目を回してみせた。勿論不機嫌さの表明だ。

 うくくくと目の前で肩を震わせる、うちの会社代表の優績者を蹴っ飛ばすかどうかでしばらく悩む。だけどまだ人もいてるわけで、止めておくことにした。この人を蹴っ飛ばしたら目立つに違いない。

 エリート営業の平林を蹴っ飛ばした女として注目を浴びるだろう。そしてきっと、あれ、どこの誰?と言われるに違いない存在感のない私。

「お疲れ様でした、平林さん」

 つんとしたままで歩き出そうとすると、あ、待ってと声をかけられた。

 お情けでくるりと振り返る。

 ようやく笑いを押し込めたらしい平林さんは、いつもの愛嬌ある表情で私に聞いた。

「どこ行くんですか?大会は終わったのに」

 私は更に奥の人気のないロビーのソファーを指差した。

「まだしばらく居ます。皆が出て行ってからゆっくり帰りますから」

「ふーん。女性達は皆でご飯かと思ってましたけど」

 彼が言うのに、苦笑した。

「他の方はそうでしょうね。私は個人行動が好きなので」

 そう言うと少し黙って真面目な顔で私を見ていたけど、その内に口元を上げて笑顔を作った。

「そうなんですね。――――じゃあ、尾崎さん、また」

「はい、お疲れ様でした」

 もう一度そう言うと、もう振り返らずに私はずんずんとホールのロビー奥を目指す。

 そこには大きなソファーがあるのだ。

 そこでストッキングの伝線に応急処置をしている間に流石に皆居なくなるだろうと思っていた。

 良かった、やっと昼食のお礼が言えて。

 私は重い営業鞄を足元に下ろしてソファーに座る。はあ、と息をついて、さっきの平林さんを思い出した。

 えらく受けていたな。高田さんって普段そういうこと言わないキャラなのかな。それとも単に、怒る私の顔が面白かったか。やっぱりあの男が笑い上戸なのか・・・。笑うところじゃないっつーの、本当にもう。

「やれやれ・・・全く」

 小さくそう呟いて、ざわめきが段々小さくなるのを耳で確かめながら、鞄から中村さんに借りた透明マニキュアを出す。

 伝線ストッキングの応急処置、開始。






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