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「私の仕事でそれをいかすのはちょっと難しそうだけど、でもいい手ですね。大体メリットはともかく、デメリットも言える営業って少ないのよ。デメリットを見つけようと思ったらそれなりに勉強しなきゃでしょ。でも会社の研修では悪いところは教えてくれないものよね」
私は頷いた。確かに!あまりにデメリットの説明がないので、研修中に聞いたことがあるのだ。デメリットも教えて下さいって。すると研修の講師にきていた商品開発部の人に嫌な顔をされたことがある。
証券会社ではデメリットの説明は絶対項目だったので、私はえらく驚いたものだ。
保険会社、メリットしか言わないの?って。それっていいの?大丈夫なの?って。
だから私は、個人的に勉強して見つけたデメリットをクロージングでは言うことにしている。だけど高田さんみたいに3つ見つけようと思ったら、それは結構な努力が必要なはずだった。
ふう、と息を吐いて私はキールを口に含む。甘い香りが口の中にも広がって、それにうっとりする。
だけど、やっぱり聞いててよかった。高田さんのようには到底出来ないとは思うけど、それほどの勇気をもって営業にあたるべきだって判ったし――――――――
私がそんなことを考えながら夜景を見ていると、平林さんがちょっと姿勢を崩してリラックスしながら、のんびりと言った。
「・・・だけど、もうあの沈黙営業も見られなくなりますよ」
――――――――うん?
私は夜景から平林さんに目をうつす。私の横では陶子が同じことをしているのが窓のガラスにうつっていたはずだ。
「見られなくなる?」
つい言葉になった疑問に、彼は私を横目で見る。
「まだ内緒ですよ、尾崎さん」
「はい?」
平林さんは口に指をあててシーッという仕草をして微笑した。
「あいつは営業を卒業するんです。この4月からは商品開発に異動するんですよ」
「え?」
そう驚きの声を上げたのは私ではなく後ろの陶子。彼女はそっと私の肩に手を置いた。
「・・・商品開発部?」
平林さんはグラスを持ち上げて頷く。
「そうです。高田は昔から保険を募集することよりも作ることに興味が強かった。だけど、俺の為に・・・というか、俺のせいで営業を続けていたんです。商品開発は本社勤務になるから」
―――――――――高田は俺を監視することにしたんですよ。
去年の平林さんの言葉が蘇る。
離婚をしてボロボロになり、更なる破滅に向かって突っ走る平林さんを止めるため、疲れた彼が自分を痛めつけるのを止めるために、監視することにしたんだって言ってた。
自重気味な微妙な笑顔で下を向いて、平林さんは言った。
「俺はもう大丈夫だから、もうお守りは要らないから・・・やりたいことやれよって、篤志に言ったんです。今年の正月に」
するとあいつはじっと見て、その内頷いた。だから新年明けてから上司に言ったはずです。
「施策の旅行中に聞いたんですよ、俺も。決まったって」
異動が。
私は平林さんを見ながらそれを聞いていた。
まだ言葉が出てこなかった。ちょっと混乱しているみたいだった。
本社勤務、商品開発部、異動、高田さんは隣の第2営業部から居なくなる―――――
後ろから陶子がまた肩に手を置いた。ハッとして私は振り返る。
「いいの、美香?」
「え?」
何を聞かれているのかが判らなかった。やだ、私ったら酔っ払ってる?ちょっと判らないのよ、陶子が何言ってるのか。
私は怪訝な顔をしたらしい。
陶子は大きく呆れたため息をついた。
「・・・信じられない。こんなにあんたは判りやすいのに、どうして今はそんなに鈍感なの?高田さんて人、どこかに行っちゃうんでしょ?」
私はそろそろと声を押し出す。
「・・・いや、そうは言っても本社だし・・・」
全然近いし――――――――そう思って、驚いた。
え?ちょっと・・・彼の異動先が近いからって、何なのよ!?
動揺して危ないからと一旦グラスを置く。この高いヒールのせいなんだわ、足元がぐらぐらするのは安定が悪いせい。
それともこの高級なカーペットのせいだろうか。
それとも何杯目かのお酒―――――――
私は顔を上げてガラスの向こうの夜景を見詰める。
ここから・・・このホテルから徒歩10分ほどの大きなビル。その18階、第2営業部の中でデスクに向かい、俯いてパソコンを操る高田さんの姿が見えたようだった。
真剣な黒い瞳が。
思わず両手を口元にあてる。
・・・・・やだ、私ったら・・・。
くるりと平林さんを振り返った。
彼は膝の上に肘をついて顔を手で押さえた格好で私を見ていた。珍しく、笑顔はなく、真面目な顔をしていた。
「―――――――私」
自分が話すのを天井近くから見ているような不思議な感覚だった。平林さんと私と陶子が並んで座っている。その白いソファーも全部、上から見下ろしているかのような。
「行ってきます」
膝に肘をついて手で顔を支えたままの平林さんが、いつもの笑顔をした。
愛嬌たっぷりの、警戒心を解く可愛い笑顔。そして言った。
「行ってらっしゃい」
私は陶子を振り返る。すると彼女はあの美しい笑顔で、手をひらひらと振っていた。
「私のことは気にしないで」
立ち上がった。一瞬よろけるかと思ったけど、案外しっかりした力が足にはあったようだ。
コートとクラッチバックを引っつかみ、そのまま振り返らずにバーを出てエレベーターへ向かう。
鼓動が大きく跳ねていた。
ああ・・・行かなきゃ、私。どうしてこんなところに居たんだろう。家じゃなくて良かった。化粧も取ってターバンで髪を押さえてなくてよかった。化粧もしているからすぐに駆けつけられる。
そこで思い出して、下降するエレベーターの中で口紅を塗る。壁面が鏡で助かった、と思いながら。
早く早く。
行かなきゃ、あそこへ。
彼がまだ、居ますように―――――――――
3月中旬の夜の街を私は走る。
高いヒールとアルコールの回った体が重くて邪魔で、イライラした。もう、こんなんじゃ全然ビルに近づかないじゃない!どうしてこんな日に!
彼がいるのに、あそこに。あの場所に。ああ神様。
黒髪が肩のところで揺れる、その光景を思い出した。
雪が彼の髪を滑っていた。
やたらと綺麗な光景だったんだ。
吹雪で街の騒音が消えていて、彼はただ立って私を見ている。そして言ったのだ。
本気ですよって。言ってたのに、何にも返せなかった。
私ったら・・・私ったら!
何とか転ばずに会社の入っているビルに飛び込む。
守衛さんが驚いて私を見ていた。でも構ってる暇がない。
トレンチコートを翻してエレベーターに突進する。
これまたいつもの通り、6基もあるエレベーターはどれもが1階にはいない。畜生!神様って本当意地悪なんだから!
やっと来たエレベーターに乗ったら、たまたま一緒になった第1営業部の長谷部さんが驚いたように私を見た。
「尾崎さんじゃない!ああ、びっくりした・・・何か、いつもと全然雰囲気違うから・・・デート?」
マジマジと私を見詰める。
余裕がない私ははい?と振り返る。
「すごいお洒落してて・・・あら?」
彼女は営業鞄を足元に置いて近寄った。
「あら、綺麗な瞳。カラコンいれてるの?あれ、でも右目だけ?」
イライライラ。
どうでもいいのよ私の目の色なんてー!!腹の中ではバカ野郎ー!!って叫んでいたけど、こればかりは仕方ない。
エレベーターには他の人もいるけど、すくなくとも私と彼女は同僚なわけで。しかも彼女は勤続20年のベテランさんなわけで。
イライラが顔に出ないようにして私は何とか返す。笑顔がひきつったのは勘弁してください状態だ。
「・・・いえ、生まれつきです。普段はカラコンして隠してますけど。今日は同窓会で!」
もう面倒臭いからそう言い訳したけど、あながち間違いではない。
陶子も平林さんも同じ年なわけだから。
彼女はひたすら、へえ〜とか、全然違うわ〜いつもそんな格好してればいいのに、などと言っては私を眺めていた。
うるさい先輩だ!いつもこんな格好だったら仕事にならないでしょ!
18階にやっと到着した。その頃には私の上がった息も呼吸も多少ではあるけどマシになっていた。
お疲れ様です!と先輩より先にエレベーターを降りて、廊下をダッシュする。
時間は9時半近い。まだ居るんだろうか、それとももう―――――――
自分の所属する第1営業部はまだ笑い声が漏れていたけど、第2営業部は静かだった。
ドアの前で急停止して、はためいて乱れたドレスの裾をパッパと直す。電気も半分は落としてあるようだ。静かだし、もしかして・・・。
一度唾を飲み込んで、ドアの隙間からそっと覗く。
広い空間をパーテンションで区切った中の、端のほうの席には明り。
その明りに照らされて、高田さんが机に向かっていた。
私はつい息を止めてそれを見詰める。
・・・・何だか久しぶりに見た気がする。相変わらず静かな表情。設計書を見ているようだ。
私は彼から目を離さず、そのままふらりと第2営業部に足を踏み入れる。
ふと、高田さんが顔を上げた。そして目を少し見開いた。
黙って私を見る彼に少しずつ近づいていく。物音がしないから第2営業部には他の営業はいないようだった。
締め切り前なのに、どうしてここには他の人がいないんだろう・・・。頭の隅っこでそんなことを考えた。エリートばかりの営業部で、どうして残業しているのが高田さんだけなんだろう・・・。
だけどとにかく目的の人はそこに居るのだ。私はただ真っ直ぐに部屋の端まで歩く。
上体を上げて椅子にもたれ、高田さんは私を見ている。
そして口の端を上げた。
ゆっくり、ゆっくりと笑顔になる。美しい両目は細められ、優しい形に変わる。薄い唇が引き上げられ、三日月型になった。黒い前髪が一房額に垂れている。
その全部が、とても綺麗だった。
おさまっていた鼓動がまた耳の中で鳴りだす。
あと3歩。
ドクン・・・
あと2歩。
ドクン・・・
あと、1歩。
・・・ドクン
私は彼の前に立ち、見下ろす。
そして言った。
「私――――――高田さんが好きなようです」
彼は微笑したままで手を伸ばす。
私の手を掴んで、静かに言った。
「・・・はい。知ってますよ」
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