2、離婚記念日のお祝い
去年、離婚して一年目の春の日は、呆然として公園で過ごしていた。
まだ実家で暮らしていたから家では泣けないと思って外に出たんだった。父や母の、痛々しい視線も鬱陶しかった。彼等の結婚指輪を見たくなくてやたらと天井を眺めていたような記憶もある。
だけど、結局あの日は泣かなかったんだな。
ただ一年が経ったんだって公園のブランコに座りながら思っただけだった。
暗い一年だったなあ〜と思って、揺られていただけだった。
他の日は誠二のことを思い出して涙腺が自動的に緩んだものだったけど、あの日はうるっともこなかった。
まだ梅から桜になる前で、木蓮も咲いてなかった。
風も冷たくてコートもマフラーも手袋も必要だった。寒いなあと思いながらブランコでボーっと初春の空を見ていた。
私は温かいコーヒーを両手で持ってそれを思い出す。
今年は2年目だ。これはもう記念日にしてしまおう。だって、アイツは浮気してたんだったんだから。もう綺麗な思い出にしようと努力する必要がない。
優しかった夫の幻想は崩れた。彼は彼なりに私を好きではあったのだろうが、貞操を守るほどの愛情ではなかったわけで。
現実は、やっぱり現実だった。ハードでビター。そりゃそうか。離婚するのは金も時間もかかる。誠二がそれをするのだって、好きな人が出来たってだけでは足を踏み出せないものだよね。
大きな理由があったのだ。彼は完全に、他人に戻って他の家族を作った。
それを私が知らなかっただけ。
だけどもう知ってしまったんだったら、彼を綺麗にデコレーションしてみることも止めて、私の中に忌々しく感じる苦い感情があることも認めて、前を向かなければ。
季節は春。長い冬が終わってもう雪も降らない。私にも人生での春が来るって、そう思いたい。
解放されてて、ダメなところもひっくるめてちゃんと私は私で、温かく光を感じるような、春が。
今年、その記念すべき一日は――――――――――高級なバーで、飲んでやる。
一人でそれをするつもりだった。
だけど、ちょうど私を心配して電話をかけてきた親友の里美にポロッとその話をすると、回りまわって陶子まで行き着いたらしい。
丁度南支社で2月戦のご褒美、旅行施策が行われている時だった。上司もいないからとアッサリ仕事を切り上げて、私は午後の4時にはもう自分の部屋にいて、家事を済ませてホットカーペットに転がっていた。
携帯がベッドの上で振動して、だらだら〜っとそれを手に取る。
・・・お客さんだったら悲惨。もう化粧落としちゃったよ〜・・・。そう思いながらディスプレイをあけると、表示名は陶子だった。
「はーい?」
通話ボタンを押して気だるく答えると、元気な陶子の声。
『へーい!素敵な離婚記念日をお祝いするって聞いたわよ〜!暇な私をお供に連れてって〜』
・・・ラリってんの、この子?ってテンションだった。まだ夕方の4時だぜ、おい。
「・・・聞いたのね」
『聞いたわよー!!一人でしんみりはもう2年もやったんでしょ?パーッといこうよ、女同士で!』
その言い方に笑ってしまった。うーん、大事だわ、このテンションも。
「構わないけど・・・うーん、違うよね、ごめん。有難いと思ってる。だけど平日ですよー?大丈夫なの、仕事?」
今年のその日は木曜日だった。二人とも別に休みはあってないようなものだけど(私は営業職、彼女は自営)、やはり木曜日の夜に飲むと金曜の朝の辛さは半端ない。そんな年なのだ。無理はきかない。一応聞いておかねば。
陶子は電話の向こうでケタケタと笑う。
『私をなめんじゃないわよ!まだ30代も前半でしょ!?オールで会議でもオッケーよ!!』
え。私は上半身を起こしながら驚く。・・・嘘でしょ、そんなのごめんだわ。化粧が顔面で油とまざって恐ろしいことになり、睡眠不足でクマもしわも一気に浮上し、妖怪みたいな外見になるっつーの。そしてそのあと3日は疲れが取れない・・・。
まだ30代前半・・・・ポジティブ万歳だね、陶子さん。そこで「もう30代」と思ってしまう私が老けるわけだよ。
「・・・じゃあ、大丈夫なら付き合ってくれる?ホテルの最上階バーで終電までグダグダする予定なんだけど」
ホテルの名前を伝えると、おおー!と歓声が聞こえた。
『そんな所いくの?オッケー!なら気合いれてお洒落していくわ〜!』
私は笑う。待ち合わせはバーにして、ちょっとは何か食べてから来てねと伝え、電話を切った。
そうだ、私もお洒落して行こう。そして気分よく酔っ払い、女友達と笑って、男なんて〜って言いながら周囲の雰囲気には配慮して小さく盛り上がろう。
気分が良くなって来てくふふと笑う。
そして晩ご飯を作るために立ち上がった。
何となく凍えるようだった風が冷たいってレベルまで戻ってきた3月の中旬、私は心浮き立ちながら、5時きっかりに退社して部屋へ戻った。
退社するときの帰社報告では「成績もないのにもう帰宅するのか」と副支部長から嫌味を言われた・・・と思うけど、気もそぞろの私は既に聞いてなくて、話が終了するや否や事務所を飛び出したのだ。
今日は離婚記念日だ。
バカで楽しかった元夫と違う人生を踏み出せたことのお祝いをする日だ。
朝から落ち着かず、お客様との電話中にぼーっとしてしまった私だった。3月分の締め切りが来週に迫り、事務所は殺気だっていたと言うのに、私一人だけがにやけたような状態で過ごしたのだ。
ちなみに、まだ3月分のノルマは達成してない。
それは大いにヤバイ現実ではある。
だけど今夜が楽しみだった。
離婚してくれと誠二に言われてから今まで2年間、外出を楽しみにしたことなんて数えるほどしかない。お洒落どころか食べることにすら興味をなくしてしまって、ひたすら生命維持活動と仕事をしてきた日々。
私はその一つずつを片付けて、最近、やっとお洒落することの喜びを思い出した。
先週から考えていたのだ。今晩の為の服装を。そしてずっと自分に投資していなかったせいで感覚が麻痺してファッションに散財することに緊張し、震えを何とか無視して新しいドレスを買った。ハイヒールも。そしてピアスも。
クレジットカードを出す手が震えたのだ。値段を見ずに選んだから。
ベージュの光沢あるマーメイドタイプのドレス(年齢を考えてミニドレスは遠慮した)、同じくベージュに光る7センチのヒールシューズ。そして耳朶の端、落ちそうなところで光るダイヤモンドのピアス。
休日に買ったそれらを嬉しく思い出しながら飛ぶ勢いで部屋に戻り、とりあえず先に家事をしてからお風呂に入る。
ピカピカに磨き上げて、ボディークリームをたっぷりと塗りこむ。肌に艶が出て光るまで撫でた。
髪はブローして前髪はさらりと分ける。サイドは後ろへ梳いて、あとは毛先をまとめるためのワックスを少々。
口にミニサンドイッチを突っ込みながら、クローゼットを開ける。
そしてフレンチスリーブのドレスに腕を通す。いいものを着ることが久しぶりで、本当にドキドキした。男に告白されるよりもいい気分だわ、そんな感想が出るくらいのドキドキ感だった。
しゃらりと肌を撫でて柔らかく纏う。ベージュの柔らかい光が顔にあたり、肌の色まで綺麗に見えて満足した。
シルキーベージュのストッキング。ペディキュアはダークローズで。
指にも胸元にも装飾品はなし、腕には時計の代わりに金の細いブレスレットを6連くらい通した。
ピアスをつけて、カラコンは外す。今日は瞳の誤魔化しは必要ない。誰にいい訳しなくてもいいのだ。飲むお供は女友達、仕事でもない。
少しブルーがかった右目が目立ってアンバランスな表情になる。でも、いいの。これが私。アンバランスが自分なら、これを受け入れて生きていかなきゃ。
鏡の中の私は、この2年間で一番輝いていた。こんなに綺麗な自分を見るのは初めてだわ、そう思った。
やれば出来るじゃん、私。
離婚して辛い日々を送り、そこから抜け出した今、表情は落ち着いていて、瞳は少し暗い色を宿して濡れている。前よりも魅力が増したとしたらそこだな、と自分で思った。
辛い経験だって身について光ることもあるんだなって。
壁の時計をチラリと見て少し慌てる。もう6時半だ。行かなきゃ。
ドレスの上にトレンチコートを羽織り、まだ冷える夜用にとストールをマフラー代わりに巻く。
高くて素敵なヒールを履いて、ウキウキと出発した。電車の中で顔がにやけないようにするのに無駄に力を使った。
でもいい気分というのは伝染するらしい。前に座った塾へ行くのだろう学生と目が合った時につい微笑んだら、彼女の顔のこわばりが解けてにこりと笑ってくれたのだ。
それも嬉しかった。
ヒールでテンポ良く歩き、都心の、有名で高級なホテルの最上階のバーに、足元がふらつかないように入っていく。
背筋を伸ばして、膝を曲げてはいけない。ヒールを履いて格好悪い歩き方は出来ない。
何たって待ち合わせは素敵な女友達だ。ボーイさんに案内されて歩いて行くと、照明を落としたウェイティングバーには着飾った陶子が。
・・・わお。心の中で絶賛する。
真紅のストレートドレスを着て、栗色の長い髪をまとめて上げている陶子はとても綺麗だった。80年代のイタリアの女優みたいだ。
ちょっとちょっと、男性のみなさーん、いい女がこんな所に落ちてますよ〜って、拡声器で世界中に触れ回りたい。皆見る目ないな〜!どうして陶子は独身なのだ!
彼女に声を掛けないのは犯罪じゃないの?と思うくらい素敵だった。
バーテンダーと小さな声で話していた陶子が振り返る。私はにっこりと笑って手を振った。
彼女の目が私の全身を見る。次の一瞬で瞳に賞賛の光を認めて喜んだ。
「素敵よ、美香!あんた、ようやく完全復活ね!」
手を伸ばす女友達へ近づく。にこやかにバーテンダーが微笑みをくれる。うーん、全部、素敵!
「ありがとう、お洒落するのが楽しかったわ。久しぶりにそんなこと思った」
陶子はにっこりした。
「そうよ、やっぱり美味しいものは食べたいし、お洒落もしたい。それでこそ私達よ!」
そしてするりとスツールから立ち上がり、私を促した。
案内されて夜景見渡す窓際のソファーに座る。
上質な空間、洗礼された従業員達と、素晴らしいBGM、隣には着飾ったゴージャスな女友達。
まだアルコールを口にする前から酔うような感覚で、既に足元はふわふわとしている。
クスクスと笑う。何を見ても聞いても可笑しかった。
箸が転げても笑う、とか言う、あれだあれ。まさしくその状態だった。
陶子が注文したシャンパンとチーズで乾杯する。
「では、美香の離婚記念日を祝して」
陶子がグラスを上げる。私はうふふと笑みを零しながら言った。
「バカ野郎と縁が切れたことを祝して!」
「新しい第一歩を祝して!」
「今夜の素敵な空間を祝して!」
乾杯、と小さくグラスを合わせる。
ホストクラブに何百万つぎ込む感覚で飲もう、という陶子が面白くて笑う。さすがにそんな金額飲んだら明日は仕事にならないはずだ。家まで無事に帰られるかどうかも心配なレベル。
「どうせだからいいお酒を飲もうよってことよ!」
実に他愛のない、色んなことを話した。最近発見した美容院から飲んでみたサプリメント、会社の同僚の噂話や親戚から結婚を急かされてうんざりしたこと。
どれだけ飲んでも落ちない陶子の口紅を不思議に思って聞いてみたり。その時々で笑いを挟んで、私達は大いに飲んだ。
金色やルビーレッドや緑色や琥珀色の素晴らしいお酒を。
下町の安い居酒屋で美味しい肴でビールを飲むのも勿論楽しいけど、高級な空間にはそこでしか生まれない化学反応があるものだ。
たまにはいい。これがビタミンとなって磨いてきた肌も更に輝く気がするのだ。
陶子がちょっと失礼、とトイレに立ったついでに手鏡を見ようとクラッチバックをあけると、中で携帯が光っているのを見つけた。
酔っ払った瞳でぼんやりと確かめると、メールが1通。相手は、『平林さん』。
――――――――ん?
私は瞬きをした。そしてワンショットを頼んだ時に用意してくれた冷水を少し飲んで意識を呼び戻す。
・・・平林。って、えーっと・・・。ああ!あいつか、あの平林か!
自分でも反応が遅かった。今晩はバーと女の子とキラキラの魔法にかかっているのだから仕方がないんだけど。
メールを開くと簡潔な文。
『平林です。お疲れ様です。今晩なら都合良いのですが、尾崎さんはいかがでしょうか。急ですが、ハイと言って下さい』
つい、げらげらと笑ってしまった。・・・やだわ、私ったら、こんな場所でバカ笑い。危ない危ない。
でもどうよ、これ。ハイと言って下さいだって〜、バカっぽいよ、スーパー営業平林!
私は微笑んだままでボタンキーを押す。
「お疲れ様です。本日は外で女友達と飲んでおります、すみません」送信っと。
そうか、忘れてた。旅行からも戻って、3月分は余裕で仕上げているんだろう平林さんは今晩は暇らしい。
でも残念、今晩は私が予定有り―――――――――
携帯をテーブルに置いて、またグラスに口をつける。するとすぐまた携帯が振動して驚いた。
平林さんかな?早いなー、返信。もしかして両手打ちだったら笑える。
想像してまた一人で噴出す。もう今晩は笑い上戸だよ〜、ダメだ〜!
とにかくメールを開いて・・・・そして、笑いが止まった。
『俺がそっちに行ってもいいですか?迷惑じゃなければ』
・・・・おいおいおい、平林さん?め、め、迷惑とまでは言えないけど・・・え?何でくるの?来なくていいよ。やっぱり迷惑か!
でもそれをどう伝えればいいの?この今の酔った頭ではそんな高度なこと考えられませんけど。
私が携帯を持ったまま固まっていたら、陶子が戻ってきてしまった。
「あら?美香、何呆然としてるの?」
「・・・あー・・・ええーっと、ね・・・」
どう答えたらよいのだ!それすらも判らなくて途方に暮れる。すると片眉を上げた陶子が私の手から携帯を奪い取る。
「あ、陶子ったら!」
「何、この人。・・・平林?どっかで聞いたような・・・」
手を伸ばして携帯を掴もうとする私をスイスイ避けて、陶子は考える。そして美しく引いた眉をまた上げて、ああ!と言った。
・・・嬉しそうな響き。ちょっと、嫌な予感が―――――――・・・
「あんたが去年言ってたミスター愛嬌だ!思い出した、美形とペアでいるらしい、ええと・・・優秀営業だっけ?」
「こら、返して陶子!」
「何何、彼がここに来たいって?これはどういう事なのよ、美香?」
返して〜と言えば、説明聞いたらね、と返事が来た。まだ立ったままで私の携帯を握り締め、陶子は妖しく微笑んでいる。
・・・酔っ払いめ・・・。私はため息をついた。
取りあえず座るように言い、それから仕方なく、説明する。ただし、簡潔に。
「・・・その、美形で優秀なもう一人の営業マン高田さんの営業手法を知りたいな、と思って。本人が平林さんに聞けって言うから、教えて下さいって言ってたのよ」
「ふむふむ」
「そしたら2月戦で忙しいから都合がついたらメールしますって言われて――――」
私は自分の携帯を指差す。まだそれを握り締めていた陶子は、またふむふむと呟きながらメールの文章を読み直す。
そしてニヤリと笑った。
・・・・魔女の企みか?私は酔った頭でそんなことを考える。
「いいじゃない、呼びましょうよ、そのミスター愛嬌を」
「・・・えっ!?」
何だって!?
パッと見上げると、陶子は嬉しそうに微笑んで――――――――勝手にメールを打っていた。
「ちょっと!陶子――――――」
「うるさいわね、高級バーで騒ぐんじゃないわよ」
言い返しながら私に背を向けて、彼女はさっさとメールを打つ。
「こら、返してよ、あんた―――――」
「・・・行ってこーい」
そう言いながら彼女は画面に向かってヒラヒラと手を振る。
返信ボタンを押してしまったようだった。
・・・こらー!背中からドレス破るぞこの女ー!!本気でそれを実行しかけた私の胸に携帯を押し付けて、彼女はにこにこと言った。
「いいじゃない。彼はその美形じゃないんでしょ?私もスーパー営業に会ってみたいし、色々勉強させて貰いたいわ」
私は慌ててメール画面を開いて陶子が何て打ったのかを確かめる。
「〇〇ホテルのスターライトバーに居ます。喜んで、歓迎しますよ〜待ってまーす(ハートマーク)!!」
――――――――――・・・・・・ああああああ〜・・・・。
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