2、こんなこと望んでない



 ソファーに座った状態で上半身を傾けて足をのばす。邪魔なヒールは右足だけ脱いで、ふくらはぎを見る。

 おお、開いてる開いてる。でもさすが、それなりに高いストッキングだけあって、穴が開いてもすぐに伝線するわけじゃあないんだな。

 よかった、ケチらずにいいもの買っておいて。・・・まあ、結局は破れちゃったわけだけどね。

 お尻半分だけソファーに預けた状態で身を捻り、透明マニキュアの蓋を開ける。

 ストッキングの破れた場所にこれを塗るのだ。そうすれば固まって、一応の伝線拡大被害は食い止められるってわけ。

「よいしょ・・・」

 必要ない掛け声を出しながら身を捻って屈む。

 小さな刷毛を穴が開いたふくらはぎにこすり付けた。

 その動作に集中していると、いきなり上から声が降ってきた。

「――――――何してるんですか」

 はい?

 ガバッと顔を上げたら目の前に人が居て、驚いて仰け反った。

「ひゃあ!?」

 その反動で半分だけ載せていたお尻がソファーから滑り落ちる。見事に尻餅をついてしまった。

 痛みと衝撃に顔を顰めたけど、蓋が開いたままの透明マニキュアを守ることに必死になっていた私は手元を動かさないようにすることだけに集中した。

 ぎりぎりで、中村さんから借りたマニキュアをひっくり返さずにすんで、ほお〜っと息を吐き出す。

 あっ・・・あぶないったら・・・。

 何とかマニキュアの蓋を閉めて、乱れた呼吸を抑えつつ、やっと顔を上に向けた。

 畜生、誰だよ、いきなり驚かすの――――――――・・・

 そして固まった。

「・・・・・・・高田、さん?」

「はい」

 ミスター愛嬌の片割れの、『無駄にいい男』がそこに立っていて、尻餅をついたままで腕を高く上げている私をいつもの無表情で見下ろしていた。

「大丈夫ですか、尾崎さん」

「え?いえ・・・えーっと」

 ゴニョゴニョいいながら、何とか体勢を立て直そうと床の上で動く。取り合えずマニキュアを置いたほうがいい、と気付くのに時間が掛かってしまった。それほど驚いていた。

 何だよ、いきなり現れて〜!!急に出現するには心臓に悪い顔なんだよ、テメーはよ!

 何とかマニキュアは零さずに床に置き、太ももまでまくれ上がってしまっていたスカートを急いで引き下ろす。そしてバタバタとヒールを履いて、ソファーに座りなおした。

「・・・ああ、驚いた・・・」

 私がそう言っても、高田さんは全く気にしてないように周囲を見回している。

 何してるのよ、あなたはここで。

 言葉を口にする前に、高田さんがぼそっと呟く。

「平林、見ませんでしたか?」

 私はため息を一つついて、ここからは見えない出口の方を指差す。

「あっちで会いましたよ、さっき。もう帰られたんじゃないですか?」

 平林さんを探してるのね・・・。本当にいつでもつるんでやがるな、この人達。

 そう思ったと同時に上から降ってきた高田さんの言葉に、私は仰天する。

「・・・あれ?平林から電話で、ここで待つって言われたんですが・・・」

 はい?

 私は目を瞬いた。

 ここで待つ?そんなわけないでしょ、私と逆方向へ行ったんだから――――――

 脳裏に先ほどの肩を震わせて笑う平林さんがよぎった。

『本当にあいつが言ったんですか、それ?』

 そう言って笑うスーパー営業が。

 ・・・・おい、こら。

 もしかして、平林〜!!

 カッと一瞬で顔に血が上った。真っ赤になったのが自分で判った。慌ててそれを隠すために下をむいてマニキュアを手に取る。

「・・・待ち合わせですか。では私は失礼しますね」

 鞄にマニキュアを突っ込もうと後ろを向くと、破けてますよ、と声が聞こえた。恐る恐る振り返ると、高田さんは私のふくらはぎを直視している。

「・・・・はい、知ってます。だから今、応急処置をしてたんですけど」

「終わったんですか?」

「へ?」

 相変わらずの無表情で、彼は淡々と言った。

「貸してください」

 ――――――――はい?

 私はマジマジと後ろに立つ美形を見詰める。何か、聞こえた?え、何を貸してだって?

 呆然としている間に、高田さんは長い指を出して私の手から透明マニキュアをするりと掴み取った。

「―――――え?いや、あの―――――」

 ストンとしゃがんで、高田さんはマニキュアの蓋を開けている。

 ちょっと待ったー!!仰天だよ、おい!

 目の前にやたらと素敵な美男子が座っている。その艶のある黒髪が揺れるのを見て、眩暈を覚えてしまった。

 ・・・って、クラクラしてる場合じゃないわ、私!イケメンだろうがぶ男だろうが、恋人でもない人に足を触られるわけにはいかない。

 それに通りすがりの人ならまだともかく、奴は同僚なのだ。しかも、いつでも注目の的ってオプションつきの。

 泡食って、急いで足を引っ込める。ソファーに座った形のままで、パッと避けた。

「たたたたたたっ・・・高田さん!」

 声が上ずってしまったのが悔しかった。

「逃げたら出来ませんよ」

 マニキュアの刷毛につく液の量を加減しながら彼が静かに言う。

 いやいやいや!やってもらわなくて結構ですから!

 と言うか、どうしてマニキュアの扱いに慣れてるのよこの男!

 今度こそ本当に真っ赤になって、私はヒールを脱ぎ捨てて両足を体の下に隠し、ソファーの上で正座の形を取る。

 とにかく触られる前に隠してしまおうと思って。変な格好だけど、仕方ないではないか!

 しゃがみ込んだままで顔色一つ変えずに、高田さんは私を見上げた。

「・・・出来ないんですけど」

「しなくていいですから!!」

 どうしてあんたがするのよ!ってか、何がどうなってるのだー!!

「それでは寒いでしょう」

「ほほほほ、放っといてください!」

 何故私が足をあなたに触られなくてはならないのだ!そんな事平常心で、はいそうですか、ありがとねなんて受け入れられるかっつーの!

 ああ、周りに人がいなくて良かった・・・。この真っ赤な顔を他の人に見られなくて済んで良かった。

 多少現実逃避した頭で私はそんなことを考えた。

 するとまだ片膝をカーペットにつけてしゃがんだままの状態で、高田さんが、ふっと小さく笑った。

「緊張してるんですか?」

「しっ・・・してないわよ!」

「真っ赤ですよ」

 うがああ〜っ!!!私は思わず両手で頬を叩く。ちょっと神様!?一体何がどうなってんのよー!

 やたらと綺麗な笑顔を見せて、高田さんが目の前で笑っている。

 楽しそうだな、オイ。全くムカつく状況だ。

 落ち着け私。そして現状の把握に努めよう。

 とにかくこれは、あの平林のせいに違いない。何故だか知らないが、あいつは私をからかうためにこの男をここへ寄越したに違いない!

 バッカ野郎〜!!!お調子者のお祭り男め〜!!

 心の中で平林さんに向かって「道端でこけろ!」と30回は呪いを送り、私は急いで鞄を引っつかむ。

「それ、返してください」

 マニキュアにむかって手を伸ばすとしゅるりと避けられた。

 何と、遊ばれている。

 え、何!?この人一体どういうキャラなわけ!?混乱した私はその仕打ちに口をあんぐりと開ける。

「ちょっと、高田さん?」

 まだ真っ赤なままで睨み返すと、高田さんは静かな声で言う。

「まだ終わってないんですよね?」

 くっそー!この敬語が余計にムカつくぜ!私は唇を噛みしめる。余裕気なこの顔に爪を立ててやりたい。バリバリと引っかいて、ヤツが浮かべるはずの不快な表情を見てみたい!

「もういいんです!それ中村さんから借りたものなので、返してください」

「・・・返しておきますよ」

 は?何ですと?

 ガン見してしまった。彼は微少したままでゆっくりと言い直す。

「俺から返しておきますよ、明日」

 一瞬、マトモになった頭で想像した。

 会社の廊下かエレベーターホール、第1営業部から中村さんを呼び出して高田さんがマニキュアを返すところ。

 その場にいる周りの人は全員間違いなく聞き耳を立てているはずだ。中村さんは可愛らしく頬を染めてうっとりと高田さんを見上げるんだろう。私が呼び出されるなんて、これはもしかして、と彼女が期待を抱いても仕方ない。そしてヤツは言う。

 これ、昨日尾崎さんから預かりました―――――――


 ・・・冗談じゃねえぜ。

 恐ろしい想像に全身が震えた。

 何故、尾崎さんに貸したこれを高田さんが持ってるの?とは誰でも思うはず。え、あの目立たない尾崎さん、もしかして高田さんと何かあるの?付き合ってるとか?まさかそれはないでしょ。これは絶対、尾崎さんに聞かなきゃ――――――・・・

 地獄だ。

 オー・マイ・ゴッデス。クッジュー・ヘルプ・ミー、アズナス・ポッシブル!!(神よ、お助け下さい。それも、出来るだけ早く!)

「結構です!」

 また手を出したけど、それも避けられた。高田さんの美しい口元にはこれまた美しい笑み。そんな超レアな光景にも感動する暇なんてなく、私はここ一番の悪夢から逃げるべく必死に頑張っていた。

「高田さん!」

「はい?」

「返してください!」

「処置、させてくれますか?」

「お断りします!」

 喋るんじゃねーかよ、お前!!もう心の中では暴風雨だった。警報もバンバン鳴り響いている。

 これではパッと見、ただのじゃれている成人男女だ。

 ちょっとちょっと、何でこんなことになってるのよ〜!もう10代とか20代じゃないんです!32歳のバツ1なんです!こんなことしたくないんです〜!!

 私の心の叫び(阿鼻叫喚だ)は神様に届いたらしい。

 その時後ろを通りかかった掃除の方の足音に高田さんが気をとられた瞬間に、私はマニキュアの奪取に成功した。

「あ」

 高田さんの声が聞こえたけれど、無視だ無視!自己新記録でヒールに両足を突っ込むと、鞄を引っつかんで出口へ向かって一目散に駆ける。

 もう無言で振り返ることなく突っ走った。

 無理無理無理無理〜!!

 運動不足の体を叱咤激励して駅まで全速力で走る。

 滑り込んだ電車のドアに頭をつけて、荒い呼吸を整えた。

 くっそう、平林!覚えてろよーっ!!

 家に帰るまで、控えめに言っても脳みそ沸騰状態だった。




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