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 支部長は皆を見渡して、魅力的な口元に官能的な微笑みを浮かべて言った。

「もう11月戦は始まっているんですよ、皆さん。保険会社の一番大きな記念月がくるというのに、それでは、全く足りない」

 神野玉緒へだけじゃねーんだぞ、と言っているのだ。それはきっと全員が理解しただろう。

 稲葉支部長は、微笑んだそのままの顔で、続けた。

「神野さんが優秀なのは判っています。だから昨日、4500万のアポを6件取れ、と言ったんですが、出来なかったようですね。私が欲しいのは、努力したって過程じゃない。その結果です」

 最後のところであたしを目を合わせた。判るか?そう彼の瞳が言っている。

 判ってる。努力が評価されるのは小学生まで、大人は結果を求められるって言葉は、鬼教官から耳が腐るほど聞かされてきたのだ。

 わあお・・・隣から呟きが小さく聞こえた。驚くのはまだ早いんだよ、皆。この男の悪魔度合いはこんなもんじゃない。あたしは心の中で言う。

「今日中に、あと2件」

 あたしに真っ直ぐ言葉を放った。ほとんど息も絶え絶えで、あたしははいと返事をする。

 ・・・泣きたい。

「今日から一人ずつ個人対話をしていきますので、皆さんお時間少し頂きますが協力お願いします」

 にっこりとそう言ってから、ヤツは朝礼をしめた。

 支部のざわめきが遠くから聞こえるようだ。あたしは暫く虚脱状態だった。色んな人が大丈夫?と声を掛けていく。それに返事をするのも億劫で、あたしはアポ取りセットをもって立ち上がった。

 今から2階で、本日のお仕事開始だ。何としても今日中にあと2件のアポをもぎ取らないと、あたしは今日は帰社出来なくなる。

 唇を噛んで立ち上がった。


 そんな風に、光を失ってからのあたしは前よりも追い詰められ度を加速させて毎日を過ごしていた。

 しかし、稲葉さんの手腕は見事としかいいようがなかった。

 個人対話で営業ごとの性格や好みを見抜き、今よりも営業成績が上がるようにと弱点克服プログラムを作ったりした。そのアドバイスや支援は的確で、うちの支部の11月戦の成績は前任支部長の頃とほぼ変わらない水準を維持していたのだ。

 大会での壇上表彰も多く、稲葉に任せて正解だったと支社長がわざわざマイクを通して言ったくらいだった。


 彼は主婦や子供には懐が大きかった。前と変わらず子供達は支部に帰ってくることが許されたし、他の営業の邪魔をしないようにと2階の一室を放課後の子供達に解放して、そこで宿題をさせたり高学年に低学年の子守をさせたりしたのだ。

 それによってシングルマザーや主婦の営業達が仕事に集中出来る時間が増え、成果が増えだしたのには驚いた。

 やはり仕事やその中身には厳しかったけど、公平な扱いと親身なアドバイスによって瞬く間に事務所内全営業(あたしは除く)の信用を勝ち取り、名実共にうちの支部の長になったのだった。

 あたしはそれを、感心してみていた。

 新人もベテランも中堅も、皆素直に支部長に従って、結果、成果を手に入れて帰ってくるのが嘘みたいだった。

 皆が興奮して褒め称えるのを、あたしはうんざりして眺める。だって―――――

「・・・何であたしには厳しいままなんでしょうか・・・」

 喫煙はしないが自販機があるので喫煙場所によくいるあたしが、けだるくタバコをふかしている笹口さんに愚痴を零す。

 彼女はにやにや笑いながら言った。

「可愛がられてるって思っておきなさいよ、玉ちゃん。でないと身がもたないわよ」

 あたしはぶすっと答える。

「もう死にそうです」

 実際、あたしは気疲れと過労で体重が落ち続けていた。他の皆と同じようにあたしも成績は上がってはいたけど、他の皆と違うのは、働く量だ。

 今では夜の11時前に帰宅できることがないのだ。彼の指導によってノルマとその為の準備が増えていき、飯抜き残業が膨大な量になっている。

 ただ文句が言えないのは、優秀な支部長様はあたしより更に遅く帰っていることを知っているからで―――――

 副支部長すら帰った事務所でオレンジを食べ続けるあたしに呆れて突っ込みをいれてくるくらいには、二人で缶詰になっている夜が多かった。

「・・・神野。夜になるとひたすらオレンジばかり食べるの、何で?」

 ネクタイも緩めて袖をまくった残業モードの稲葉さんが(無駄に色っぽい。その点でも超迷惑)ある晩に聞くから、気が立っていたあたしはイライラと答えたのだ。

「働く女子には大量のビタミンが必要なんです!!」

「・・・だから、オレンジ?」

「朝はキウィを摂取します!話しかけるのやめて貰えます?この設計、難しくて集中力がいるんですから!」

 ガタン、と音がしてあたしが顔を上げると、いきなり大股でやって来た支部長が後ろから包み込むようにパソコンを覗き込んだからドン引きしたんだった。

「うひゃあ!?」

「耳元で叫ぶな。――――――条件は?」

 稲葉さんからいい香りがする。それに包まれてあたしはくらくらする。

 間近に綺麗な顔があることに照れたあたしは早口で答えた。

「けっ・・・契約年齢43歳の男性、妻は無保険、家族型を望んでいて、胃に持病があります。終身が好きでこだわって言い張ってますが、あたしはそれよりも医療の充実を勧めていて―――――」

 一通り説明を聞いてから暫く考えて彼が打った設計図に、あたしは唸ったものだった。

 客の望みを全部叶えている上に、あたしが作ったものよりも成績となる部分が大幅に増えていたのだ。

「・・・一体どんな頭だ」

 思わず呟いたあたしににやりと笑って、彼はあたしの机に積み上げられたオレンジをひとつ奪取したのだった。

「あー!あたしのオレンジが!」

「ケチケチすんな。礼はこれで許してやる」

 ・・・そんな夜もあった。

 あー・・・思い出したら、何か、ムカついてきた。

 12月の冷たい外気に鼻を赤くしてあたしは唸る。

 支部長が赴任してきてはや2ヶ月目。彼は既に名実ともにここの一員、それを認めたくないのは今やあたしだけ。

 笹口さんが寒さにストールを体に巻きつけながら煙と一緒に言葉をはく。

「玉ちゃんと繭ちゃんだけだもんね、夜も動ける独身組みは。繭ちゃんはまだ新人さんだし、玉ちゃんにどうしても期待も皺寄せもいくのよ」

 それに、と笹口さんは口元を緩めて言った。

「繭ちゃん、どうやら本気で支部長に惚れちゃったみたいだしねえ。育成も大事だけどやっぱり支部長としては恋愛モード一色に染まりつつある子と二人っきりにはなれないんじゃない?稲葉さんてその点真面目そうだし」

 あたしはため息をついて缶コーヒーを飲み干した。

 そうなのだ。

 うちの新人の繭ちゃん(24歳。最年少)が、どうやら稲葉支部長に惚れちゃったらしい。

 あたしは一人でバタバタしていて夜しか支部に居なくて気付かなかったのだけど、大久保さんや宮田副支部長から聞いたのだ。

 ただ今入社半年の新谷繭が稲葉支部長を好きになったらしい、それもどうやら本気で、って。

 それを聞いた時は、ほえ〜・・・物好きな・・・と呆れただけだった。

 確かに手腕は素晴らしいが、ヤツは相変わらず鬼だ。外見の良さにうっとりするどころか、その綺麗な顔をぐちゃぐちゃにしてやりたい、としかあたしは思わないのに、繭ちゃんは恋愛感情を持つのか!と思って。

 他の営業は皆支部長を褒めるから、ヤツの厳しさも高評価の中には含まれているらしいけど。

「お目目がハートになってますもんね・・・」

 言われてからよく観察してみると、確かに繭ちゃんの視線はいつでも支部長を追っていた。たまに頬を赤らめていたりする。

 あたしはそれを見て驚き、大豆イソフラボンの為に飲んでいる豆乳のパックを握りつぶすかと思ったものだった。是非彼女に忠告したい。生半な気持ちで告白なんてするんじゃないよ、と言いたい。

 ヤツに惚れた女はあたしが知ってるだけでもそれこそ大量にいる。だけれども、仕事を優先する男は付きまとう女性に冷たく当たる。単に、邪魔らしい。

 研修中も、どうにも好きになってしまったと玉砕覚悟で告白した同期があっさりと冷たく拒否されて、そのショックで辞めてしまったことがあった。ほんとに玉砕しやがった!!て皆で呆気に取られたものだ。

 あたしはその時光と遠距離恋愛中で、その頃の彼は、都会でのあまりにもえぐい研修に疲れて号泣するあたしを電話で毎晩慰めてくれたものだった。

 だからあたしは、稲葉さんを呪いこそすれ恋愛感情をもつなどあり得なかったのだ。

 既に鬼教官にぼろぼろだったあたし達は「ヤツはホモに違いない」と影で日頃の恨みを込めて言っていたのだが、たまにびっくりするような美人の事務員とデートをしたりして、ホモではないことをあたし達に見せ付けていたりした。

 その時に耐え難きを耐えた自分に勇気を集め、「稲葉さんは事務員さんとは付き合うんですか」と尋ねた女子がいたのだ。あたし達はその勇気に拍手した。

 ヤツの返答は――――――――

「俺は営業だから、同じ会社の営業職とは付き合わない。それではお互いがしんどくなるだろう?」

 だったよなあ、確か・・・。恋愛が仕事の士気に直結すると面倒だから、らしい。

 それを笹口さんに伝えると、彼女はタバコをもみ消して言った。

「じゃあ繭ちゃんは望みがあるってことよね。だって今は支部長職なんだし、会社から固定給貰う身分になったんだから」

 あたしは一瞬、固まった。

「・・・ホントだ」

 寒さでかじかんだ両手を缶コーヒーに押し付ける。あらあ、そういわれてみれば、そうか。

 もうヤツは営業じゃないんだ。年齢差は8歳あるとは言え、稲葉さんは童顔の甘え顔、繭ちゃんはすっきりとした美人で実年齢より上に見えるから、並んでも丁度いいかも・・・。うーん・・・だけど・・・・。

「・・・でもやっぱり、応援は出来ないなあ〜」

 笹口さんが笑う。なによ、嫌がってるけど実は玉ちゃんも好きなんでしょうって。

 ないデス!ときっぱり言っておいた。

 一瞬稲葉さんの笑顔が瞼の裏を横切ったけど、そのあとすぐにモノに出来なかった契約に関して詰められた前日の記憶が蘇り、あたしは気分を悪くした。

「まだ元彼引きずってるの?」

その質問にもないデス!と否定する。忙殺されててまだ泣いてすらいないのだ、そう言えば。

 引きずる所か思い出しすらしなかった。

 お先にと、笹口さんに手を振って事務所に戻る。

 ドアを開けながら、ちょっと面倒臭いな、とは思っていた。

 ここ2、3日、見て判るほどには繭ちゃんもアプローチしだしたのだ。まだ皆の前では他の営業と同じように接してはいるが、支部長が繭ちゃんから逃げてるらしいと宮田副支部長からは聞いていた。

 あーあ・・・。だから男なんてこんな女の園に入れちゃダメなんだよ・・・。

 それも、普通より外見のいい男なんて。

 ため息をついて自分のボックスを開ける。するとそこには一枚の紙。

 その緑の紙は解約要求に使われるものだ。あたしは口元を引きつらせてそれを凝視した。

 ・・・・・・ああ、やべ。

 どうやって席に戻ったか覚えてない。

 それはついこの7月の記念月に頂いた、大きな経保(経営者保険)の解約申し出だった。




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