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とにかく、こんな状態で顧客のところにはいけないと家に帰った。
フラフラと居間に顔を出したあたしを見て、母親が驚いて飲んでいたお茶をテーブルに置く。
「・・・ビックリした。幽霊かと思った。どうしてこんな時間に帰ってくるの?仕事は?」
あたしは鞄を椅子において、簡潔に説明した。
「一気に言うわ。説明も質疑応答もなしよ。光にふられて雨に打たれ、出勤したら新しい支部長はあの鬼教官の稲葉さんだった。以上、あたしはお風呂に入る」
後ろで母親の、あらまあ、という呟きが聞こえた。
本当にそう。あらまあ!だよ・・・。
お風呂に入り、全身を洗い、多少眠気はあったもののちゃんと化粧もしなおすと自動的に気合が入った。
――――――支部長命令は、無視しよう。
無心に出発準備をしているうちに気持ちが落ち着いた。とにかく、今日の予定は予定通りにクリアすること。それから対策を練ろう。
いつも通りのあたしになって居間に再登場すると、同じ格好のままでいた母親が人差し指を立てた。
「一つだけ!」
「オッケー」
あたしは鷹揚に頷く。
「どうしてふられたの?」
やっぱりそこか。あたしは唸る。だがしかし、親ですらも公認の彼氏だったのだ。ここの説明抜きには今日の晩ご飯を食べさせて貰えそうにない、とあたしは判断して口を開いた。
「あたしといると疲れるらしい」
母親は首を捻った。
「・・・だってほとんど会ってないじゃない?」
「まったく、そうよね!でももうこの話題はお終い。出来たらあたしはこっちが振ったのだ、と思いたいんだから」
困った顔をする母親にひらりと手を振った。
「行ってきます。不毛な恋愛よりも、更に大変になりそうな仕事の方の成功を祈っててよ。なんせ、鬼教官の再来なんだから!」
言うだけいって、家を飛び出した。原チャリに営業鞄を詰め込み、メットを被る。
そうだ、そういう意味ではいいタイミングだった。
稲葉さんの登場で失った恋愛に浸っている暇は完全になくなったのだ。
一件目のアポの時間が近い。今月はまだ1件しか入れてない上に、それはお客様の健康診断の結果待ちだ。もしかしたら・・・なくなるかもしれない1件。あたしは小さくても今日の養老保険を勝ち取りたい!
キーを回してバイクは発進させる。
毎日は戦場なのだ。
ここ最近のあたしは恋も仕事もパッとしなかった。6年目の営業で、身に付けた諦めと妥協のスキルを駆使して何とか乗り切ってきたのだ。
支部の稼ぎ頭と呼ばれてはいたが、支部のためになんて意気込みはなく、ただ給料の水準を維持するためと、自分のお客様への責任だけでやってきた。
だが今や、心を引っ張る恋はなくなり、諦めと妥協がスキル、なんて言おうものなら躊躇せずに瞬殺するような上司になったのだ。
生き残りたかったら、踏ん張るしかない。
ヤツには一切の言い訳が通用しないのは身をもって知っている。数字がものをいう世界で、賢すぎる男を前に誤魔化しは出来ない。
・・・あああああ〜・・・・・。メットの中で前方を無駄に睨みつけていた。
神様は、意地悪だ。
その日のあたしは神気迫るものがあったに違いない。
養老保険での資産運用をすすめていたOLさんには彼氏に振られた自分の将来の話まで持ち出して、契約を頂いた。独り身には共通する不安を煽る形になってしまったのだろう。
その次の定年前のサラリーマンの長年続けて下さった契約を息子さんへ引継ぎする契約も、難なくクリアした。いつも以上にきっちりと説明をした。のめりこみすぎて、「神野さん、今日はどうしたんですか?締め切りかなんかですか?」と客に聞かれたほどに。
「仕事命になったんです」
そう答えたら、書類に名前を書き込みながら、その親父さんはにやりと笑った。
「もしかして、失恋ですか?」
・・・まったく、もう!
そんなわけで1.5件の成果を持ち帰り、恐る恐る入った事務所に稲葉さんの姿が無かったので、急いで契約入力を済ませる。
「あら、さっすがね〜。新支部長就任のお祝いにさっそく契約持って帰ってくるなんて」
お姉さま方が手を叩いて褒めて下さる。でもいつもみたいには喜べない。
「そんなつもりじゃないんです!必死ですよ、殺されないために!」
あたしが顔もあげずにパソコンで処理をしながら答えると、あん?と何人かが首を捻っていた。
当支部の生き字引である最年長の手塚さんが、自席からおっとりと声をかける。
「玉ちゃんあの人知ってるのね。私は噂しか聞いたことがないけれど、大変厳しい人らしいわね」
周りの皆さんが、ええ〜!?と声を上げる。あたしはこっくりと頷いた。
「そうです。ダメですよ、あの外見に騙されたら。あの甘え顔の下は、まさしく鬼です!」
説明を求められたので、簡単に地獄の研修時代の話をしてあげた。その間にも指は止めない。やつが帰ってくる前にあたしはここを出て行きたい。
あたしの持って帰った成果をホワイトボードに書きながら、副支部長まで聞き入っていた。
話の内容にすっかり黙ってしまった周りの営業をかき分けて、事務席まで出来立ての書類を引っつかんで飛んでいく。
「横田さん!お願いします!何か不備があれば携帯に宜しくです!」
「はい、判りました。・・・神野さん次のアポですか?そんなに急いで」
お客様からの連絡の有無や配布される書類が入れられる個人のボックスを確認してから、あたしは首を振る。
「違うの。でも次は5時まで戻りません!」
そしてまた鞄を掴んで外へ飛び出した。
就業時間は朝の9時から夕方5時までと決まっている。だけどあたしはいつでも9時くらいまでは仕事をしていた。動ける体だし、会社帰りのサラリーマンを捕まえるにはそのくらいでなければ無理な話だ。
主婦の皆様はやはりその点難しいので昼間の努力が契約に結びつく。あたしは労働時間が長いため、普段昼間はあまり仕事をしないのだ。が、これからはそうも言ってられないじゃんよ・・・と駅前のスーパーの青果売り場でため息をつく。
支部長が、いつでも支部にいてしまう・・・。顔をあわすとロクなことがないに決まってる。あーあ・・・どうしてあたしはさっさと光と結婚してなかったんだろう・・・。
ダンナの世話と家事を理由に帰ることも出来ないじゃん・・・。
腕に持ったカゴには大量のキウィとオレンジ。あたしにはビタミンが、それも大量のビタミンが必要だ。
納豆でイソフラボンも摂取するのが望ましいが、納豆はどうにも好きになれないのでとにかくキウィとオレンジの摂取だけは自分に義務付けているのだ。
レジを通し、持参しているエコバックに仕舞って夕方の駅前で途方にくれた。
これからどうしたらいいんだ。美形の悪魔がいる支部には帰りたくないし・・・それに、言われたアポ取りだって一応は手をつけないと明日の朝が恐ろしい。
夕焼けの時間がすぐそこまで来ていた。
疲れた。それに、眠い。
寝不足で、鬼とも再会を果たしたあたしはもう崖っぷちの精神状態だった。
・・・光は、今日何時に家に帰るのかな。あたしに電話くれるかな・・・。やっぱり、そのまま終わっちゃうのかな・・・。
夕焼け前のピンクの空に心が解け出す。
だめだ、このままじゃあたしは凹みモードに入ってしまう。
人目も気にせずぶんぶんと首を振った。
ダメだ、仕事に戻ろう。鬼だってなんだって、光のことを考えて泣くくらいなら、そっちの相手をするほうがマシだ。
恋愛で傷付くのは直視出来ない。
あたしには、まだ、出来ない。
2つに増えた鞄でゆっくりと支部に戻る。まだ支部長席が空白なのを確認して、成果が入ったことへの賞賛を方々から受けながら、支部の2階へ上がる。
制度が変わって、来客を直接各支部が受けるのをやめてしまった去年から使うことのなくなった2階の小部屋が二つ。
ここは上司との対話やお客様を呼んでのイベントなどに使われるが、普段は基本的に無人だ。
騒がしい事務所で電話をするのは苦手なので、あたしは電話でのアポ取りは専ら2階を使っていた。
さっき買ったキウィとスプーン、手帳と見込み客書き出し表、それに携帯を持って2階に上がる。
ボロボロのソファーにあぐらをかいて座り、書き出し表を見ながら半分に切ったキウィにスプーンを突き刺した。
芦田さんは、まだ打ち解けるのに時間がかかりそう・・・でももう一回昼間に行って、アプローチかけるべきだよね・・・奥谷家には妊娠中の奥様がいる、そうだ、まずここに電話して・・・。
ざくざくとスプーンを突っ込み、緑色のビタミンの塊を口の中に放り込んでいく。
あたしの元気の素。鬼に打ち勝つパワーを頂戴。
そしておもむろに電話を取り、片っ端からかけていった。
翌朝の朝礼で、いつものように前日の成果発表があった。
昨日件数を入れた営業は、あたしと、ベテランと新人のペアのみ。副支部長が読み上げたあと拍手がおこり、日によっては体験談などを喋らされるのだが・・・。
稲葉支部長は、にっこり微笑んで、朝礼台からあたしを見た。
「確約アポでなかったと聞いてますが、無事勝ち取ったんですね、さすがです」
喜びなんかちっとも沸かず、あたしは彼を見詰める。じっとりと汗をかきつつあるのを感じた。
大久保さんなどは美形に褒められたあたしを(ま、成果があるのを含めてだろうけど)羨ましそうに見ているが、あたしは知っている。
彼が、単に褒めることなど有り得ない。この後に来るハズだ、何か、あたしに対して――――――
「・・・で、昨日約束した4500万のアポ6件はどうなりました?神野さん」
ざわめきが消えた支部の中で、ただ一人微笑む稲葉支部長を目を細めてみながら、あたしは小さな声で答える。
「・・・約束はしてません。ですが、アポは取りました」
必死で。2階のぼろソファーの上で、2時間以上かけて。
「6件?」
微笑を崩さないまま悪魔は聞く。ああ、この甘え顔を7センチに伸ばした爪で引っかいてやりたい。
「・・・いえ、4件です」
20名の営業と2名の事務員が固唾を呑んで見守っていた。何人かはまだ2日目のイケメンの支部長に見惚れているようだったが、あたしの周囲は間違いなくあたしと同じ体感温度を感じ取っていたハズだ。
体感温度、ただいま氷点下を突き破って更に冷却中。
「―――――――足りないな」
支部長が呟いた。
本社での鬼教官だった頃の稲葉さんなら、既に怒鳴りながら足りないアポをどうするつもりかと問い詰めてきたはずだ。今の彼はそれはしないらしい。だけど、普通の声でのその呟きが、あたしには余計に恐ろしかった。
「・・・4件のアポは訪問の約束レベルだろう?それでうまく商談に持ち込めたとして半分。内、1件でも契約になれば御の字。―――――それでは、足りない」
背中を汗が流れ落ちた。
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