1、有能な鬼と死にそうなあたし。@
遠く離れた本社からこの片田舎の小さな支部に赴任してきた新支部長・稲葉さんは、耳触りのよい明るい声で簡単な自己紹介をして22名の部下を笑顔で見渡した。
自分は支部長職についてまだ3年目だ、伝統のある名門の支部にこれて嬉しい、自分がここの足を引っ張らないように奮闘する、云々。
隣で野波さんが呟くのが聞こえる。
「・・・いい男だわ〜」
支部長の挨拶中、これで3回目。よっぽどお気に召したようだ。
ここの前の支部長は、全国の女性支部長の頂点に立つ人だった(職歴、営業力、サポート力、全てにおいて)。彼女は在任中の7年間思う存分その手腕を発揮し、営業職員の数を増やし、新人を育成し、ベテランを上手にのせてやる気を起こさせ、支部の成績はいつでも群を抜いてよかった。
こんなにまったりとしたペースの自治会のようなノリの支部ではあるが、社内報には支部名がのり、支社の大会でも壇上表彰は当たり前、という「名門」に成り上がったのはひとえに前任の女性支部長のお陰だ。
キャリア組みでみっちり教育も研修も受けてきたあたしも、ここに来て学ぶことが多かった。
彼女の下で働けて幸運だったと、心底思っていた。
その彼女が惜しまれつつも定年退職となるに当たって、あとを引き継ぐ人選は支社も本社も悩んだに違いない。
支部長暦は短いとはいえこの支部を任されるということは、やはり彼は優秀なのだろう、とあたしは成績ボードの前でキラキラとオーラを放つ稲葉さんを眺めた。
相変わらず、エリートで、美形、か。天は2物どころか3も4も与える人間だっているんだな。あたしは心の中で呟いて、下を向いてため息をつく。
自己紹介のあとは事務からの連絡事項を伝えさせて、朝礼を10分で彼はまとめあげた。
「私が慣れるまでは色々と不便をおかけすると思いますが、皆さんはいつも通りご自分のペースでお願いします。では、行ってらっしゃい!」
全員が立ち上がって「行ってきます」と返す。これで、支部の一日は始まる。
ざわざわと騒がしくなった事務所の中で新支部長は早速副支部長を捕まえてこの支部の状況の把握に乗り出したようだった。
あたしは決心する。
今日は、一日外回りで埋め尽くしてやる。入っているアポは3件、その準備は昨日完了させている。
乾きつつはあるがやはり一度全身びしょ濡れになっているので匂いもあるし不快だから、今から一度家に戻って着替えて―――――と算段しながら鞄を手に立ち上がると、玉ちゃん、と副支部長に呼び止められた。
「・・・はい」
振り返ると支部長席で、上司二人が手招きをしている。
・・・・・遅かった、逃げ出すの・・・・。
仕方なくとぼとぼと支部長席に向かう。朝一のアポが入っている営業はどんどん出て行って、事務所が段々空いてくる中、あたしはため息をつきながら副支部長が立って空けた椅子に腰掛けた。
残っている人たちの視線を、またまた一斉に背中に感じる。
「久しぶりだね、神野さん」
目の前で、ニコニコと愛嬌を振りまきながら元スーパー営業が笑っている。
あたしは覚悟を決めた。ゆるゆると顔に微笑を貼り付ける。
「・・・お久しぶりです。稲葉さん・・・あ、支部長」
都心の大きな支社で、彼は有名だった。エリート街道まっしぐらの男性社員ばかりが集められた男性オンリーの営業部がいくつかあり、その中央営業部に居た為に現役で営業をしていた頃の彼の呼び名は「中央の稲葉」。
明るいキャラと整った甘え顔が女子社員の人気を集め、他に北営業部と南営業部のイケメン営業と並んで毎日のように噂されていたのだった。
愛嬌たっぷり、成績優秀、昔の3高(身長、学歴、収入)を地でいく男。
ただし――――――――
あたしは引きつらないように努力しながら、何とか声を押し出した。
「鬼教官が自分の支部長になるとは、まさか、でした」
彼はあはははと声に出して笑う。
「ひっさしぶりに聞いたな〜、その呼び方。これでも俺もちょっとは丸くなったんだよ」
・・・それは間違いなく朗報です。あたしは小さく小さく呟いた。誰にも聞こえない声で。
23歳の時だ。あたしは支社の研修で、本社での2年間の人材育成研修への機会を与えられた。
他数名の同期と一緒に参加し、2年間、都心でみっちり教育されたわけだが、その時の営業研修で、「中央の稲葉」が担当教官をしたのだった。
最初は、喜んだ。わーい美形だ〜!と、皆でラッキーなどと手を叩いて喜んだものだった。
3日目には自分の事務所に帰りたくなった。キラキラのイケメンでスーパー営業の「中央の稲葉」は、愛嬌たっぷりの笑顔の下は超絶厳しい教官だった。
自分が受けてきたエリート集団育成プログラムをそのまま持ち込んで、あたし達に強要したのだ。
仕事に厳しい姿勢で臨む、というのは社会人としては素晴らしいだろう。真面目である証拠でもある。ただし、お祭り気分で研修にきていたあたし達には地獄のような苦しみとなって現実が襲ってきた。
泣かなかった日はない。毎日ぼろぼろになって教育に耐えた。
15人で参加したその研修で、2年後ちゃんと生き残って自分の支社に戻ったのは、何とあたしをいれて5人だけだった。
あとは厳しさに耐えられず退職してしまった。
鮮明に、その忘れたい過去が頭の中を駆け巡り、あたしは一瞬眩暈がする。
ぐっとお腹に力を入れて、何とか椅子の上での姿勢を保った。
確かに、あの教育は効いた。あたしの営業力は飛躍的に上がったし、忍耐力も前の比ではなくなった。だからこそ、浮き沈みの激しい保険の営業の世界にいて、未だ辞めずに生き残ってこれたのだと感謝もしている。
だけど・・・・・。
自分の上司となると、話は別だっつーの!!!
にこにこと笑いながら、支部長になった稲葉さんは事務に出して貰ったらしいあたしの個人成績表をめくっている。
ちらりと見ると、事務員の横田さんは顔を赤らめてぼーっと支部長の後姿を眺めていた。
・・・だーめだ、ありゃ。稲葉さんの言う事なら何でも聞きます状態になっちゃってるや・・・。
「いい成績だね。俺の教えたことをちゃんと実行しているようだな。安心したよ」
言葉使いを変えて親密さを出す。これも、彼の常套手段なのをあたしは忘れていない。
お客様の心に入り込むんだ―――――――受け入れて貰って初めて仕事にうつれる・・・教官時代の彼の台詞が頭の中に浮かび上がる。
『そして、目的を果たせ』。
ぱさりと成績表をおいて、彼の垂れ目があたしを捉えた。
「――――――件数は取れている。だが、Sの小さなものが目立つな。今日のアポは?」
来た!あたしは緊張した。ごくりと唾を飲み込んで、そろそろと答える。
「・・・3件です」
「Sは?」
「・・・550万、1200万、210万」
彼は、ふっくらとした唇を横に引いて輝くような笑顔を浮かべた。
「S4500万のアポを6件。それが今日の目標。以上だ、神野さん、行ってらっしゃい」
支部長の隣に立つ副支部長が固まっている。
あたしは何とか呼吸をして、よろよろと立ち上がった。行ってきますも言わずに一目散にドアに向かう。
―――――――S4500万のアポ6件。
ドアを閉めて駐車場に出、豪雨があったとは思えない素晴らしい10月の陽光を直接浴びて突っ立つ。
S、とは、契約高のこと。換算して4500万円分の保険金額になる契約が取れるアポを、6件取れ、とヤツは言ったのだ。
あの笑顔で。
明るく簡単に。
3年前の記憶がフラッシュバックする。
ああ・・・・神様。
今日は間違いなく、あたしの今世紀最大のワーストデーだ。
彼氏にふられ、朝から豪雨に打たれ、そしてそして、鬼に捕まった――――――
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