2、あたしの栄養源。@
結局、びしょ濡れになった。
もう暗くなってしまっている夜の6時。あたしはやっと支部へ足を向けた。
途中の公衆トイレでハンドタオルで顔をぐいぐい拭って水で洗い、真っ黒になっていた目の周りを落とした。
だからあたしは全身雨に濡れた上にほとんどスッピンだった。
夕日が差している間は濡れても寒くなかったけど、何と言ってもまだ春なのだ。やっぱり体温は下がってしまい、寒さを感じていた。
前髪から滴が落ちる。
あたしはたらたらと支部まで歩いた。
まだ誰か残ってるかなあ〜。この格好で電車乗ったら目立つだろうなあ。・・・あ、そうだ。研修、大丈夫だったかなあ。稲葉さんが行くって言ってたけど、別に上司がいったって意味ないのでは・・・。
そんなことを考えながら駅前を歩いていると、会社の建物の前で立つ、長身の影に気がついた。
――――――・・・・あ。稲葉さん、だ・・・。
彼は腕を組んで立ち、あたしをじっと見ている。
距離を開けて立ち止まり、あたしは口元で少しだけ笑う。
そしてやっと気付いた。・・・そっか、心配してくれてたんだな、って。
あたしったら連絡もせずに、昼前から行方不明だったわけだ。よく考えたら携帯の存在すら忘れていた。
もしかして着信が凄いことになってる?メールも大量だったりして。
あーあ。叱られるのかも、あたし。
スタスタと歩いてきて、彼は眉をしかめる。
「・・・やっと戻ってきたと思ったら、ずぶ濡れじゃないか」
「すみません、遅くなりました」
あたしは彼を見上げて微笑む。そして続けて言った。
「心配かけましたか?ちょっと寄り道をしていたら雨が降って来たので」
稲葉さんは眉間の皺を消して、ただじっとあたしを見詰めた。
怒ってるようでも呆れているようでも喜んでいるようでもなかった。表情はなかったけど、何となく優しい雰囲気がした。
「・・・おいで」
あたしの鞄を奪い取って、前を歩き出す。
わけが判らないままであたしも後をついて歩き出した。
支部の中に入るのかと思ったら、彼はそのまま自分の車へ向かう。
「あれ、支部長?事務所入らないんですか?」
あたしは首を傾げて聞く。
彼は無言のまま、車の助手席のドアを開ける。
・・・・乗れってこと、らしい。
あたしは瞬きを繰り返したけど、何も聞かずに乗った。まあ、何でもいいや。そんな気分だった。
今日は金曜日で明日は休みだし、珍しくアポも入れてない。このあとどこへ行くのか知らないが、行き先が支社で営業部長に研修の欠席を詰められるのだとしても時間的には大丈夫だ。
どうにでもなれ。
そんな気持ちで助手席に座った。
だけど、連れて行かれた場所は小奇麗なマンションだったから、驚いた。
うん?ここは、どこ?
「行くぞ」
それだけしかいわず、稲葉さんは先に立ってエレベーターのボタンを押す。
「えーっと、稲葉さん?ここどこですか?あたしは一体何をしにここへ?」
さすがに疑問が大きくなったあたしが追いかけながら聞くと、彼はちらりと振り返ってあっさりと言う。
「俺の住まい」
「は?」
思わず立ち止まったあたしの手を掴んで引っ張って、エレベーターに乗り込む。
「支部長の部屋ですか!?」
あたしの大声に、簡単に頷いて、人差し指を立てる。
「今日は直帰扱いだ。だから、今はもうプライベート」
・・・もう、一々細かいな!役職名で呼ぶなっていってるんだろう。でも驚くのに忙しいからイライラは後回しにすることにする。
「はいはい、稲葉さん!で、あの〜、何しにあたしはここへ?」
5階で止まったエレベーターを降りながら、稲葉さんはあたしの背中を押して誘導する。
「週末を過ごしに」
「はい?!」
胸ポケットからカード型の鍵を取り出し、彼は廊下の端にある部屋のドアを開けた。
「ようこそ、俺の家へ」
あたしは驚いて、足が止まった。
だって、付き合いだして1ヶ月くらい経つけど、稲葉さんの家に来たことはなかったのだ。
いや、まあそんなこと言うならあたしの家だって送ってくれるから知っているだけで、彼も上がったことはないんだけど。
とにかく、あたしは初めて恋人の部屋に来たってわけ。
興味がなかったわけではないけど、稲葉さんはあまりプライベートな姿を見せたがらなかったしデートはいつも外だった。だから全く予期してなかったのだ。今晩、彼の部屋に連れて来られることなど。
「――――ええーっと・・・入ってもいいんですか?」
彼は眉毛を片方上げて呆れた顔を作る。
「ここまで来て帰るつもりなのか?」
「い、いえいえ。はい、お邪魔します・・・」
あたしは慌てて玄関で靴を脱ぐ。
何せ全身びしょ濡れだったから、ストッキングが張り付いて不快だった。靴を脱ぐは脱いだけど、そこから先に進まないあたしを怪訝そうに見て稲葉さんが聞く。
「どうして入らないんだ?」
「・・・・びしょ濡れなんです。お部屋、汚れます」
ああ、と言って、彼は一番近いドアを指差した。
「そこが風呂。先に行ってて」
・・・先に行ってて?あたしは言葉に引っかかって変な顔をしたけど、とにかく本気で冷えつつあったから、言われた通りにそのドアを開けた。
洗面所があったので、お風呂の中を確認してから服を脱ぎだす。
雨で重くなったスーツを脱ぐと、それだけで気分もすっきりした。畳んで空っぽの洗濯籠に入れる。スカートも脱いで、シャツも脱いだところでいきなりドアが開いた。
「うひゃあ!?」
ビックリして飛び上がる。同じくスーツを脱いでシャツになっていた稲葉さんは、あたしの反応が気に入ったような楽しそうな顔をしていた。
「ほら、早く入って。お湯張りながらシャワー出来るから、温まらないと風邪引くぞ」
「わ、判りましたから出て行ってください〜!!」
「何言ってんだ、一緒に入るんだよ」
「ええ!?そんな・・・結構です!」
ぶわっと照れて叫ぶあたしを見て、ヤツは嬉しそうににやりと笑う。
「何を今更。脱がせて欲しいなら、そう言え」
瞳がキラリと光る。あたしはヤツの本気を感じとって、冷や汗を出した。ここで襲われることを考えたら、大人しく言う通りにしよう。そう判断して、全速力で服を脱いで浴室に飛び込んだ。
言われたようにお湯をはりながらシャワーを頭から浴びて温まる。その熱さでどれだけ自分が冷えていたかが判った。
ドアが開いて彼が入ってくる気配。あたしは目を瞑ってシャワーに打たれる。
熱い水の玉で、気持ちまで解けて行くようだった。
溜まりつつある湯船に浸かりながら稲葉さんが聞く。
「・・・お別れ、出来たのか?」
あたしはお湯のシャワーに当たったままで、頷く。
「自分のお客さん?」
「・・・いえ」
頭を出し、顔を手で拭ってから言った。
「地域の契約者様です。一般家庭への訪問や飛び込みで疲れた時によくいってました。お茶をくれたんです、毎回。そして、一緒に座ってぼーっとしたり、話をしたりしてました」
コメントはない。だけどあたしはそのまま話した。
「―――――辛くなった時や・・・辞めたいと思った時、逃げ込む場所だったんです。慰めてくれました。そんなに頑張らなくていいから、仕事も、出来るだけ楽しみなさいって・・・」
半分ほどに溜まっていた湯船から、彼が立ち上がった。
そして狭い浴室であたしの後ろにきて、シャワーを取る。
「――――――髪、洗ってやる」
「はい?」
何?あたしは驚いて後ろを振り返る。狭いので、すぐそこに稲葉さんの体があって、うわあと叫んでしまった。
「髪だよ。俺上手いんだぜ」
いうや否や、あたしの髪の毛を手に取り、そのままシャンプーで洗い出した。
確かに上手かった。一体どんな特技だ。自己紹介欄には書けないぞ!まあ、この男がやるんだったら女性が列を作りはするだろうけど。
頭皮マッサージなどと言いながらゆっくりと揉んでくれる。その心地よさにあたしはうっとりとなる。
湯気が立ち込める浴室で、稲葉さんは丁寧にあたしの頭を洗ってくれた。お返しにと気分もよくなっていたあたしは彼の背中を流す。
そうやって、しばらくお風呂で遊んだ。泡だらけになったり、しりとりをしたり、お湯をかけまくったりして。
途中で稲葉さんがあたしの顔を両手で挟んでゆっくりとキスをするまでは。
「――――――・・・」
「今晩は、その気になれない?」
稲葉さんは唇を離して目を細めながら聞く。
こんな綺麗な目が切なげにあたしを見てるのに。
そして、それは大好きな人なのに・・・・。
「・・・ならないわけ、ないじゃないですか」
あたしの返事に現在「水も滴るいい男」代表の稲葉さんはにっこりと笑った。
「ふやける前に上がろう。腹減ったか?」
「はい。・・・よく考えたら、お昼も食べてません」
ドアを開けて換気扇を回し、タオルをあたしにくれながら彼が言った。
「何か注文するから、それ待ってる間に一回抱かせて」
思わず頭を壁に打ち付けそうになった。・・・何を言うんだ、この人は。
「・・・無理です。お腹すいてそんな体力ない・・・」
振り返って、にやりと笑った。
「お前は、横になっててくれたらそれでいいんだけど」
ひょえー!!あたしは照れて金縛り状態だ。この美形がこんなにエロイと誰が想像した!??ううーん・・・いつまでも驚きが絶えないぜ、この人といると。
自分の提案にうんうんと勝手に頷いて、稲葉さんはズボンだけをはき、電話で料理を注文しだした。
そしてあたしに自分のシャツを出して渡し、言った。
「パジャマ代わりにそれ着てて。すごいそそるから我慢出来るか自信ないけど、来るのが早い中華を注文してしまったから、性欲の処理は飯の後に回すことにした」
・・・・そうですか。別にそれって慰めにならないよね、と思いながら、あたしは髪をタオルで巻いて、稲葉さんの大きなシャツを羽織る。ダボダボで、お尻まで隠れるし、指先はちょっとしか出てない。
稲葉さんが口に拳を当てて唸る。
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