2、マスコット玉ちゃん。
光の家を出て最寄の駅まであと5分てところで、更にあたしに試練が待っていた。
いや、試練てほどでもないか。まあ、ついてないって言葉に集約されるだけかもなんだけど。
突然の、全く突然の、集中豪雨に見舞われたのだ。
俄かに掻き曇った空を通行人が不安そうに見上げる。風も出てきたな・・・今日雨って言ってたっけな?などと思いながら足を速める。
ぽつり、と一粒目がダークブラウンのアイブロウで描いた眉毛に落ちてきて、それにイラっとした次の瞬間、ドバーっと、それこそ天の底が抜けた、みたいな雨が、一斉に空から降ってきたのだ。
あっちゅーま、だった。
周囲の人々と一緒に、あたしは全身ずぶ濡れになる。
まわりできゃーとかわあーとか言いながら通勤客が雨避けを求めて右往左往する中、あたしは唖然として固まってしまった。
・・・男に振られて、しかも、雨まで?
この、すっごく天気の良かった10月の朝に、突然?
やっと我に返って駅の屋根目指して走り出したときには、すでにずぶ濡れ状態だった。髪から滴り落ちる滴にため息しか出ない。
ここはあたしの部屋の最寄り駅ではない。従って、家に帰るわけにもいかず、とりあえずこのままで出勤となる。
鞄も濡れてしまっていたけど湿ったハンドタオルでざざっとスーツから水滴を払って、恨めしく空を見上げた。
ちっくしょう!もう雨止んでやがる!
駅の構内の鏡を覗き込むと見事に化粧の崩れたあたしがいた。
パンダ目と消えた眉、寄ったファンデの跡とぺったりと額にはりつく前髪。・・・ぶっさいく。平均そこそこの顔を化粧と日々の研究で‘まあそれなり’のレベルまで上げているのだ。寝不足に豪雨で素顔よりも恐ろしい顔になっている。
あーあ。もう、この言葉しか出ないよ・・・。
指の腹で目元だけでも拭い取って、改札を通った。
同じく豪雨に見舞われた可哀想な人たちとぎゅうぎゅう詰めで電車に乗った。
不快だ。湿った空気。濡れた衣服から発生する嫌なにおい。そこにいる全員が諦めた顔をして何とか立っていた。
ああ・・・これが日本のサラリーマン・・・。そんな状態に40分ほど耐えて、やっと事務所がある駅まで着いた。
すでに、よろよろだった。
保険会社の事務所は大体駅前か、大きな通り沿いにある。
そんなわけでそれ以上通行人に酷い顔面を晒さずに会社に逃げ込めた。
続々と事務所のパーキングに入ってくる営業職員の軽自動車を避けながら職員の入口へ飛び込む。
駐車場からの入口には提携している飲料会社の自販機が2台並び、喫煙組みがたむろする。
何せ支部長と事務2名に至るまで全員が女性のこの事務所、喫煙率が非常に高い保険会社の営業職員ではあるが、やはり屋内での喫煙は嫌がられるということで、自販機の前にアッシュケースがバラバラと置いてあるのだ。
「おはよ〜、玉ちゃん。って、あら・・・?」
立ったままでタバコを口に挟み、32歳シングルマザーの沖田さんが目を丸くしてあたしを見る。
「言わないで下さい」
手の平を見せて前進する。お次は気だるそうに紫煙をふかす笹口さんがケラケラと笑ってあたしを覗き込むのを無視した。
「どうしてびしょ濡れなのお〜?今日雨なんて降ってたっけ?」
「ええ、通り豪雨に会いまして」
お姉さまがたのピンヒールを避けて通りながら濡れて更に重量を増した営業鞄を抱えて事務所に突き進む。
「玉ちゃん、えらくボロボロねえ〜!」
48歳社歴23年目の大久保さんがざっとあたしの全身を見回して高い声を出した。
あたしは何とか自分の机までたどり着き、ぐったりと椅子にもたれ掛かる。
「あら?だって昨日は久しぶりに彼氏の家にお泊りじゃなかったっけ?どうしたのその不幸顔」
本来ならキラキラ輝くはずの朝でしょ?とあたしに投げかける。
その声には心配モードしか感じられない。
玉緒と言う名前のあたしは幼少時から玉ちゃんとペットみたいなあだ名で呼ばれていたが、勿論それはここでも継承されたいた。
大卒で入社した所謂キャリア組み女子が一般の地域の支部に下りてくることなんて滅多にない。だから最初は色々警戒されていたけれど、酸いも甘いも噛み分けた主婦出身の皆様にはすぐに受け入れて貰えた。
それは営業成績で支部をひっぱる稼ぎ頭としての期待もあったし、独身で家庭が大変な状態な女の子に対する同情もあった。
だけど元々あっさりしたタイプが生き残る営業の世界で、面倒なことを嫌う風潮がとくに強かったこの小さな支部では、平和がスローガンだったようで。
ここに移籍して1年半、あたしは既にマスコット的な地位に居ているわけだ。
世間一般ではボチボチお局様と呼ばれてもおかしくない年齢ではあるが、毛細血管の末端のような地域担当の保険会社の支部においては20代なんかまだまだ子供扱いなのだ。なぜなら、このような支部では入社年齢が30歳超え子持ち、が、普通だから。
「・・・それがですね。ヤツは残業で帰ってこなかったんです」
疲れ果てたあたしはぼそぼそと話す。
大久保さんは、うん?と首を傾げてコーヒーカップを持ったまま隣の席に腰掛けた。
「どういうこと?」
「忙しいんだそうで・・・会社で人員整理がありまして、その皺寄せです。とにかく帰ってこなかったので、あたしは他人の部屋で一晩中待ちぼうけでした」
はあ、とあたしの顔を覗き込む。
「それで目の下のクマなわけね」
「はい、丹念に隠したはずなんですが、駅までの突発豪雨でそれも流されました」
大久保さんはカップを置いて困った微笑をした。
「可哀想に。散々だったわね」
あたしはゆっくりと彼女を振り返る。大久保さんは微笑を消してあたしをじっと見た。
「・・・あら。まだ他にもありそうな不幸ネタ」
それですよ、それ。朝一番からどうしてこうなったのか本当に知りたいけど、大久保さんが真剣にあたしを心配してくれているのは判っている。だから告白する第一号はこの人に決定だ。
あたしは不機嫌に呟いた。
「・・・午前3時にヤツと喧嘩しまして。電話で。そのまま破局と相成りました」
大久保さんは目を見開いてあたしを見た。
「え?別れたの!?」
がやがやと騒がしかった支部が、一瞬でシーンとなった。方々から突き刺さる視線が痛いぜ・・・。
女の人って、すごい。こういう話は無意識でも耳がキャッチするらしい。
「えええ〜!!?玉ちゃん破局ううう〜?結婚秒読みじゃなかったっけえ?」
わらわらと営業職員が集まってくる。
60歳以上のベテランさんのみ心配そうな顔を自席からむけるだけにしているが、残りは喫煙組みまで飛んできたようだ。
あたしは長くてくらーいため息をついてみせ、場を盛り上げた。
どうせ道化で見世物になるのだ。雰囲気を暗くしまくっておこう。マスコットとしては、期待に応えなければ。
「――――――はい。ヤツとは終わりました。結婚もなしです」
あらまあ!とため息が漏れる。この支部で独身なのは、事務員の横田さん(26歳)とあたし、新人の繭ちゃん(24歳)だけなのだ。そして、皆の意識の中で結婚適齢期でリーチがかかっているのはあたしだけ。それでも長年付き合っている彼氏持ちだということで、世話焼きな人々も大してあたしには意識を向けてなかったのだ。
それが、郊外の山近い小さな街の保険会社支部のマスコット、玉ちゃん、フリーに。
既に生涯の伴侶をみつけてその2世を数人生み出している皆さんが、半分嬉しそうに半分同情に満ちた顔であたしを見詰めている。
その時、俄かに騒がしくなった支部の中で、はっきりと通る声でその場を仕切ったのは副支部長の宮田さんだった。
「ほら、もうすぐ朝礼よ!皆さん忘れてるようだけど、今日は新しい支部長がいらっしゃるんですよ〜!ちゃんと席についていてくださいね!」
時計を見ると8時40分。
皆仕方なくバタバタと就業の準備を始める。あんまり気を落とさないようにね!11月戦も近いんだから!と数人に声を掛けられて、あたしは曖昧に頷いた。
そして化粧ポーチを持って立ち上がった。
そうだ、今日は9月の人事異動でこの支部に配属が決まった新しい支部長が本社から来るんだった。支部長になって3年目とかいう、まだ若い男性支部長だと聞いている。
この完全な女性の園に7年ぶりに男性が来るということで、人事が発表されてからは皆でその話題で盛り上がったのに、昨日と今日は個人的にそれどころでなくて忘れていた。
それに話題沸騰中の頃、あたしは大きな契約の詰めに走っていて、その人事異動についてのお知らせはまだちゃんと見てないんだった。
だから、もう当日の楽しみと思って誰がくるのかは知らないままにしておいたのだ。
大体本社の人間なんてほとんど知らないし、誰が来ようが仕事は変わらない。上司が変わったって同じこと――――――
が、せめて。
この酷い顔だけは何とかしないとね。初対面でこれではあまりにも非常識すぎる・・・
と思ってトイレに向かうために事務所との仕切りのドアを開けた瞬間、あたしはその「世にも酷い顔面」で誰かと正面衝突してしまった。
「―――――ぶっ!」
「・・・おっと」
思いっきりぶつかった弾みでよろけて後ろにフラフラと下がる。
そのあたしの腕を掴んで倒れるのを防いでくれた人を、あたしはぶつけた鼻を押さえて見上げた。
「――――――すみません、大丈夫?」
明るいが、この声は男性だ、と思ってハッとする。押さえた鼻にもその人がつけているらしいグリーンノートがふんわりと香ってきた。
「・・・だ・・・大丈夫、です―――――って、あ?」
あたしは思わず変な声を上げた。しかも鼻を押さえていたから鼻声でもあった。なぜなら!
目の前にある、男性が着ているスーツの下、白いシャツについた黒い染みは・・・。
―――――――あたしのパンダ目が当たったからかあっ!!
・・・ヤバっ!一瞬でザアッと全身に汗をかいた。
男だ。ってことは、この人は噂の新しい支部長だ。そしてあたしは世にも酷い化粧の崩れまくったモンスター顔でその人に突っ込み、絶対高いに違いない白いシャツに、化粧の染みを・・・。
ぎゃああ〜(泣)
このハプニングに後ろの事務所の中で、全員が見ているのが背中に突き刺さる視線で判った。
顔が上げられない。でもでも、とにかく謝らなければ!!
誰も、何も言わない。あたしはたらたらと汗をかきながら、すみません・・とごにょごにょ謝って、これ以上の失態を見せない為にもと全力でその場からトイレへ逃げ込んだ。
・・・皆、静かだったよ〜・・・。ああ、泣きたい。そりゃあやばいだろう、玉!!何してんだお前!と思った沈黙だったに違いない。
うわーん、今日はここ数年であたしのワーストデーに決定だわ。あたしだって今日をそれなりに楽しみにしていたのに、この結果はどうよ!!
自分に突っ込みながら、泣きそうな顔に手を入れていく。アイメイクをどうにか誤魔化し、ファンデを均一に塗りなおして、髪を手櫛で何となく整えた。
そして朝礼までの残り時間ギリギリに事務所に飛び込み、顔を上げずに自席にダッシュする。
やたらと静まり返った事務所に違和感を覚えながら、椅子に座ってやっと顔を上げると、あんなにマイペースな営業職員達が、全員朝礼台の方を向いているのに気がついた。
超珍しい光景に思わず目を見開く。
・・・嘘でしょ。支社長が来たって話もろくに聞かない人たちが、一体どうしたって言うの――――?
と、思って朝礼台を振り返り、あたしは固まった。
そこには、美形がいた。
しかも、若い男の。
すらりとした体に濃紺のスーツ(シャツにはあたしのマスカラの跡)、青いストライプのネクタイが爽やかだ(そしてシャツにはマスカラの・・・)。そしてその上に乗っている顔は、最近お目にかかったことのない美形で―――――
あ。
あたしは思わず口を開けた。指まで指しそうになった。
サラサラの髪。上がり眉と、二重の垂れ目。長い睫毛で目元の印象をかなり柔らかくしている。尖った鼻。シャープな顎の線。ふっくらとした唇から白い歯をみせて笑うと究極の甘え顔になるこの人は―――――――
彼の目があたしを捉えたのが判った。
口元の笑みが大きくなり、鼻に皺を寄せて笑った。その子犬みたいなくしゃっとした笑顔をあたしは知っている。
あたしは口を開けたままで固まり、心の中で呟いた。
・・・・まさか、稲葉忍・・・・。
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