A
今日アポが一件しか入ってないのにはわけがあった。
2月戦で優績者となったあたしは、その研修会議が支社であるのだ。それに出席するために、今日の午後は空けておくようにと前々から言われていた。
だけど、だけど。
確かに、契約が貰えるアポじゃないけど。
体の横で拳を握り締めていた。
「―――――・・・出席しなかったらどうなるんですか?」
宮田副支部長が辛そうな顔で稲葉支部長に聞く。
真面目な顔であたしをじっと見たまま、支部長は答える。
「・・・優績者のカウントをされないので、支部の予算が削られる」
マジで?そんな。あたしは思わず目を瞑る。
あたしが今日の研修に出なければ、支部の皆に迷惑がかかる?
小さな支部にとって一人の営業によって加算される予算はデカイ上に有難い。新人教育にも使えるし、皆の士気を上げる食事会に使われたりする。
この記念月のあたしは色んなことがついていてタイミングもよく成績で支部に貢献出来たので、降りてくる経費をあてにしていたに違いない上司二人を前に、行けませんとは言いたくない。
最後の最後でそんな。もうため息しか出ないや。
・・・でも、だけど。
あたしは目を開けて上司二人を均等に見る。
「・・・お願いします。お客様の所へ行きたいんです」
天井を見上げて、稲葉さんは小さく息を吐いた。
「・・・判った。支社には俺が行く」
宮田副支部長がパッと振り返った。その顔には笑顔。あたしは深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
そして、二人の顔は見れずに自席に戻る。あちこちから視線を感じるけど、何とかそれは気にしないようにして午前中のアポの為の支度をした。
そして黙って支部を出る。あたしは能面のような顔をしていたに違いない。誰からも声を掛けられなかった。
駐車場では春の風が渦巻いていた。
埃が目に入って顔を背ける。笑え、玉緒。今から行くお客様には笑顔を見せなきゃならないんだ。
・・・・笑え、玉緒。
午前中のアポを何とか終わらせて、あたしは山下家へ持っていく書類を取りに支部に戻った。
皆出払っていて、同行営業か稲葉さんも居なかった。
ただ一人残っていた副支部長があたしを見て微笑む。
「お帰り、玉ちゃん。書類できてるわよ。お葬式には出るの?」
あたしは首を振った。
「担当営業ですから。―――――出棺の時だけ、端から見てます」
副支部長は頷いた。
意図しなくても、保険会社の人間がいれば火種が起こることがあるのだ。遺族の保険金の争いが起こることもある。故人の個人情報を手に入れようと近寄ってくる輩もいる。
だから、保険会社としては葬式には出れない。
あたしは書類を届けたあと、ひっそりと山下さんを見送るのだ。
晴れて、綺麗な青空だった。
山下家の遺族、娘さんに書類を届けて説明をした。死亡保険金の支払いにはたくさんの書類が必要なのだ。
「本当によくしてくださいました」
あたしが頭を下げると、娘さんは微かに笑った。
「父も喜んでましたから。頑張ってる人を見ると応援したくなるねってよく言ってました」
「お別れに呼んでくださってありがとうございます。あたしは隅っこでお別れさせていただきますので」
彼女はまた微笑んだ。そして、そちらの会社には、長い間、我が家がお世話になりました、と言って正座してお辞儀をした。
一つまた、自然解約に居合わせてしまったな、あたしはそう思いながら辞した。
お葬式には沢山の人。
山下のおじいちゃん、やっぱりこれが人柄の結果だよね、とあたしは感心する。
喪服の人の波の間をたまに風が吹く。
父が亡くなった時もそうだったけど、誰かが居なくなるときは風が吹くのかも。
人はただ、居なくなるんだ。
棺が霊柩車に吸い込まれる、その光景をあたしは遠くから見ていた。
・・・山下さん。本当に、お世話になりました。去っていく車に頭を下げる。
あたしの大切なお客様。
ゆっくり眠ってね、山下さん・・・。
夕方、あたしは一人で支部の近くの山に登った。
真っ直ぐ支部に帰る気になれなかったのだ。皆の顔をみて、笑顔でただいまって言う自信がなかった。頭には何もよぎらなかったし、心は深い青で満たされていた。
この仕事に付随するものなんだ。きっと、これはこれからもずっと続く。大事な人の保険を取り扱っている限り、その人たちの怪我や病気とも向き合わなければならなくなる。
担当するということは、一番酷い状態の時のその人に最後まで付き合うってことだ。
今日はたまたま山下さんだっただけ。
明日には仲の良い職域の社員の人たちかもしれない。姉やそのダンナ、あたしの家族かもしれない。幼馴染や学生時代の友達。あたしに保険を任せてくれた大事な人たちの大変な時に、あたしは泣かずに守れるかな。
大丈夫だよと励まして、最良の治療を受けれるように、その資金を提供する手続きを通して力になってあげれるかな。
振ってきた雨から守れるような大きな傘になって頭上に広がれるかな。
「・・・嫌でも、やるしかない」
自分で選んだ仕事なのだ。
呟きは緑の下で消えていく。もうすぐ夕焼けだと思って空を見上げたら、何と本当の雨まで降って来た。
晴れているのに、赤い夕方の雲から雨が。
「・・・あらまあ・・・。狐の嫁入りだあ・・・」
あたしはぼんやりと立ったままで顔に雨を受ける。
アイラインもマスカラもシャドーも全部流れちゃうかなあ〜・・・。それは酷い顔になりそうだなあ・・・。支部に帰れってことかな。
あたしは上に向けていた顔を戻す。
小高い山の真ん中辺りで、眼下に街を見下ろしていた。
そこには綺麗な景色があった。
広がる小さな街と、ところどころに公園や街路樹の緑。その上に銀色の数珠のような小さな雨の粒が降りかかっている。
そして夕方のお日様の光りも。
雨粒があちこちで光って、キラキラしていた。
あたしは高いところからその不思議な光景を眺める。
晴れているのに、水の玉。何て綺麗な。
あたしは一人で濡れる。だけど、悲しくなかった。営業鞄は重かった。スーツも髪も濡れて台無し。化粧だって落ちてるはず。
だけど、悲しくなかった。
それが、今一番大事なことに思えた。
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