1、狐の嫁入り。@
それを知ったのは、翌朝だった。
出勤してまず最初に見る個人のボックスに入っていたお客様からの連絡下さいメモ。
昨日は梅沢さんとのアポで午後にここを出発してから戻らなかったから今まで知らなかったそのメモには、事務員の横田さんの可愛いらしい字で、注釈が添えられていた。
『契約者の山下様、本日亡くなられたそうです。ご遺族の方から着電。手が空き次第、連絡下さいとのことです』
あたしは上司席の後ろにある個人ボックスの前で座り込む。
呆然としていた。
・・・山下のおじいちゃん、亡くなったんだ・・・。
まだ副支部長とあたししかいない時間で、事務所内の植木に水を遣っていた副支部長が、さっきまで喋っていたあたしの声が聞こえなくなったのを気にして声を飛ばしてきた。
「たーまー?どうしたの?」
あたしは床に座ったままでゆっくりと振り返る。
「・・・地域の、よくしてくれてたおじいちゃん、亡くなったって」
副支部長は一瞬固まって、それから水遣りをやめてあたしの方へ来た。
「よく話してたあの方?それは残念だったわね。いつの話?」
あたしはメモを差し出して立ち上がる。
「昨日の午後です。横田さんが帰るまででしょうね。昨日はアポから直帰したので、気付かなかったんです」
メモを読んで副支部長はため息をついた。
「死亡保険金の手続きがあるのね、この方。同行は必要?」
「いえ、必要ありません。もう古い契約で、終身の100万だけが残ってる方でしたから」
契約者が亡くなって死亡保険金が支払われる時、その額があまりに大きいと、上司に同行をして貰う。
働き盛りの30代から50代が亡くなると金額も大きい。そういう時はお供えを持参して上司と行くこともあった。
だけど、このおじいちゃんは長いこと持っていた保険の、もう医療も外れたシンプルな型のものを死ぬときまで持っている状態だったので、遺族も保険会社にそんなことは求めない。
あたしは電話を入れて、書類を持って訪問するだけでいいのだ。
二人で暗くなって黙っていたら、稲葉さんが出勤してきた。ドアを開けていつものように爽やかに、おはよう、と挨拶をして、あたし達の様子に気付いて足を止める。
「―――――何だ?」
おはようございます、と副支部長が挨拶を返す。あたしも倣って挨拶をし、それから言った。
「お客様が亡くなられたようで。・・・すみません、昨日出来てないので、あたし今から連絡入れます。朝礼遅れたら申し訳ないです」
上司二人に頭を下げ、携帯を持って2階に上がる。
そして、一つ深呼吸をして電話をかけた。
山下のおじいちゃんとあたしが呼んでいたその男性は、あたしが一般支部へ移籍してきて、初めてまともに喋ったこの地域の契約者様だった。
一般家庭への訪問に慣れてないあたしは、最初の2週間で一般家庭でのコンタクト取りの壁の高さと冷たい仕打ちとに打ち負かされていた。
生保の営業に対する風辺りは強いものだ。
営業5年目でそれは十分に判ってはいたけれど、様々な営業が飛び込みしてくるのが当たり前の会社で働く人々と、家を守って過ごす主婦の皆さんとはその対応が明らかに違うのだ。
インターフォンを押して、名乗ると同時に切られるってのは、まず普通。
最近のインターフォンにはカメラがついていて、服装で営業だとわかると出てくれすらしないのも、まだマシ。
酷い対応になると、あからさまに不機嫌な声で、まだこちらが何も言わないうちから「いらないって言ってるでしょ!!」と怒鳴られたり、「そんな仕事して恥かしくないの?あなた大学は出てるの?どこの大学?」などと言われたりする。
それ以上になると、水を掛けられたり舌打ち&物投げをされたりだってするのだ。
でも、そんな人たちも、うちの会社の契約を持っている。・・・・じゃあ何で保険に入ったのよ?と思う。フォローの担当になったと挨拶に来た営業に辛く当たって、一体何が得られるというのだろう。怪我や病気をした時に彼等が連絡する最初の人間はあたしで、その手続きに奔走するのもあたしだ。
別に茶菓子でもてなせとは言わないが、せめて常識的な対応というものをして欲しい。
あたしはめげて、ムカついていたのだった。
そんな時に、持っている保険は小さくて、営業からしたら「もう触れない、どうしようもないお客様」である山下さんの家に、今日の最後に、と回ったのだ。
保険に入れない体の方や、その必要がなくなった高齢者の皆様は、あたし達にも優しいものだ。きっと何も売りつけられないと思って安心しているのだろうと思う。
でも何でもいいから、一日の最後くらい優しい言葉をかけて欲しかったのだ。だから敢えて、「どうしようもない、触れないお客様」である山下家を選んだ。
その時に出てきたおじいさんがまさに契約者その人で、縁側にあたしをいれてくれた上に、疲れたでしょうとお茶まで出してくれたのだ。
偉そうな勘違い説教や年配者の愚痴も言わず、黙って一緒にお茶を飲んでくれた。
あたしはその時ホッとしてしまって、泣きそうになったんだった。
それでも気を取り直して、入ってくださっている契約の説明をし、長い間の契約のお礼を述べた。
すると山下さんは、皺くちゃの顔を笑顔にしてゆっくりと言ったのだ。
『暑くても寒くても、一生懸命外を回っている。こんな若い女性がなあ、仕事とはいえ、辛いことが多いでしょう』って。
あたしは泣かないようにとお腹に力を込めながら、いえ、大丈夫です、ありがとうございます、と返した。
嬉しかった。
保険の営業を邪魔な存在とだけ見るのではなくて、ちゃんと一人の人間として見てくれたことが、それだけで。
それからは、地域の飛び込みの最後には必ず寄ることにしたのだ。
山下さんは夏には冷たいお茶、冬には温かいお茶をご馳走してくれて、色んな話を聞かせてくれたし、あたしの話も聞いてくれた。
心を和ませて、仕事に戻れた。大切な場所だった。現実が辛くて厳しくて辞めたいんです、とつい零した日には、また縁側で微笑みながら、あたしに言葉をくれた。
あんたの仕事は誰かを助ける仕事だ。しかも、困った時じゃないとそれを判って貰えない。嫌われて何ぼという、損な仕事だな。だけど大切な、大事なことをしているんだよ。辞めるのはいつでも出来るから、もうちょっとやてみなさい、って。
その時は我慢出来ずに泣いてしまっておじいちゃんを困らせたんだった。
だけどあたしは確かに救われた。それからは、お客さんに酷い言葉をインターフォン越しに投げつけられても傷付いて泣いたりはしなくなったのだ。
大丈夫、あたしの仕事は誰かの役にたっているんだ、って。
そう思ってくれてる人も、確かにいるんだから、って。
支部の2階でご遺族の娘さんと話し、書類を家に届けると約束した。
契約者が亡くなって、すぐに連絡をくれることは珍しい。誰かが亡くなると大変忙しくなるので、一連のことが全て終わって、1週間くらい経ってから漸く連絡が入ることが普通だ。
だから営業は、仲のよいお客様が亡くなったことを、暫く知らない。そして、あとで一人で悲しむことになる。その時にはもう、その人の体はなくなってしまっているのだ。
でも山下家では、おじいちゃんと仲が良かった保険の営業のあたしが、葬式に出たいと思うかもしれないからと先に連絡をくれたらしい。
保険の営業は泣いてはいけない。ただ淡々と、事務手続きを済ませること。それが忙しくて悲しみの真っ只中にいる遺族の為にもなる。それはよく判っていた。だけど、つい、電話口で涙声になってしまったあたしだった。
担当営業なので葬式には出れないが、出棺の時に端から見守らせていただくことにした。
朝礼は終わってしまっていた。
あたしは電話を切って涙が落ち着いてから、下へ降りた。
稲葉さんと副支部長の視線を感じながら事務席へ向かう。
「おはよう、横田さん。今朝見たの、これ。今電話してきたとこ。書類の作成お願いします」
横田さんはあたしを同情の目で見て、小さく頷いた。
「今日持っていきますか?すぐ作りますね」
「宜しくお願いします」
そして上司二人に向き直る。
「今日は朝のアポ一件だけなので、これを優先で動いていいですか?」
稲葉さんも副支部長も黙って目を合わせる。
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