A
暖房の効いた部屋で羽毛布団に包まって、あたしは寝てしまっていた。
ベッドが軋んで揺れる感覚に目を覚ます。
ゆっくりと振り返ると、稲葉さんが頭にタオルをかけてベッドの淵に座ったとこらしかった。
シャワーを浴びてたらしい。そりゃ汗だくだっただろう、あんなに動いたら、とそこまで考えて、羞恥心で死にそうになった。
あたしに背を向けて座っている彼の後姿を、しみじみと眺める。
・・・・綺麗な体。腕も、腰までの肉つきも、広い肩幅も。いいなあ〜、神様って基本的にえこひいきだよね、こういうの見てると。
頭も良くて顔も体も綺麗って、無敵じゃん。うーん、何か、ムカつく。でも、あたしこの人に抱かれたんだよねえ・・信じられない。
視線を感じたのか呪いが判ったか、稲葉さんが振り返った。そしてあたしと目が会うと、にっこりと笑う。
「起きたのか」
その素敵な笑顔に見惚れる。まだ濡れた髪がタオルからのぞく。垂れ目の優しい瞳。口角をきゅっとあげた、可愛い笑顔。それが年相応の色気と混じって何とも言えない好印象となる。
「どうした?大丈夫か?」
手を伸ばして頭を撫でてくれる。あたしはうっとりと目を閉じて、正直に答える。
「・・・格好いいなあ、と思って・・・」
すると彼はあははと笑った。
「なんだ。良かった、欲求が激しすぎて無茶したからどっか痛いのかと思った」
あたしは毛布から顔だけを出して笑う。
「大丈夫です。・・・気持ち良かった〜」
「それはよかった。でも気遣ってやれなくて悪かった。もう本当に、俺ギリギリで・・・」
安心したように、息を小さく吐いた。
そしてガシガシとタオルで頭を擦ってから、稲葉さんが布団に潜り込んで来る。
後ろからあたしをがっしりと抱きしめる。彼からシャンプーや石鹸の匂いがした。
あたしは思わず呟く。
「・・・どうしよう、幸せ」
夢だったら凹む、と両頬を叩くあたしの手を、これこれと彼の手が止める。
「神野って自虐趣味があるのか?苛められるのが好きとか?」
うん?あたしは目を開く。
「いえ、そんなことないですよ。苛められるのも詰められるのも嫌いです。締め切りの朝の稲葉さんとの対話は泣きそうになりますし」
「・・・仕事から離れてくれ。イケナイことしてる気分になる」
思わず笑ってしまった。出会ったのが会社である以上、あくまでも部下に手を出した上司であるのは変わらないのに、そんなところを気にするのが。
あははははと笑うと、後ろでぶつぶつ言っていたけど、最後には一緒に笑っていた。
目を閉じて、おでこをあわせる。
稲葉さんに抱きしめられながら、布団の中。この現実をいつまでも覚えていたいと強く強く願った。
「・・・ずっと、こうしかったんだ。やっと手に入れた」
あたしは涙を一粒流す。それは彼の指でふき取られる。
「泣くな」
「・・・はい」
「笑って」
「・・・はい」
その日は夜がくれるまでそうやっていた。抱き合って、笑いあって、ベッドの上でご飯を食べたりした。
車で家まで送ってくれてついでに母親に挨拶していくと言う彼を、そんな必要ないですから〜と必死で止め、車に押し込む。
「また、明日」
窓を開けてくれたのであたしは覗き込んで笑う。
「おやすみなさい」
ハンドルに手をのせて、稲葉さんも笑う。
「じゃあな――――――また、明日」
テールランプが消えて見えなくなるまで見送っていた。
3月の夜の風があたしの髪を撒き散らす。だけどちっとも気にならないで、あたしは微笑んでいた。
嬉しかった。体が甘くなったようで、ただ立っているだけでも溶けてしまうかと思ったくらいに。
体の芯から温まって、ゆったりと波に揺られているようだった。
白い息が空に昇る。
もう冬も、終わりだった。
あたしの毎日は、変わっていった。
恋人が出来ると影響が大きい。それも、長年すれ違ってばかりの彼氏と居たあたしには、職場の恋愛ってのは凄かった。
だって基本毎日会うでしょ。
しかも出来るだけ秘密にしてなきゃならないでしょ。
でも誰も居ない廊下ですれ違った時や、同行営業に行くときの車の中や、対話する時なんかに合わせる瞳や、指や、たまにキスなんかが、毎日の中で蜂蜜みたいな金色でとろんとした甘さを生み出した。
普段の愛嬌たっぷりの笑顔や上司としての厳しい表情が一瞬で消えて、柔らかくて甘い笑顔に変わる。その彼があたしの瞳を潤ませた。
そしてあたしに元気とやる気をくれた。
今ではあたしの生活の基は、朝のキウィ、昼間の稲葉さん、そして夜のオレンジだ。
全部大切で手放せないものへとなった。
肌の調子もよく、勿論体調もよく、元気なあたしは多少営業がうまくいかなくても笑ってられるようになった。
副支部長と大久保さんだけには稲葉さんと付き合うことになったと伝えていたから、ウキウキした話をするのはこの二人だけに限定した。
「よかった、本当。玉ちゃんの輝きが違うもの」
大久保さんはにこにこと微笑み、背中を優しく叩いてくれた。
「二人とも、演技上手ねえ。まだばれてないわ」
宮田副支部長が一度そう言ったことがある。特に、朝礼での攻防戦とか上司対話の時の殺し合いをしそうな視線は憎みあってる人たちに見えなくもないわって。
あたしは脱力して肩を下げる。
「・・・いえ、それは本当に殺してやりたいって思ってるんです。なんせ、あの目標設定は無理がありすぎるでしょ。過労死しますよ、皆」
支部の成績は上がっていたし、また新人さんが入ってくれて活気があった。稲葉支部長はじょじょに各営業の行動範囲にあわせて目標と名前を変えたノルマを加算していき、皆必死でそれの完達を目指している。
お陰で給料が上がったわ、ってシングルマザーなんかは喜んでいたけど、独身組みはヘトヘトだった。
あ、そうだ。つい最近もこんな事があった。
給料いらないからノルマ件数とアポ件数減らして欲しい、と零す繭ちゃんにストレス発散の喫煙癖がついてしまったので、ムカついたあたしは支部の真ん中で支部長に噛み付いた。
「24歳の女の子がタバコ吸わなきゃ耐えられない職場なんて、支部長の責任ですよ!!」
すると稲葉さんはしれっとした顔をして言った。
「新谷さんの喫煙癖と目標達成との因果関係を証明してから俺に言え」
後ろで繭ちゃん本人はおろおろとして喧嘩を止めさせようと頑張っていたけど、ベテランさんが、ほっときなさい、と言ったらしい。これはこれで見ものだから、って。
「ストレスが溜まったからにきまってるでしょうー!!」
「では夕波さんはじめとする一部の皆さんに喫煙癖がないのはどうしてだ?タバコは酒と一緒で娯楽物だぞ、神野。つまり、本人の勝手だ」
・・・まあ、そりゃそうだ。あたしだってタバコは吸わない。だけどここで負けると結局ノルマは減らないのだ。
その通りですからもういいです〜!と繭ちゃんが後ろであたしをひっぱるのに、だまらっしゃい!とあたしは返して稲葉さんを睨みつける。
「異常です!週のアポ件数が10件って、それがちゃんと取れてしまったら一体いつ事務仕事をするんですか!?設計書つくるのにも資料つくるのにも時間はかかるんですよ!職域訪問の準備もあるし!」
職域にしている会社を訪問するのに手ぶらで行くわけではない。少しでも興味を持って貰う為、様々な工夫を凝らしたチラシを作ったりしている。色々準備があるのだ。
それにそれに、アポを10件ゲットしようと思えば30件以上には掛け合わないと到底用意できない。その時間は勿論、そういった事務作業は出来ないではないか。
腰に手をあてて噛み付くあたしの周りではコーヒーを飲みながら他の営業が歓声を送っている。
「頑張って、玉ちゃーん」
「いいぞ〜」
「確かに事務作業する時間ないでーす」
「まあ、10件は正直キツイしね」
稲葉さんは野次を飛ばす周りを見回してから面白そうに口元を緩めて、のんびりと言う。
「皆さんの意見は判りましたが、一度でも完達出来た方はいらっしゃいましたっけ?」
全員でぐっと詰まる。
稲葉さんは落ちてきた前髪を優雅に払って、相変わらずのんびりと言う。
「本当は、目標とするなら週に20件と言いたいんです。ですが主婦の方も多いし、家庭での時間を考慮して10件に減らしてるんですよ。私は悪魔ではありませんから、子供さんとの触れ合いを減らすつもりはありませんしね」
そこであたし、繭ちゃん、そして入ったばかりの独身の子を平等に見て、あの甘え顔で言った。
「ただし、独身組みはその限りでない。そう、よく考えたら主婦の方々と同じでは不公平だよな、よく言ってくれた、神野」
嫌な予感に背筋がざわっと震える。後ろで繭ちゃんが、まさか・・・と小さく呟く。
とろける様な柔らかく甘い究極の笑顔で、稲葉さんは手の平をあたし達に向ける。
「君達は、15件にしよう。では、健闘を祈る」
ええええ〜!??と指された3人で絶叫する。何だってえええ!?
周りの営業は、今日も支部長の勝ちね、と言いながら去っていく。
「ちょっと待て、鬼〜!!」
ふざけんなーっ!何が私は悪魔ではありませんだ、これは苛めだああ〜!!と叫びながらあたしが突っかかろうとするのを大久保さんと繭ちゃんが止め、実に爽やかな笑い声を上げながら稲葉さんは支部長席に座った。
「ふざけてないぞ、俺は至って真剣だ」
殺す気ですかあ〜!!と諦めずに拳を振り上げるあたしを今度は副支部長が止める。
そんなことをしながら、毎日は過ぎていった。
たまにあるそんな上司と部下の衝突も気にならないくらいには、あたしの毎日は楽しかった。
季節は春だった。
卒業と入学の慌しい時期は過ぎ、桜も完全に散ってしまった頃。
あたしは梅沢さんと待ち合わせをしていた。いつかの、あのバーだった。
「お待たせ〜!」
今日も華やかかつスタイリッシュに梅沢さんはドアを開けて登場した。
一度オススメ設計を提案してから2ヶ月が経っていた。彼女が多忙期に入り、その後のアポが取れなかったせいだ。
「お久しぶりです。長い出張お疲れ様でした」
あんまりに梅沢さんに会えないので、あの眼鏡の男性の亀山さんに尋ねたのだ。梅沢さんはお元気ですか、と。
そしたら亀山さんは、ああ2週間ほど東北の出張で、俺も会ってないから判らない、と答えたのだ。
「でも多分元気だろ。あっちの支社から報告が入るのを見てる限りじゃ、相変わらず暴れてるみたいだし」
・・・暴れている。うーん。想像できる。何しか元気な人だからなあ、梅沢さんて。
そしてこの前の職域訪問で、やっとランチ帰りの彼女を捕まえることが出来たのだった。
梅沢さんは明るく笑って足を止めないままであたしに言った。
「久しぶりね〜!前の設計でいいわ。あれで契約するからまた明日の午前中に電話頂戴〜」
言いながらヒールを鳴らして歩いて、そのままドアの向こうへ消えた。
あたしは呆気に取られてそれを見送ったんだった。
こんな風に契約を貰ったのは久しぶりだ。
あなただから、契約する、というパターンは。
梅沢さんはやっぱり真っ黒衣装のバーテンダーさんにジン・トニックを作って貰って、本腰いれてあたしの説明に聞き入った。
にっこりと笑う。
「はい、それでいいわ。契約の乗り換えは基本的には不利だってあなたが教えてくれたけど、こっちに乗り換えます」
「ありがとうございます」
あたしは深深と頭を下げる。
感動した。何ていい出会いだったんだろう!あの会社に飛び込んで、あたし大正解・・・。そういえば、そのお陰で噂の楠本FPにも会えたんだったし。
楽しく飲んで語らい、梅沢さんの彼氏の話も聞いて盛り上がった。そして久しぶりに終電で帰った。
ケータイの留守電にちょっと拗ねたような稲葉さんからの伝言が入っていたけど、契約貰ったんだから許して貰おう。
丁寧に化粧を落としてお風呂に入る。
外は春の強い風が吹いているらしい。だけどあたしは温かいお風呂に浸かり、守られていた。結界の中でぬくぬくと揺られていた。
あたしはこの時知らなかった。
大切なお客様が、その強い風の夜に、永眠されたってことを。
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