2、キャパシティー、ゼロ。@
めちゃめちゃ近い所に、稲葉さんの伏せられた長い睫毛。あたしの唇に感じる柔らかくて温かい感触。押し付けていたそれを、彼はゆっくりと動かして開ける。そして熱い舌であたしの唇を舐める。
「っ・・・し、ぶ・・・」
あたしが声を出す為に開けた唇の間に、すぐに舌が突っ込まれる。言葉は消えて空気に溶けた。
今や大きな両手であたしを固定して、彼は隅々まであたしを味わっている。体温はどんどん上昇する。その煽るようなキスにあたしの心身は急激にとろけて反応しはじめた。
・・・稲葉さんが・・・あたしにキス、してる・・・。
立ったまま抱きしめていたのをキスを止めずに誘導し、ゆっくりと布団に押し倒す。
体の上に男性の体重がのって身動きを封じられ、それが益々あたしの脳みそを停止させた。
「・・・ふっ・・・」
「―――――言えよ」
下唇を噛まれた。唾液がまざって顎を伝う。
「どこへ逃げるつもりだ?」
音を立てて、稲葉さんはあたしの唇を強く吸った。
「俺から――――――」
両手であたしの顔を固定して、ゆっくりと唇を離した。至近距離で見詰められて、あたしの瞳は霞む。
「――――――――逃げられると思ってる?」
低くそう言って、彼は微笑む。
また唇が重ねられた。
あたしは言葉も生み出せず、ただ流されるだけ。こんな頭が痺れる甘くて熱いキスにどうやったら抵抗出来るだろうか。
・・・何が、どうなってるんだろう・・・。
何であたしは稲葉さんにキスされてるんだろう。
柔らかくて気持ちいい。噛んで、舐めて、舌で刺激する。
あたしがぼーっとなって展開に流されていると、稲葉さんは他の場所にも唇を押し当て始めた。
頬、首筋、鎖骨、ビクンと体が跳ねて反射的に押し返そうとするあたしの両手を、頭の上で簡単にまとめて掴み、胸元で彼が呟いた。
「・・・浴衣に下着はご法度だぞ」
「は・・・はいっ!?」
片手であたしの両手首を掴み、もう片方の手で浴衣の襟元をぐいと開けた。
「――――――あ。オレンジ小花柄のレース」
――――あ、って。あ、ってえええええ〜!!羞恥心からあたしは一気に理性が戻る。
去年のクリスマスに買ったばかりのこの下着セットを稲葉支部長にみられてしまった時のことが鮮やかに蘇った。
うわああ〜ん!体をよじって稲葉さんのキスから逃れる。その拍子に浴衣は更に崩れ、上半身はほとんど剥き出しになってしまった。
確かめるように胸を揉んでいた手が背中に回ってブラのホックに掛かる。あたしは焦って、体重をかけてその手を阻止し、誘惑に負けそうになる意識を引っ張り上げて叫ぶ。
「ちょちょちょっと、待って・・・支部長!」
「嫌」
あたしの胸元に顔を埋めそこら中にキスをしながら彼は言う。さらさらの髪が首筋をこすり、敏感になった肌を刺激した。
「嫌って・・・ひゃっ・・・あのっあのっ!一体何で・・・」
あたしが何としても抵抗するつもりだと判ったらしく、目元を緩めて稲葉さんは顔を上げる。そして捕まえていたあたしの両手を離し、有り得ないと呟いた。
「・・・は?」
「まさか、まだ判らないとか言うつもりか?・・・傷付くなあ、それ」
自由になった両手で浴衣を胸元まで引き上げながら、あたしは真っ赤な顔で彼を見上げる。
「・・・へ?」
「好きな部下を抱こうとしてるんだ」
「・・・」
「俺、惚れてもない女性に簡単に手を出す男だと思われてたのか、もしかして?」
「・・・いや、そういう訳では・・・って、ええ!?」
何て言った!?あたしは思わず両手で頬を隠す。さらりと言われて、余りにも普通のことみたいに言われたから耳にも引っ掛からなかった。
稲葉さんは淡々と説明をしたのだった。
好きな部下を抱く・・・?
抱かれかけてる部下は、あたし。
―――――――好きなのは、あたし!?
全身が発火したかと思った。
やれやれとため息をついて、稲葉さんはゆっくりとあたしの上から体を退けた。
「・・・鈍い。信じられない」
若干凹んでるようだった。
「いいいいいや、だって、そんな――――――」
あんた、中央の稲葉だろ?!あたしが好きとか、その方があり得ないだろう!!10人いたら10人が、え!?って聞き返すぜ、そんなこと言ったら。
布団の上に並んで座って、片足を上げたその膝の上にのっけた手で顔をこすって、稲葉さんは大きく息を吐き出す。
「・・・浴衣、ちゃんと着直してくれる?微妙な崩れ方がやばい。我慢出来そうにないから」
「あ?は、はい!」
慌ててしっかりと襟元を直し、帯をきつく締める。
下ろしている前髪の間からちらりと見て、嫌そうな声で言った。
「―――――――よく考えたら、ここで抱くわけにはいかねえよな。いくら一人部屋でもな。持ってないしな」
最後の言葉でまた眩暈に襲われた。・・・稲葉さん、あたしを抱こうって本気で考えてたんだあああ〜・・・あたしの世界は回りだす。
「・・・し、支部長・・・」
「こういう時に役職名やめてくれ」
「・・・稲葉、さん」
うん?と綺麗に笑って首をかしげ、あたしを見る。だけどピンクの世界で一人絶賛混乱中のあたしは何を言っていいのかが判らない。
俯いて黙っていたら、のんびりとした声が聞こえた。
「研修時代から、お前はお気に入りだった。必死ぶりがツボだったというか。・・・だけど彼氏がいるのを知っていたし、研修中の女性営業に言い寄るわけにもいかないだろ」
ひょえええ〜!!あたしは頭の中で絶叫した。・・・嘘でしょ!?毎日毎日あんなにスパルタやっといて、例えばいきなり告白されたとしても素直に受け取れるわけないじゃないのよ!!
地獄の研修時代を思い出しかけて、慌てて記憶を押さえ込む。ダメダメダメ!今あたしは人生で最大くらいの山場にいるのに、地獄を思い出してどうする。
稲葉さんはじっくりとあたしを見てから苦笑した。
「信じられないって顔してるな〜」
「・・・信じられません」
また大きなため息をついて、わしわしと髪の毛をかき混ぜている。
「何でだ?結構露骨なこともしてきたはずなんだけど?お前に惚れててやってるんじゃなかったら、ただのセクハラ親父だろ」
―――――――だから、上司のセクハラだと思ってました。って言ったら、また傷付くんだろうなあ・・・。序序に混乱が収まりだし、あたしは考える。
稲葉さんがあたしに好意を示していたらしい痕跡を。
・・・アレとか、アレ・・・。おおお!これもか!でもだって、その時はまったくそんな風に思えなかったんですけど!?なんて、一人でぐだぐだしていた。
あたしがアレコレ考えてる横で、稲葉さんはあーあ、と呟いた。
「・・・何で旅行中なんだ。せっかく押し倒せる状況になったのに・・・」
――――――露骨だ。露骨ですよ、それも。さすが何事にも真っ直ぐな稲葉さん・・・。クラクラと回る頭を押さえて、あたしは小さな声を出す。
「・・・いえ、えーっと、ですね、支部長」
「役職名はやめろ」
「―――――――はい。えー・・稲葉さん、まだあたしの気持ちは確認してらっしゃいませんが・・・」
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