1、散々な朝。
目覚まし時計の12分前に目が覚める。
それがいつもの癖だ。実家の自分の部屋にいても、出先のホテルでも、友達の部屋でも。
そしてここ、5年間付き合ってきた彼氏、石原光の部屋でも。
あたしは枕元に転がした携帯電話のアラームを、鳴る前に切った。
そしてゆるゆると体を起こす。
家主不在のベッドの上でううーんと体を起こして、首をふって肩を鳴らした。
「・・・寝た気がしないわ・・・」
しゃがれた声で呟く。
だって、眠りについたのは昨日・・・いや、今朝の3時の話で、今は7時。それもこの部屋の家主である光の帰りを待って、机に頭をつけて眠ってしまい、途中でこれではいかんとベッドに潜り込んだから、体を伸ばして寝たのは実質2時間くらいだ。
しかも。
しかもしかも。
あたしはその午前3時に、彼氏である光に振られたばかりなのだ。
一体いつ帰ってくるのよ!と怒りの電話をかけて、残業中でいらついたヤツの冷たい声が受話器から聞こえた時も、眠すぎてまともな反応は出来なかったくらいだ。
『なあ、俺たちもう無理だと思わないか?』
「あん?」
机の上に肘をつき、その手の平に顎をのせた状態であたしは眉間に皺を寄せた。
そしてすぐにその皺を指で伸ばす。
ダメダメ、28歳は十分にお肌の曲がり角を越えている。ただでさえ固い肌に皺が刻まれてしまったら目もあてられないぞ、あたし。
指の腹で皺伸ばしをしているあたしの耳に暗い光の声が響いた。
『喧嘩ばっかりだし、もう俺疲れたわ、ほんと』
喧嘩の相手があたしであるなら疲れるのはお前だけじゃねえだろ!と思ったあたしはむかついた。
で、眉間に皺を寄せないようにだけ気をつかって、イライラと言ったのだ。
「要点を言って」
大体、能率も効率も悪い男なのだ。だから午前様になるような残業をする羽目になるんだよ!何がいいたいのかちっともわからない。
カッカしながらあたしがぴしゃりと言うと、更に機嫌を損ねた声で、光が唸った。
『別れようって言ってんだよ。今までお前に付き合ってこれた自分を褒めてやりたいよ、俺は。でもよく考えたら疲れる女と我慢して一緒にいることはねえんだよなって、気づいたんだ』
眠気でぼーっとしていたけど、売り言葉に買い言葉の口喧嘩ばかりしていたので反射的に言葉が出た。
「それはおめでとう。気付くのに5年もかかるなんて、やっぱりあんた馬鹿だったのね」
『・・・やな女だな。泣くくらいのことは出来ないわけ?お前、俺に振られたんだぞ、今』
あたしはここでやっと目が覚めてきたんだった。そして、まだ一応彼氏である光のうんざりした声を聞いて、更にうんざりした。
一体何でこんな話になってるの?
久しぶりに、実に久しぶりに会う約束をしてやってきた彼氏の部屋にあたしは一人でいて、いつ帰るのと聞くためにした電話で別れ話なんて。
ま、とにかく今はその不思議は置いておいて。聞き逃せない言われように却下を伝えなければ。
「ちょっと待って、それは我慢出来ないわ。あたしがあんたを振るの。もっといい男を探す自由を自分から求めたのよ」
『はあ!?』
あたしは光の部屋を見回した。
今日、いや、昨日、ここにきてから片付けた部屋。5年もつきあっていただけあって、光の片付けの方法は知っている。そして残業するヤツのために作って、そのまま冷めていったラップをかけた晩ご飯。
「・・・5年も、こんなことしてたのね。あたしも馬鹿だったんだわ・・・」
あたしの呟きに電話の向こうが黙った。
そしてため息をついて、光が言った。
『とにかく、また今度話そう。俺は今日は部屋には戻れないから』
あたしはあんたに会うために仕事を片付けて来たんだけどね。暗い部屋の天井を見上げて思った。
せめて始発で帰ってこの真面目な話を終わらせようとすら思わない男に、泣いて縋るわけがない。
長い間付き合った女の為に、最後だというのにそんな小さな努力も出来ないのかと、がっかりと目を閉じる。
「・・・次はないわ。光、これで終わりね。なんとも残念な終わり方だけど、仕方ない。お仕事頑張って、じゃあ・・・」
ぐっと口をつぐんでから、普通の声で言った。
「サヨナラ」
ああ。という言葉だけを聞いた。ちょっと待て、も、え?冗談なのに、もなかった。
ただ、ああ、だった。
そして電話を切って、あたしはそのまま机に突っ伏して最初の3分くらいはショックを受けていて、その後は速やかに眠ってしまい、5時頃また目が覚めてからベッドに潜り込んだのだ。
今、燦々と光りが差し込む元彼の部屋で、あたしは片手で頭を叩く。
「・・・あーあ・・・」
まだ、寂しくはない。本当のところ、頭がわかってないのかもしれない。あたしは5年来の彼氏を失ったのだ。
それが例え、口も悪く、優しくなく、ほとんど会えなかった男ではあるにしても。そうそう、顔だってそんな上等じゃないし、中堅企業に勤める公私ともにパッとしない男でもあったけど。
だけれども、2年の遠距離も含めて5年も、あたしの20代の半分を一緒に過ごしてきた男と別れたというのに、こんな何の痛みもなくて大丈夫だろうか。
ショックすぎてマヒしてる?と、思ったら、お腹が盛大に鳴って朝食を要求した。・・・ショック、感じてない模様だわ。
・・・何てことだ。あたしったら・・・。泣くことも出来ないなんて。いやいや、と頭を振る。
悲しむって、ゆーか・・・・つーか。むしろ、これは――――――――
「・・・むかついたあああああ〜!!」
ガバっとベッドから立ち上がる。ヤツの枕に罪はないが、しばらくサンドバックになってもらった。
何だ何だ!?あのバカ男!冷血漢!緑の血!自分勝手!お前なんて名前の通りに光り輝く頭になりやがれ!ヘアワックスって何だっけ?レベルの悲しい頭になっちまえー!!!
ぼすぼすと枕に拳を突っ込む。あたしは今や元彼となった人の部屋で一人で暴れて、素晴らしい10月の朝を台無しにしていた。
神野玉緒28歳。大学卒業後、大手の保険会社に新卒として入社し、今年で6年目の生命保険の営業をしている。
名刺には主任と文字が入るけど、それはほとんど意味のない肩書きだから自己紹介では言わない。
去年、親の介護や姉の出産その他の理由で実家がバタバタした時に、少しでも手伝えるようにと入社以来所属していた都会の大きな支社の職域担当営業チームから、地元であるこの土地の小さな支部に一般営業職員として転属させてもらった。
スーツを着て、色んな会社に出向いてそこで働く人達相手に保険の営業をするのから、普通の格好で一般家庭に出向いて保険の営業をする、所謂「保険のおばさん」と同じ仕事内容になったわけだけど、郊外のこの小さな支部はまるで一つの自治会のような温かい雰囲気があり、下は24歳から上は75歳の現役までいて、元々下町っこのあたしには居心地がよく、すぐに溶け込んだ。
介護が必要になった父親はその後病気と関係なく交通事故で他界してしまったし、姉は出産も育児も落ち着いてダンナの元へ帰った。
あたしは元の支社に戻れることも出来たのだが、お世話になってきた課長からその打診があったときに断ったのだ。ここで、頑張ります、と。
一人になってしまった母親を置いておけなかったのもあるけど、下は24歳から上は75歳までの女性ばかりで構成された22名の小さな事務所が、居心地が良かったのが大きい。
雨が降ったら「洗濯物いれてくるわ〜」と家に帰ってしまう皆が、誰かが大きな契約を取れたらおかずを持ち寄って支部で飲み会を始める皆が、夕方4時をすぎるとそれぞれの家の子供が学校から事務所に帰ってきて、子供たちのランドセルと笑い声でいっぱいになるこの小さな事務所が、あたしは好きだった。
はじめは驚愕したそれらの日常が、今ではあたしの中でも当たり前になっている。
ここは会社でしょ!?ってか就業時間中に洗濯物取入れに行ったりとか、授業参観に行ってるけど!?とかの驚きは、移動してきて1ヶ月で慣れた。
これだからこそ、主婦だった人達が働けるわけだもんなあ、ある意味とっても優しい職種なんだなあ、と納得したのもある。
そんな中で独身28歳のあたしは、夜だろうが土日祝日だろうが動ける利点を生かしてチームリーダーなんか任されてしまっている。
故に、いつでも仕事をしていて、同じく不況による人員削減の煽りを受けて休日出勤の増えていた彼氏とはほとんど会えない1年だったのだ。
だけど、そろそろ結婚も考えていたのに。
5年付き合って、28歳で、ドキドキはない変わりに何でも判った間柄だったから、結婚する相手なんだろうと思っていた。
それはあたしだけかもしれなかったけど、でも。
「なのに、こんな終わり方かあ〜・・・」
枕をいたぶるのをやめて、あたしはぼんやりと呟いた。
ちらりとテーブルに目をやる。
ヤツのために昨日作った晩ご飯は、そのままにして帰ってやろう。あたしだって文句ばっか言ってたわけじゃないって最後だけでも見せ付けたい。
よっこらしょ、と掛け声つきで立ち上がって、あたしは勝手知ったる他人の家で、出勤準備を始める。
男に振られたって寝不足だって頭痛がしたって、仕事の日は出勤する。それが社会人の宿命だ。
光の部屋を出て、鍵はいつものようにメーターボックスに隠す。
あたしは少しだけそこで立ち止まり、長年見てきたこのドアを見詰めた。このドアを開けた光が、笑顔だったのはいつの事だろう・・・。にっこり笑って、待ってた、って言ってくれたのは。その言い方に喜んでいるのを感じられたのは。
・・・かなり遠い記憶だったと思う。
じっと見詰めていて、ゆっくりと深呼吸をした。そして背をむけて、歩き出した。
サヨナラ、光。
サヨナラ、あたしの5年間。
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