A
「ようやく口をきいたな。スピード出すのと余所見するのとどっちがいいか迷ったんだけど、案外折れるの早かったな」
――――――――試したんかいっ!!!
あたしは唖然として口が開きっ放しになる。何だこの男!?あぶねーだろうがよ!どっちもよ!
「ややややや止めてくださいよ〜・・・怖いことするの〜・・・」
あたしは半分泣きべそをかいていた。
稲葉さんはちらりとミラーで確認して、いきなりハンドルを左に切る。
「うひゃあ!?」
車は結構なスピードで、国道沿いのショッピングセンターに入っていく。
「へ?あの・・・支部長?」
あたしは助手席でおろおろする。家庭用品やらDIY用品やらが売っているショッピングセンターだ。勿論あたしは用はない。
一人でパニくってる間に車は屋上の駐車場まで上がり、他の車とやたらと距離を置いて停まる。
眺めのいい屋上の駐車場で、あたしは車の中に今一番避けたい人と二人。
たら〜っと冷や汗がこめかみを伝った。
エンジンを切って静かになった車内で、稲葉さんは小さく息を吐いてハンドルにもたれかかった。
さらさらの前髪が垂れて彼の目にかかる。揺れる髪の間から整った綺麗な二重がこっちを見ていた。
・・・・美形だ。
久しぶりに見た稲葉さんの瞳に、あたしは簡単に見惚れた。視線を外すことが出来なくて、そのままでしばらく見詰め合う。
「――――――説明しろ」
低い声が聞こえてハッとした。
「はい?」
あたしは忙しなく瞬きをして、やっと稲葉さんから目を外す。
いつもの明るい声じゃなかった。その低い声はあたしの頭の中でわんわんと響いて余韻を残す。
「・・・何で俺を避けてるのか、説明しろ」
くらりとする。あああ・・・あたし、今すぐ呼吸を止めてみたい。なぜ、何ゆえにこんな修行を・・・。
「・・・ええと。別に、避けてません」
膝の上で握り締めた両手に意識を集中する。違うことを考えて緊張を解こう!ええと・・・ハンドクリーム、塗るの忘れてた。こんな手じゃ、すぐに書類で指を切っちゃう――――――――
「避けてんだろ。最近ちっとも神野の顔を見ない。会話もしてない。部下と対話も出来ないで、どうやって支部をまとめろって言うんだ?」
稲葉さんの声は相変わらず低いけど、不機嫌そうでもない。淡々と事実だけを聞いているって感じだった。それが、あたしを傷つける。
「・・・すみません、忙しくて」
ため息が聞こえた。稲葉さんはハンドルに両手を置いてうつ伏せになった。
「確かに神野の成績は上がってる。内容も一度確認したけどいいものだった。朝から夕方まできっちり働いて、夜も早く帰るようになった、それは素晴らしい。だが――――――」
稲葉さんが言葉を切る。あたしは両手を見詰めたまま体を硬くした。
「―――――俺を避けてるのは、それと関係ない。むしろ俺を避けようとして、活動の時間帯を変えてるんじゃないのか?」
・・・マジで?
あたしはまた眩暈に襲われる。
・・・何で判っちゃったんだろう・・・。くそう、これだから無駄に頭のいい男になんて関わるべきじゃないんだ。
「・・・気のせいです。夜を早くしたのは、友達との付き合いもあるから――――――・・・」
稲葉さんが体を起こした。
「友達と?飲みに行ってたのか?」
「・・・はい。少なくとも、昨日はそうでした」
「へえ、飲みに、ね」
何だよ、嘘じゃないもん。稲葉さんの言い方にカチンときたあたしは、むっとした顔でヤツを睨んだ。
「男友達と久しぶりに。幼馴染で―――――」
「今週の目標アポは何件だった?」
いきなり遮られて、あたしは一瞬混乱する。・・・何?今週の目標アポ?
「・・・へ?・・さ、3件ですか?」
稲葉さんは口元を持ち上げてにやりと笑う。
「8件に訂正」
は!?あたしは目を見開いた。
「8件!?今週だけでですか?」
だってもう今週は終わるじゃないかよ!どうして倍以上に増えるのよ、いきなり!?
稲葉さんはにやりとしたままの顔で、あっさり言い放った。
「そう、寸暇を惜しんで働いてくれ。うちの稼ぎ頭‘玉’に、男と飲みに行くプライベートな時間は必要ない」
こいつ鬼かっ!!心の中で叫んで、いやいや、こいつは昔から鬼だった、と自分で突っ込んだ。
「・・・いやあ、あの・・・友達、失くします・・・そんな・・・」
しどろもどろに言葉を返すあたしを見て、稲葉さんは嬉しそうに微笑んだ。
中央の稲葉と呼ばれた、あの究極の甘え顔で、あたしを覗き込む。
ぐぐっと運転席から身を乗り出した。
ひょえええええ〜(泣)・・・や、やめてえええ〜・・・。そんなそんな可愛い顔で、やったら優しさを醸し出した顔で鬼のような発言するくせに、そんなそんな・・・覗き込むのやめてくれええええ〜・・・。
あたしは助手席で身を引こうと努力する。だけどシートベルトを外してなくて、それ以上は身を引けなかった。
「あ・・・あの、稲葉支部長?」
「何」
「ち――――――近い、ん、ですけど」
うん?と彼は目を瞬く。笑顔は引っ込めたけど、相変わらず体は近づきつつあった。
「こんなの全然近くない」
はい?と思うのと同じタイミングで、彼は両手をダッシュボードにおいて体を固定し、更に顔を近づけた。
吐息があたしの頬をかすめる。あたしは目を見開いたままで硬直している。睫毛が触れるかと思う距離で、彼がフ、と笑った。
「・・・近いってのは、このくらいかな」
鼓動があたしの体の中でガンガン鳴り響いていた。極限状態のあたしはこの現実に対応出来ない。
ああ、神様。どうしてあたしはこんな目に?
もう、もう、稲葉さんの美しい形の唇はあと3センチほどの場所にある。ちょっと動けばアクシデントでぶつかれる距離だ。
つい想像してしまって、興奮で気が遠のきそうなあたしだった。
超接近した状態で、稲葉さんはじいっとあたしを見ている。
「なんで避けてんだ?」
「きっ・・・気のせいです〜!」
あたしは必死で言葉を搾り出す。すると稲葉さんは、まだ言うか、と小さく呟いた。
「・・・お前、結構強情だよな」
「研修時代の教官が良かったもので!どいてください〜!!」
くくくく、と口の中で小さく笑って、稲葉さんはやっと体を運転席に戻した。あたしは真っ赤になったまま、呼吸が整わずに勝手に酸欠状態だった。
「なっ・・・なんてことを〜!」
「上司を露骨に避けた罰だ」
「じょ、じょ、上司がこんなことしていいんですか〜!!」
「職権乱用は俺の専売特許だ。何をそんなに動揺してるんだ、お前今フリーじゃなかったっけ?」
・・・だから動揺するんだろうがよ!!あたしは何とか絶叫を堪える。
荒く息をつくのが恥かしいので、ゆっくりと深呼吸した。ぐったりと助手席に沈み込む。
「・・・部下で遊ぶの止めて下さい。身が持ちません」
「なら俺に逆らうなよ。学習しろ、遊ばれたくなかったら」
「逆らったことなどないです!」
「従順に聞いたこともねえけどな」
「指示されたノルマは完達してます!」
「ノルマじゃない、あれは目標だ。とにかく―――――――」
いきなり伸びてきた右手が、するりとあたしの後頭部に回る。左手で顎をつかまれて、視線を固定させられた。
展開に驚いているあたしにまた顔を近づけてじっと見詰め、真面目な顔の稲葉さんは言った。
「朝礼夕礼は顔を上げろ。話をするときは目を見ろ。呼んだら来い。避けるな、俯くな、会話から逃げるな。返事は、はい、だ」
稲葉さんの、少し明るい茶色の瞳にあたしがうつっている。
触れられた右頬から顎にかけて、肌が熱を持ち始める。
「・・・はい」
あたしの返事を聞いて、稲葉さんはゆっくりとあたしを離す。垂れ目を優しく和らげて綺麗な笑顔を見せた。
「判ればいい。――――――さて、アポの場所を教えてくれ。そろそろ行った方がいいだろ?」
あたしはフラフラと約束相手の会社の住所を書いた紙を支部長に手渡す。稲葉さんはそれを見て頷き、ベルトをつけて車を発車させる。
ぼーっとしていた。近づいては離れていくのを何回かされたせいで、あたしの脳みそは開店休業状態だった。
・・・近かった・・・。
すんごーい、素敵だった・・・。
車に揺られる。あたしは呆然としたまま頭の中をエンドレスに流れる屋上の車の中での出来事に翻弄されていた。
お陰で、クロージングはめちゃくちゃだった。
妄想に邪魔をされて言葉がうまく繋がらず、客を混乱させてしまった。挙句の果てには客に心配までされてしまったのだ。
「神野さん、今日はどうかしたの?」
あたしは40代の男性社員の前で、頭を垂れる。
「鈴木さん、申し訳ありません・・・。今日の説明、まったくなってませんね」
出直してきます、とアポを取り直して、謝った。客の男性は苦笑して、神野さんでもそんな放心状態あるんだねえ、と言っていた。
反省せねば。個人的混乱状態を仕事に持ち込んでしまった。
だけど、これ以上のヤツのお仕置きは恐ろしいので、あたしは態度だけは普通に戻した。
惚れてなければ若干嬉しいあのセクハラお仕置きは、惚れててそれを言えない人間には地獄以外の何者でもない。
対話もするようになった。心の中でお経を唱えて目もちゃんとあわせるようにした。副支部長や皆は玉ちゃんと支部長の強張りが消えた〜と喜んでいたけど、大久保さんだけは、可哀想に、とため息をついていた。
そんなこんなで無事ではないが、満身創痍にもならずに2月戦は終了。
我が支部からは旅行入賞が2名で、記念月を終えた。
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