2、屋上の車の中。@
何と、あたしはちゃんと実行した。
つまり、猛烈に仕事に打ち込んだのだ。
新しく開拓した会社にも通ったし、他に二つほどペア活動で飛び込みもした。今まで主に夜に活動していたので、午前中はほとんど営業活動をしていなかったのを、行動時間を変えることでまるで主婦であるかのような時間帯に働いた。
うちの支部は主婦ばかりだ。
だから皆の活動を真似すれば、その時間帯はすぐに判った。
9時から5時で懸命に活動し、皆が帰ってしまう6時半までで翌日やその週のアポの整理をしたり事務活動をしたりした。
書類の作成、事務員への確認、上司との対話。その全部を6時半までに終わらせた。
上司の対話は出来るだけ副支部長にしてもらったし、朝礼や夕礼でも手元の資料を熟読することで稲葉さんとは目があわないようにした。
それは実にうまくいったのだ。
副産物として、早寝早起きが身に付き、家で母親と晩ご飯が食べられるようになり、友達と飲みに行く時間も出来た。体の調子もよくなり、生理がマトモに来て、ご飯の時間がバラバラではなくなったので、暴食や間食が減って体つきもスマートになった。
あたしは鏡を覗き込んで、サイズが一つ落ちた新しいスーツを着てくるりと回る。肌も疲れておらず、化粧のりもよかった。
もっと早くこのサイクルで営業をしていれば、光とのすれ違いもなかったはずだよね、と若干反省もした。
素敵、9時から5時って!
乙女としては枯渇しつつあるが(目を合わせないし会話をしないのでドキドキが全くないのだ)、仕事人としてはバッチリ一人前だ。
アポ数は飛躍的に増え、今までみたいに時間的余裕がないのでダラダラと営業しなくなったのが大きいのかも。
大作戦、を実行しだしてから2週間で、あたしが頂いた契約は4件。ちゃんと記念月の成果としては堂々と胸をはれる、合計7件の契約数と契約高になっていた。
「素晴らしいわ、玉ちゃん」
副支部長がにこにこと笑う。
無事に審査が通って、一番危なかった契約が成立したと教えてくれた時だ。
あたしも笑顔で言葉を返す。
「大量の良い副産物まで生まれました。あたし、もっと早くこうするべきでしたね」
指を折って副支部長にその副産物を教える。彼女は大きな微笑で、嬉しそうに頷いた。
「逃げる為の作戦だったけど、玉ちゃんの為にも支部の為にも成功して良かった。お陰でこの記念月のご褒美の旅行、いけるわよ、玉ちゃん」
保険会社だけでなく、大体どこの金融会社でもご褒美がある。
つまり、いついつまでにここまで出来たら旅行をプレゼントするよん、とか、そんなんだ。
にんじんを馬の顔の前にぶら下げて走らせるようなもので、それを嫌がる営業もいるにはいるが、そういう人には上司達は決まってこう言うのだ。
『出来てから、文句垂れろ』
褒美は拒否出来るのだ。貰える資格を手にしてから断るなら格好もいいが、やれもしないくせにプライドだけをさらすな、ってこと。
あたしはそれはそうだと思う。
そして、ご褒美は有難く受け取る主義だ。
この記念月の優積者だけを集めて支社長やらお偉いさん方と温泉旅行が計画されていた。
今のところ、うちの支部からこれに参加出来るのはあたしとベテランの夕波さんだけ。
営業職員の参加人数で上司も参加出来るかどうかが変わる。また二人しか出来てないうちの支部の上司2名は残念ながら不参加だ。
あたしは前の営業部の同期も参加が確定してるので、楽しみにしていた。稲葉さんもいないことだし、温泉でゆっくり体を休めたい。
副支部長と笑っていたら、後ろから明るい声が飛んで、あたし達は固まった。
「神野は旅行決定だな。おめでとう」
・・・稲葉支部長、いつの間にお帰りに??
支部長席と副支部長席は並んでいるので、上司との対話は稲葉さんが不在の時を狙って副支部長にお願いしていたのだ。
あらら・・・帰ってきてしまったのね〜・・・。
副支部長を見詰めて小さく深呼吸する。彼女はあたしを見ないようにして、支部長に笑顔を向けた。
「――――――お帰りなさい、稲葉支部長。早かったですね」
稲葉さんが椅子に座るあたしの後ろに立ったのが判った。香りがふわりとあたしを包み、あたしは思わず両目を瞑る。
落ち着け落ち着け、大丈夫大丈夫。
ここ2週間とちょっと完璧に稲葉さんから逃げていて、まともに話したことは2行くらいだ。それも、ほとんど挨拶。
やっと鼓動も落ち着いてきたところだった。
逃げるのに、慣れてきたところだった。
・・・うわーん、やばい。逃げなきゃ。
あたしは引きつった笑顔で副支部長を見て、立ち上がった。
「では、あたしは仕事に戻ります」
「あ、はい。お疲れ様」
宮田副支部長の声は背中で聞いて、あたしは既に歩き出していた。だけど、2歩ほど進んだところで、また明るい声が追いかけてきた。
「――――――神野。次は俺と対話だろ」
ぴたりと足が止まる。
冷や汗が背中を伝ったのが判った。
振り返りもせずに、あたしは呟く。
「―――――ええとー・・・・。すみません、支部長。あたし、これからアポが――――――・・・」
「アポ?何時から、誰の、Sはいくらの?」
ぐっと詰まった。きっとヤツのことだから、あたしが出した計画表は熟読済みなのだろう。バレる嘘はつけない。
そろそろと口を開く。まだ振り返らない。
「・・・S2100万、鈴木様です。6時半からですが、もう出ます。電車で行きますので・・・」
稲葉さんが小さく笑った声を背中で聞いた。
「6時半からの?えらく早く行くんだな。よし、俺が送ってってやる」
え。
あたしは下を向いたままで更に引きつる。
慌てた声で副支部長が音を立てて立ち上がった。
「あのっ!わ、私が送りますので、支部長!お忙しいでしょうし――――――」
固まったままであたしが聞いていると、稲葉さんは副支部長の声を穏やかに遮った。
「宮田さんは同行があっただろう?いいよ、俺が行く。そうすれば移動中に対話も済ませられるしな」
いきなり空気が張り詰めた上司席の周りを、他の皆が怪訝な顔で見ているのが判った。
稲葉さんの声が響いた。
「神野、行こうか。車で待ってるぞ」
あたしは震えないように手を握り締めながら、何とか言葉を搾り出した。
「・・・はい」
ドアに向かって行きながら、いつも通りに愛嬌たっぷりの笑顔を振りまいて、稲葉さんは職員に告げる。
「皆さんあと4日ですよ、頑張って下さい。そして一緒に旅行に行きましょう」
皆がはーい、と手をあげて返事をする中、あたしはゆっくりと副支部長を振り返った。
宮田副支部長は困った微笑を作って、肩をすくめて見せた。
「――――――健闘を祈るわ、玉ちゃん」
あたしは何とかへらっと笑った。
のろのろとコートを羽織る。去年のクリスマスに買ったバスローブ型のコートで、気分を上げて仕事をするはずが、どうしてこんなことに・・・。
支部長への恋愛話をした二人目の大久保さんが、同情的な顔であたしを見ていた。
「・・・仕方ないわよ、スルーがあからさまだったもの。玉ちゃんが全然支部長と喋らなくなったのはやっぱり目立つし。覚悟決めてらっしゃい」
あたしは深いため息をついて、立ち上がった。
「お待たせしました」
小さな声で言って、支部の前の道に路駐している稲葉さんの車の助手席に乗り込んだ。
ここに乗るのはあの日以来。つまり、自分の気持ちに気付いた日以来で、ついでに言えば、あれから稲葉さんの顔を真正面から見たことはないのだ。
あたしは緊張で固くなっていた。
「―――――出すぞ」
ああ、も、遅い、もなく、支部長はそれだけを言って車を発車させる。
あたしは急いでシートベルトを締めた。
駅前をゆっくりと車は走る。あたしは全力で窓の外を注視していた。
隣からゆっくりと稲葉さんが話し出した。
「・・・さて、やっと捕まえたぞ」
「・・・」
「神野」
「・・・・はい」
相変わらず窓の外を向いたままであたしは返事をする。
すると、すぐに言葉は続かずに、隣も沈黙した。
―――――――――うん?一体、何?
ドキドキと心臓が鳴り出した。車の中は沈黙が支配している。あたしは自分の鼓動の音が聞こえるんじゃないかと更に緊張した。
うわあ〜・・・怖い。どうしたらいいんだろう。稲葉さん、何考えてるんだろう。ってか、あたし行き先言ってないし。どこに向かってるんだろう、この車・・・。
ごくりと唾を飲み込んで、そろそろと隣を振り返った。
―――――――ら。
何と稲葉さんはあたしをじいーっと見ていた。
ぎゃあ(泣)
「あっ・・・あの、支部長?」
「うん?」
「前、前見てください!!運転中ですよね、今!?」
今度は恐怖で緊張したあたしが慌てて前を指差す。稲葉さんはたまにちらりと前方を確認するけど、相変わらずあたしをじいっと見ている。
「支部長ってば!!」
一般道だよここは!通行人もいれば信号もあるし、車だって周囲にわんさかいる。やーめーてーよおおおおお〜!!
口元に笑みを浮かべてやっと稲葉さんはちゃんと運転席に座りハンドルを握って前を見た。
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