1、一石二鳥大作戦。
支部長が家まで送ってくれると言うのを、支部に忘れ物があるので、と何とか理由をこしらえて支部で下ろして貰った。
「待ってるから取ってこいよ」
車の窓を開けて稲葉さんが言うのに、あたしは目もあわせずにいえいえ、と手を振る。
「ついでに、さっき梅沢さんにオッケー頂いたので設計書も作ってみたいんです。忘れない内に。まだ副支部長いらっしゃるはずなので」
明りがついている事務所の窓を見上げて、稲葉さんは頷いた。
「・・・頑張るのは素晴らしいけど、余り遅くならないように」
「はい。今日はありがとうございました!お疲れ様でした!」
あたしは言うだけ言って、即行できびすを返す。多分、後ろで稲葉さんは面食らってるはずだ。何だ、あいつ?とか首を捻ってるかも。
だけどだけど、もう顔を見れない。少なくとも今晩は無理だ。あの瞳を見てしまったら、それだけでまた顔面炎上だろう。
そんな些細なことで気持ちがバレたら目も当てられない。
あたしは息を白く吐き出しながら、職員の出入り口を開ける。
・・・あああ〜・・・あたし、こんなの本当に久しぶり。
光との恋愛は、成り行きのように始まったんだった。急激に盛り上げることもなかったし、急激に冷めることもなかった。だから別れたときもあんな感じだったのだ。まあ後でちゃんと話し合えたのは良かったけど。
「・・・いきなり乙女に・・・やばいぜあたし!」
もう息が切れ切れだ!
こんなドキドキして、体温が上がって、声も失うなんて10代の時以来だよ〜。どう処理したらいいの〜!?
穏やかな恋愛を長いことしていて、新しい恋の始まりにおろおろするあたし。
だって仕方ないよね?だって、相手はよりによって鬼支部長なのだ。
イケメンの、甘え顔の、昔で言う3高の、しかも中身が強烈に厳しい上司。仕事への情熱故、ヤツは社内恋愛を認めない。ばっさりばっさり切り離す。
・・・だから32歳になるまで独身なんだよ!さっさと結婚してくれてたら良かったのに!
既婚者なら好きにならないのかと聞かれたらそんな自信もないんだけど、まだブレーキが掛かるはずだ。不倫はいけない、不倫は。
「ちっくしょう・・・」
悪態が漏れる。ぼんやりと光る自動販売機を殴りたくなった。
鬼教官時代だって、付き合うとすれば事務の子だった。それか、お客さんか。だけどやっぱり仕事を優先したらしい稲葉さんは、疲れたとかほざいてどちらの恋愛も短期間で終わらせたはず。
この支部で支部長に惚れた一人目である繭ちゃんも瞬殺したわけで、なのにあたしはどうしちゃったんだ〜!
今まで、少しずつ好きになってきたんだろう。
ちょっとずつ惚れていったんだろう。
だけど自分でブレーキをかけて、気付かないようにしてたんだろう。
素晴らしいぞ、あたしの本能!
だけど・・・・
その自己防御も今や崩壊。ザッバーンと恋愛大波に飲み込まれてしまって、あたしは頭からつま先までびっしょ濡れ。
物凄い量のピンク色の水を一瞬で被って、化粧もとれた状態で真っ赤になったのだ。
・・・無理。叶わない恋愛の、その最たるものじゃないの・・・。相手が悪すぎる。あたし程度では太刀打ちできない。どうしたらいいのだ。
あたしは深い深いため息をついて、支部の廊下に座り込む。
スカートからストッキングをはいた両足からしんしんと冷えていく。その冷たい廊下の床の感触でさえも頭のピンク色の霞を取り払ってはくれなかった。
一人で廊下で座り込み、勝手に奈落の底に落ち着いていたあたしを発見したのは副支部長の宮田さん。
「――――――うぎゃあ!!・・・たっ・・・玉、ちゃん!?」
当たり前だけど、飛び上がって驚いていた。誰もいないと思ってた支部の廊下に座り込んでいる黒いスーツの女。そりゃあビックリしただろう。相当申し訳ないことをしたと、心の中では反省した。
「・・・ううう、すみません、宮田さん・・・」
「なななな・・・何!?また解約!?それとも急病!?望まない妊娠とかは却下だからね!」
・・・何で、その例なの、宮田さん。それって一体誰の子供よ。
あたしはへらへらと笑う。完全に壊れたいぜ。だけど惜しいことに、まだ若干の理性が残っていた。
「大丈夫です〜・・・。そのどれでもない。新しい契約が貰えるかもしれないアテまで出来たあ〜・・・」
副支部長はやっとドアを閉めて、恐る恐るあたしに近づく。
「・・・じゃあ何でそんなに凹んでるの?ちょっと、風邪引くわよ。2月戦だってのに、稼ぎ頭が風邪とか止めてよね」
ほら、とにかく事務所に入りなさい、と腕に手をかけて引っ張りあげられる。
あたしより小さい副支部長は、器も大きければ度胸もある人なのだ。
あたしはつい涙ぐむ。
「ううう・・・宮田さーん・・・」
「うわあ、今度は泣くの!?もう何なのよ〜!!」
事務所に引っ張り込まれた。
誰も居なかった。そりゃそうか、夜の9時前だ。
あたしは自席によろよろとたどり着き、だーっと涙を垂れ流しにしながら言った。
「稲葉支部長に惚れてるって気付いたああああああ〜!!!」
宮田副支部長は、叫ぶ。
「それがどうした!?」
「はい?!!」
あたしは思わず小さな彼女を仰ぎ見た。それがどうしたって、何だ!?一大事じゃないの!
宮田副支部長は、もう、面倒臭いわ〜と言いながら華麗な手つきであたしにティッシュを放った。
「惚れても仕方ないような極上の男が支部にいて、独身の女が3人いるのよ!全員惚れても当たり前って稲葉支部長の赴任前から思ってたわよ」
――――――マジで!?凄いな、副支部長!固定給になれるはずだよ!泣き虫のくせに、そんなところはちゃんと押さえてるなんて憎いぜ。
「さっき気付いたんだもん!あたしどうしたらいいの!?」
わたわたとパニくってあたしは叫ぶ。副支部長はあたしの隣の席に座りながら、ううーんと唸った。
「やっと繭ちゃんが片付いたのに・・・。どうしてこんなクソ忙しい時に〜」
すみません、面倒臭くて。あたしは頭を垂れた。
「だってだってだって」
「付き合いが鬼教官時代からだし、玉ちゃんは大丈夫と思ってたんだけどなあ・・・。やっぱり彼氏と別れたのはまずかったか!」
舌打ちしそうな勢いで副支部長は言う。
さあ、話してと、促されたので、あたしは泣きながら今日の出来事を話す。楠本さんが出てきた辺りで副支部長が挙動不審になったのには笑えた。
「見たの!?本物!?」
あたしは涙を流したままにやりと頷く。
「見た。いい男だった!」
羨ましいいいい〜!と副支部長が絶叫した。やっぱり相当威張れることらしい。これは、絶対同期に威張らないと、あたし。
でも流石既婚者の余裕だけあって、楠本さんの話題はそれだけで封印し、目下の課題よね、と稲葉支部長対策に頭をひねり出した。
「まず、王道として告白してみたら?繭ちゃんに引き続き」
あたしは両手でバッテンを作る。
「無理。ヤツは社内恋愛は仕事の障害だと思ってる」
「当たって砕けてみて、もしもに掛けてみたらいいじゃない。支部長が玉ちゃんのことを気に入ってるのは確実なんだから」
あたしはまたうわーんと泣いた。
「玉砕が判っててぶつかる勇気なんてないもーん!!」
副支部長は耳を押さえて仰け反りながら言った。
「いや、でもお気に入りなんだしもしもってことが・・・」
「ないです!お気に入りなのは、どんな試練を出してもお前は食いついてくるからだって言ってたもん!!」
今日言われたことだ。間違いない。
副支部長は、そお?と口に人差し指を当てて首を捻った。
「それはそれでしょう?人間として気に入ってるなら、それが恋愛感情になることだってあるかもでしょうが」
あたしはぶんぶんと首を振る。
「無理無理〜!告ってバッサリ切られてそのままここで仕事出来るほど強くないんだもん〜!!」
あたしは繭ちゃんみたいに恋愛経験も豊富じゃない。それに、大して美人でも可愛くもないのだ。やつに振られてすぐに次の男が見つかる繭ちゃんとは違う。
感情的にはウェットな女であると思っている。絶対引きずる。玉砕は次への出発になるかもしれないが、それは仕事上で関係がない場合に限られると思う。
うわーんと泣くあたしの隣で副支部長は頭を抱えていた。
「・・・2月戦なのよ。今、まさしく真っ最中なのに・・・あああ、もう・・」
上司と部下の板ばさみになって苦しんでいるのが申し訳なかったけど、話出してしまったから止まらない。
あたしは鼻をかんで、懸命に呼吸する。
こんな大声で泣いたのは久しぶりだ。ちょっとすっきりした。
「・・・はあー・・・」
副支部長が席を立ち、コーヒーを淹れてくれた。あたしはそれを捧げ持って貰い、感謝を示す。
「宮田さん、支部の移籍ってダメですか?」
「は!?」
凄い勢いで副支部長が振り返る。
「何言ってんの!?認められるわけないでしょうが!!玉ちゃんがこっちに来れたのは、ご家庭の事情での特別配慮なのよ。お陰で私たちはラッキー。でも職域営業部の部長は文句たらたら!誰だって事務所のメンバー減らしたくないんだから〜!」
やめてよ〜!私を見捨てないで〜!と副支部長が叫ぶ。
あたしは机に突っ伏した。・・・やっぱりダメか。元の職域担当営業部に出戻れば、稲葉さんとは会わずにすむ、と思ったんだけどな。
その理由が上司に惚れたので、とはやっぱり言えないしな。
二人でしばし沈黙してしまった。
お互いがいろんなことを考えた沈黙だった。
副支部長があたしを見る。あたしも隣を振り返る。
「・・・玉ちゃん、号泣の果ての酷い顔よ。それ直してらっしゃい。作戦会議はそれからよ」
あたしは片手を高く上げた。はーい。
そして、席から立ち上がった。
で、決まったことはこれ。出来るだけ、ヤツとの接点をなくすこと。
上司の移動はそれなりにあるのだ。ヤツがここで実績を上げれば、また昇進で次はもっと大きな支部の責任者として移動するはずだ、と副支部長は言う。
そりゃあ確かにそうだ。次の移動でヤツを本社に戻すべく、もっと仕事に励み、成績をあげて頂戴と言われた時には、おいおいと突っ込んでおいたけど。
副支部長はパチンと手を叩いた。
「そうよ、それそれ!!名づけて‘仕事に集中して恋心を忘れよう大作戦’!」
嬉しそうだ。そりゃそうか。それであたしが更に契約件数をつめば、支部の予算も評価も上がる。ついでに上司二人の評価も上がるのだ。あたしの給料も上がる―――――――ただし、過労死するかもしれない。
「・・・まんまのネーミングですね」
ちっちと指を振って、今や笑顔の副支部長は立ち上がって言った。
「忙しくなれば当然支部には居ない。ってことは、支部長との接点も少なくなるじゃない。朝一アポで朝礼もパス。会社訪問で夕礼も―――――」
「出来るんですか、そんなこと?」
目をぐるんと回して彼女は言いなおした。
「・・・それは流石にやばい、わね」
あははと笑う。そんな事したら事務連絡も聞けないし、流石に稲葉さんも怒るだろう。新人に示しがつかないとか言って。
「でも残業も出来るだけ二人っきりにならないようにしなさいよ。ベテランが残る曜日に限定するとか。私も出来るだけ残るようにするから」
その言葉を聞いてあたしは慌てた。
「いえいえ、それは悪いです!宮田さん子供さんが待ってるのに。あたしが残業しないようにしますから」
宮田副支部長のところはダンナさんが自営で家で仕事をしているので、普通の家庭よりは夜も残りやすいけど、それでもやっぱり子供さんはまだ小さいのだ。お母さんは早く帰った方がいい。
ため息をついてパソコンを立ちあげた。
泣いたり作戦を立てたりで、もう時間は10時だった。
「あたし閉めて帰りますから、副支部長どうぞお帰り下さい」
「そお?一人で大丈夫?」
あたしは微笑んだ。
「はい。今日はありがとうございました」
自分の鞄を持って事務スペースの電気を消してから、副支部長はあたしに近づく。
「10時半には出ると約束して頂戴。そして、眠る努力をすることよ」
「はい」
副支部長はあたしを優しい目で見て、少しだけ頷いた。
「私たち負けてられないわ、仕事だろうが恋だろうが。女の人は強いんだって、見せて頂戴、玉ちゃん」
顔を上げて、明るい声で、はい、と返事する。
明日からまた、頑張りましょう、そう言って宮田副支部長は帰って行った。
あたしは深呼吸してからパンパンと頬を叩く。
「・・・結婚相談所にでも登録しようかなあ〜・・・」
他には誰もいない支部にあたしの声が響く。
コンパなんて長いこと行ってないし、友達はほとんど結婚してしまってる。紹介にも頼りにくい・・・あああ・・・。他に恋愛対象になりそうな人を探す、も無理っぽい。
がっくりと頭を垂れた。
他に方法がないわ。・・・しゃーない、実行するしかないか。
‘仕事に集中して恋心を忘れよう大作戦’。
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