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年始から幸先良いスタートだったあたしは、ちょっと浮かれモードだった。
だけど80%が凹む内容で煮て固めてある保険の営業という仕事、就職してから3年以内に辞める率は95%を越えるといわれる「一般支部」での仕事は甘くない。
新しく見つけた職域へ向かったその初日、久しぶりに屈辱を受ける羽目になったのだった。
先ずは入社以来お世話になっているいつもの会社へ顔を出し、アンケートを貰い、先日契約を頂いた新人君に不備不満はないかをリサーチし、それからエレベーターで新しい会社まで上がった。
この会社は、所謂、立ち募集である。
保険というのは元来販売するものではない。形がないものだし、強制されて手に入れるものではないからだろう。保険は、あくまで「募集」である。
大勢の人が集まってちょっとずつお金を出し合って、貯めておきましょう、そして困った人からそれを使いましょう、という相互扶助の精神がもとなのだ。
だから、保険は「販売」でなく、「募集」する。営業の仕事は、今こんな商品で参加者募集中ですよ〜と告知することである。
そして、出入りの許可を頂いた会社によっては、昼休みであれば個人の机まで行ってもいい、というところから、チラシを置くまではいい、食堂なら入ってもいい、などと決まりがある。
多くの企業は立ち募集といって、社員食堂前や入口までの廊下だけしか入らせてもらえないので、営業はそこで立って、通りすがりの社員さん達を捕まえなければならないのだ。
そんなわけで、新しい広告会社のエレベーターホール前で、あたしはアンケート用紙と持参した自己紹介文のチラシを持って立っていた。
昼休みが終わるまでの1時間、ここで立ち募集が出来るのだ。
通り過ぎる人に保険会社と自分の名前を言いながらチラシを渡す。初日であるからこんなもんでいい。もし興味がありそうな反応をする人がいれば、アンケートを書いてもらって個人情報を手に入れる。
既にうちの保険会社で保険を持っている人を見つけた場合、契約のフォローも出来るというわけだ。
笑顔を貼り付けて、チラシを配り、アンケートをお願いする。この時点では誰も反応がないのが普通だ。だからあたしは断られても気にせずに次々に声をかけていく。
時計を確認して、休み時間もあと10分か、そろそろ引き上げかな〜、などと思っている時に、ふらりと一人の男性社員がやって来た。
あたしは笑顔で会釈しながら近寄る。
「こんにちは!〇〇生命保険です!」
明るい声、明るい笑顔。最初の第一歩は必ず愛嬌を振りまくこと――――――
男性は立ち止まって、無言であたしをちらりと見た。そして小さな声で言った。
「――――・・・へえ、生命保険ねえ」
あたしはにこにこと微笑む。本日ここで立ち止まってくれた人は一人目だ。だけど、この男の人の目が気になる。ハッキリ言って、いけ好かない目をしている。
「はい、毎週月・水・金でお邪魔させて頂くことになりました。私、神野と申します。宜しくお願いいたします」
自己紹介文を載せたチラシを手渡すと、ふーん、と言いながらそれをジロジロ眺める。
ため息をつきたいところだった。だけど押し殺して、笑顔を大きくする。
生保の営業に対する反応は大体3つのどれかだ。
1、完全に無視する。2、露骨に嫌そうな顔をする。3、最初からナメきってやたらと絡んでくる。
こいつは、3だな。あたしは心の中でそう判断した。
1や2だってこっちは傷付く。ゴミや虫以下の扱いをされることだってあるにはある。でも一番あたし達をうんざりさせるのは、3の客だ。
年は、あたしと同じ位か、少し上ってとこ。普段は保険なんてとバカにしているか、自分より年下の女性営業をからかってやろうと思っているような輩だと思う。
本当はこういうタイプは相手にしないのが一番なのだ。
だけれども、出入り許可後の初日でいきなり無愛想にするのも問題なので、ここは大人しくしてやり過ごそうと判断した。
だらしなく口元を歪めてあたしの全身を舐めるように見る男におぞ気を覚える。
ううう〜!!我慢我慢!ここ最近なかったのに、久しぶりにやな感じの対応だー!
立ち募集をしている廊下の隅に寄って、あたしは微笑みを崩さないままで黙った。こんな時に限って廊下には誰も通りかからない。
早くどこか行け!と心の中で呪っていると、へらへらと笑った男は一歩あたしに近づいて興味ないんだけどさ、みたいな表情を作って言った。
「俺、契約してやってもいいよ。主任まで行くんだからそこそこ成績あるんだよな、神野さんて」
あたしはついに営業スマイルを放棄して表情を消した。
ニード喚起も情報収拾もしていない人に『契約してもいい』、しかも『してやってもいい』何て上から目線で言われる時は、その後必ず後ろに「ただし」がつくと経験上判っていた。
「――――・・・今現在、無保険でいらっしゃるんですか?」
無表情になったあたしの警戒が判ったらしく、ニヤニヤ笑いを更に大きくして男は言った。
「今入ってるのなんか解約して、こっちに乗り換えてやるよって言ってんの。どうせ枕営業してるんだろ?でなきゃ生保でいい成績なんて取れるわけねえよな」
―――――来た。
アンケート用紙を挟んだクリップボードを抱きしめて、あたしは目を閉じた。目の前の男を殴ってしまわないようにと深呼吸する。
・・・枕営業、してるんだろ?
うわあ、久しぶりに聞いたなあ!ってか、契約貰う為に一々体差し出してたら身がもたねえっつーの!!
あたしはゆっくりと口を開く。怒ってはいけない。相手はこっちの反応をみて楽しんでいるだけだ、と言い聞かせる。
「・・・今入ってらっしゃる保険を大切になさって下さい。見直し等のアドバイスはいつでも承りますが、基本的には保険の乗り換えはオススメしません」
男の襟元を見詰めながら話す。目を合わせたら殴ってしまいそうだった。
ヤツは一瞬不思議そうに首を捻ると、更に一歩近づいた。あたしもそれにあわせて下がる。
「あれ、契約いらないって言ってんの?じゃあおたく、どうしてここにいるわけ?女の営業なんてニッコリ笑って契約取るんだろ、無愛想じゃだめなんじゃない?」
「・・・申し訳ありません」
あんたになんか笑ってやらねえとたった今決めたのって、ボードで殴りたい。
「生保の営業が枕営業してるなんてジョーシキでしょ。君はしてないなんて、俺は信じな――――――」
その時、何かが空気を切って飛んでくる音と、男の人の「梅沢!」と叫ぶ声が聞こえた。
・・・と、思ったら、あたしの目の前の男がぶっ飛んだ。
あたしは目を丸くして思わず口をポカンと開ける。
そこにはいつの間にやら仁王立ちになった梅沢さんと、いつぞや彼女と一緒に居た眼鏡の男性。
「あーあ・・・」
後ろの眼鏡の男性がため息をついて、頭をガシガシと掻いている。
梅沢さんは華やかに化粧した顔を恐ろしい形相に変え、たった今自分がぶっ飛ばした男を睨みつけていた。
男は叩かれたらしい頭を撫でながら振り向き、苦情を言った。
「・・・痛っ・・・酷いじゃないですか、梅沢さん!」
その言葉に更にまた目つきを厳しくして、梅沢さんは怒鳴った。
「やかましい!あんたは今、全世界の女性営業を見下してバカにしたのよ!」
「――――はい?」
彼女が手に握り締めていた丸めた雑誌(多分、これで男を殴ったのだろう)を眼鏡の男性が後ろから取り上げて、ため息を吐きつつ言った。
「落ち着けって梅沢。大体これは、俺の雑誌だ」
「亀山!靴脱いで!」
「あん?」
「それで信田をもう一度殴ってやるー!」
信田と呼ばれた男はビビって後ずさり、何なんですか!?と叫ぶ。
亀山さんと呼ばれた男性はゆったりと梅沢さんと男の間に自分の体をいれ、うんざりした顔でそれぞれに言った。
「・・・だから、落ち着いてくれ、梅沢。信田、お前この人に謝れ」
いきなり指名されてあたしは顔を上げる。いかんいかん、完全に傍観者になっていた。
「はい?」
信田という男は膨れっ面になった。
「何で俺が」
丸めた雑誌で自分の肩を叩きながら亀山さんが、あのなあ、とだるそうに口を開く。
「言っていい事と悪い事くらい判るだろう、いくらお前がバカでも。一生懸命自分の仕事している人を見下していいわけないだろ」
おおお〜!!
あたしは感動した。思わず頷いてしまう。そうそう、そうなんです、亀山さん!
先輩に叱られた男は膨れっ面を更に歪ませて、小さな声でぶちぶち言う。
「・・・あんなの冗談に決まってるじゃないですか」
何だと!?あたしはカチンとして思わず睨みつけてしまった。
だけどそれ以上何かする前に、またまた梅沢さんの罵声が飛んだ。
「冗談で済むかー!!」
亀山さんを押しのけて男に手を伸ばそうとするのを、梅沢ー!と亀山さんが引っつかむ。
何かのコントか漫画みたいだった。
梅沢さんを掴んだまま身を捻って亀山さんがイライラと叫んだ。
「信田!さっさと謝罪して消えろ!」
男はだらだらとあたしに向き直った。
「・・・すみませんでした」
あたしはチラリと冷たい視線で見て、無表情で返す。
「いえ、慣れてますから大丈夫です」
その返答に一瞬場が静まったけど、男はさっさと逃げ出した。
「こらー!信田ー!!」
「梅沢!いい加減にしろー!」
畜生!と口汚く罵って、亀山さんから離れるハンサムな女性社員をあたしは唖然として見詰めていた。
・・・すんげー迫力。恐ろしい・・・梅沢さん。
「ごめんね、あんなんばっかりじゃないからね、ウチの会社」
ずり落ちた眼鏡を直しながら亀山さんがあたしに言う。あたしは慌てて頭を下げた。
「あ、いえいえ、大丈夫です。ありがとうございました!」
梅沢さんはまだ機嫌の悪い顔で、チッと舌打ちをして言う。
「廊下で何か聞こえたぞ、と思ったら、まさかあんなことを。ビックリだわ」
それを聞いて亀山さんがじろりと彼女を睨んだ。
「ビックリしたのは俺だっつーの。いきなり人のもの奪い取って後輩殴るなよ」
「別に減るもんじゃないでしょうが。野郎がケチケチしないでよ」
梅沢さんが噛み付くとそれにハイハイと扱い慣れた返事をして、亀山さんはあたしをチラリと見た。
「まあ、メゲずに頑張ってね」
あたしはにっこりと微笑む。
「はい!」
先に行くぞ〜とのんびりと言いながら、亀山さんは行ってしまった。その背中に拍手を送りたかったあたしだった。
残された梅沢さんに向き直って笑顔を出した。
「いいコンビですね、楽しかったです」
彼女はあはははと軽く笑った。
「転職組みなんだけど、同期なのよ。一緒に仕事してるから四六時中一緒にいるわ」
あの信田とかいう男から受けた悔しさはぶっ飛んでしまっていた。
枕営業してんでしょ?という中傷はよく受けるが、その時に相手側の会社の人から助けて貰ったのは初めてだった。
梅沢さんは申し訳なさそうに、本当に失礼しました、と言う。
そのタイミングや声のトーンが心に染み入る。この人は営業としても優秀なんだろうなあ、と思った。
「本当に大丈夫です。実際のところ、よくありますから」
あたしの返事に眉を寄せて、大変ねえ、としみじみ言う。そして、時計を気にしてからにっこりと微笑んだ。
「ねえ、あたしの保険を見てくれない?もう5年以上見直してなくて、内容ですら曖昧なの。説明してくれると助かるんだけど」
慰めてくれてるんだと判った。あたしは温かい気持ちになって頷く。
木曜日は割りと夜も早いから、と翌日の約束をして、梅沢さんは事務所に戻って行った。
あたしは彼女の姿が消えるまで頭を下げていた。素敵な出会いに、神様に感謝した。
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