A


 たらりと汗が額から流れる。

 まだ暖房の行き届いてない朝の会社の給湯室で、あたしは冷や汗をかいていた。

 だけど、落ち着けあたし!別に誰に見られたって非難される覚えはないのだから。

 あたしは恐る恐る上司を見上げる。そして、唾を飲み込んでから言った。

「・・・プ・・・プライベートな時間のことですから」

 稲葉さんは眉間に皺を寄せた。また冷や汗が流れる。手が震えだしそうだった。

 に、逃げたい・・・うわああ〜何でこんなことに。一体なぜ!?今なら普通に凍りつけるかもしれない、あたし。

 痛いほどの沈黙がその場をたっぷり10秒間は支配した。それから低い声が、左隣から振ってきた。

「――――――うちの会社の就業時間を知ってるか?」

「へ?」

 思わずヤツを見上げる。何言ってんの、いきなり?あたしは一瞬混乱して、それを表情にだしたままで答える。

「・・・9時から5時ですか?」

 稲葉さんはローレックスの腕時計を優雅な仕草でちらりと見て、悪魔的な微笑を浮かべて言った。

「今、8時15分。つまりまだ神野の言うところの、プライベートな時間、だな」

 そう言うや否や、ぐいっと腕を引っ張ってあたしを抱きしめた。

 ぎゅう〜っと強い力で抱きしめられて、仕立てのいいスーツに顔を埋め、あたしは口に出せずに絶叫した。


 うっぎゃああああああああ〜!!!!!

 突然のことにパニくって、口から声が出ないのだ。

 きゃーっきゃーっ!!!だだだだだっ・・・抱きしめっ・・・うっひゃああああああ〜!!


「しっ・・・しぶちょ・・・ちょっと・・・」

「うん?」

 稲葉さんの香りに包まれる。耳元でヤツの低い声が響く。あたしはバタバタと腕を動かす。何とかしてええええ〜!誰か助けてええええ〜!!

 今自分に何が起きているのか理解出来ない。いや、わかってるんだけど、一体どうしてどうして何で何で抱きしめられてるの〜!??

 抱きしめたときと同じくらい唐突に、稲葉さんはあたしをパッと解放した。その突き放された勢いで、あたしは流しに背中をぶつける。

 目を見開いて、前に立つ長身の男を見詰めた。

 きっと真っ赤だ。全身の血液が沸騰しているみたいだった。

 ドキドキと鼓動がうるさかった。

 稲葉さんは二重の瞳を細め、口元を綺麗に引いて、美しく笑う。

「プライベートな時間の事だ、職場には関係ないし、誰にも言わないよな?」

「は・・・」

 あたしが言葉を出せないで口をパクパクしていると、ヤツはその美しい微笑みのままで、ゆっくりと言った。

「昨日、新谷さんに迫られたのも、5時以降だったな、そういえば。神野の言うところの――――――」

 ドアに手をかけて、出て行きながら背中越しにあたしを見て囁いた。

「――――――プライベートな時間、だな」


 閉まったドアを呆然と眺める。

 ・・・・つまり。

 ・・・・つまり・・・?

「・・・口をつぐんでおけって、こと・・・?」

 プライベートな時間だから、繭ちゃんに抱きつかれたのも、あたしを抱きしめたのも、どっちも口にはだすなってことか!??

 繭ちゃんとの事を誰かに言えば、お前を抱きしめたとバラすぞ、という脅しだ。それによってあたしは噂の的になり、支部での待遇も雰囲気も一変する。支部長と対話するたびに、あの二人は出来ているらしい、と噂されるってことなのだ!

 お湯の準備が済んで、ポットが沸騰から保温に変わる。

 だけどあたしは動けなかった。

 ・・・・鬼教官に、抱きしめられちゃった・・・。しかも、それをネタに脅されちゃった・・・。

 副支部長が出勤してくるまでの残り15分間、そのままであたしは給湯室で固まっていた。

「うわあ!玉ちゃん・・・!?何、してるの?」

 出勤をした通りがかりの副支部長が給湯室を開けてあたしがぼーっと突っ立っているのを発見して騒ぐまで。

 あたしは動けなかったのだ。


 挨拶も言い訳も全部すっ飛ばして、あたしはその場から走り出した。出入り口を出て、駐車場でうずくまって深呼吸する。

 吸って〜吐いて〜、ハイ、吸って〜吐いて〜。

 頭がぐちゃぐちゃだった。

 抱きしめられたことも、それを脅しに使われたこともショックだった。

 回る視界の中でため息しか出ない。・・・光〜・・・あたし、ダメかも〜・・・。

 無理かも。あの人の下で仕事をするの。今度こんなことがあったら鼻血を出して出血多量で死んでしまう。・・・いやいやそうではなくて!プライドがめちゃくちゃでショック死のほうが先かも。

 あああああ〜・・・・。

 一瞬ではあるが、ときめいてしまった自分への嫌悪感が襲ってきた。

 あいつはあの鬼教官なんだぞあたし!頭大丈夫!?寝不足で機能停止中なの!?

 しゃがみこんで、一人で悶絶していた。


 その後はぞくぞくと営業職員が出勤してきたし、外の寒さで意識も元に戻り、あたしは仕方なく事務所に戻った。

 だけど支部長席に座る稲葉さんはすでにいつものようにご機嫌で、他のメンバーに軽口を叩いて笑わせていたし、繭ちゃんも特に変化はないように見えた。

 副支部長の宮田さんだけが挙動不審なあたしを心配そうに見ていたけど、大きな一件の解約のことがあるからどうにか誤魔化せた。


 午前中は、あっさりと平常状態になっている支部長と副支部長と面談をして、解約に至るまでとこれからのことを話し合った。

 ボールペンを転がして、稲葉さんは息をついた。

「・・・仕方ないよな。他をあたれ。なんとかして埋めないと、来年きついぞ、神野」

「はい」

 あたしは目もあわせずに頷く。それしかない。あてがあるわけではないが、失った経保にかわるくらいの契約を貰って来れないと、来年の職選で営業ランクが落ちてしまう。

 ってことは、給料も落ちる。そうすると、キツイスパイラルに落ち込んで元に戻るのには根性と気力だけでは難しくなってくるのだ。

 今年はもう残り少ないけど、とにかく見込みを探す、ということで話が落ち着いて、あたしが腰を上げかけると、宮田副支部長が、あ、と声を出した。

「昨日、支部長は神野さんと会えたんですか?居酒屋にいました?」

 一瞬、二人で固まった。

 だけどすぐに復活した稲葉さんが、微笑みながら言った。

「ああ、うん。あの店に神野はいたよ。――――――元彼と」

 え?と宮田副支部長があたしを振り返る。あたしは多少うんざりしながら、顔の前で手を振った。

「・・・いえ、ほとんど同じタイミングで、ヤツが店に来たんです。で、酔っ払ってたあたしに注意してる時に支部長まで現れた次第で――――――」

「そして、二人で消えたんだよな」

 にこにこと稲葉さんが被せて言うのに、宮田副支部長はまた、え?とあたしを振り返る。

 何なのよ、この男!!

 あたしはムカついて微笑む上司を睨みつけながら言った。

「ええ、それで、ちゃんとキッチリ別れてきました!あやふやなんではなく、完全に!」

 今度は稲葉支部長が真顔になった。副支部長は同情したような顔になって、あたしの手を取った。

「・・・あれもこれも、一度に色んなことが起こるわね」

 泣き虫の副支部長は、既に目を潤ませている。

「玉ちゃんは負けず嫌いだけど、泣きたいときは泣かなきゃダメよ。発散したいときには言ってね、カラオケでも何でも付き合うから―――――――」

 あたしは宮田副支部長に両手を取られながら、目は細めて冷たい視線を稲葉さんに送っていた。

 そうなんだぞ、あんたが考えてるようなことじゃなかったんだぞ!と意味を込めて。

 実際は少し違うのだが、他者から見れば、仕事で大きな痛手を負ったその日に長年付き合っていた彼氏との破局も決定的になった女、ということになる。

 今、宮田副支部長にされているように、大いに同情されて然るべきなのだ。

 稲葉さんは開けていた口を閉じて何か言いたそうな顔をしたけど、あたしは寸前で目を逸らし、副支部長ににっこりと微笑んでヤツを無視する。

「久しぶりに寂しいクリスマスですよ、今年は!でも必死で仕事します。あけた穴も埋めなきゃだし、ね」

 瞳を潤ませる副支部長の肩をポンポンと叩き、あたしは立ち上がった。

 これで話は終わりだ!と全身で表現して、あたしは対話室のドアを閉める。

 ちょっとは反省しろ!バカ支部長!本当は目の前であっかんベーをしたい気分だったけど、それこそあたしにはそんな暇はない。

 失った契約は大きかった。あたしはそれを埋めなきゃならない。これはもう、新たな職域を発掘するしかないか・・・。

 前からひとつふたつ目をつけている会社があったのだ。そこに飛び込みに行くつもりだった。

 あたしは、営業だ。

 自分の足で仕事を探すこと。いくら待っていても、向こうからはやってきてくれないのだから。

 悔しいことに、それを教えてくれたのは鬼教官だったけど――――――

 支部に残っている数人が、あたしを慰めに寄ってくる。それに笑顔を返してあたしは鞄を手にした。

 もう、忘れよう。失った経保をいつまでも引き摺っても消化不良を起こすだけだ。


 コートを着て手袋をはめ、あたしは支部を出発した。




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