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稲葉さんの言葉が、その言い方が、あたしのカンに触った。上司だということを一瞬忘れて舌打ちをしてしまう。すぐに気付いたけど、もういいや、って心境だったから謝らなかった。
「あたしにだってプライベートはあるんです!退社後のことまであなたに関係ありません!」
稲葉さんはぐっと口元を引き締め、目を細めた。
「・・・確かに、そうだな。では、明日聞くことにしよう」
そして少し距離をおいて立っている光に会釈をして、失礼しますと声をかける。慌てた光が挨拶を返すのを、あたしは地面を見詰めたままで聞いていた。
ざくざくと土の地面を踏んで稲葉さんが遠ざかっていく。あたしは無意識の間につめていた息を吐き出した。
握り締めた手が冷たくて痛い。
どうしてあたしは真冬の夜の公園でこんなことをしてるんだろう・・・。そこまで考えて、まだ光がいたことに気付いた。
「・・・さっきのお金、返すわ。いくらだった?」
あたしは離れて立つ光を振り返った。
それには答えないで、口元を巻いたマフラーで隠した光が言った。
「・・・経保、解約になったって、夏に貰えたと喜んでたあれか?」
あたしは首を傾げる。そして、ああ、そうか、と思い出した。
夏は、まだ付き合っていた。やっぱりあまり会えなかったけど、その大きい経営者保険を貰えたときには嬉しすぎて、久しぶりに光に電話したんだった。
偶然光の出張がなくなって時間を合わせれたので、翌日には二人でビアガーデンに飲みに行った。大した金額でもないのに、俺の奢りだって、光がご馳走してくれたんだった。よく頑張ったなって。
今は冬で、もうこの人は彼氏じゃないんだ。
でも契約を貰った時は、あの夏の夜には、一緒に喜んでくれた人なんだ。
疲れた体に冷たい冬の風。あたしは公園で突っ立って、途方に暮れたまま。
お酒が体を回っていてふわふわしていた。頭の中では記憶の引き出しが次々と開けられて、どばーっと、凄い勢いで色んな場面が流れ出した。
そのほとんどに、この人が居た。
居たんだなあ・・・。
ついに、あたしは泣いてしまった。
光が傍に来て、泣きじゃくるあたしの手を引っ張って歩き出し、もうここしかねーし、と一番近いラブホテルまで連れて行った。
鼻をぐしぐし言わせながら、エレベーターの中であたしは言う。
「・・・あ、あんたとは寝ないわよっ」
「俺だって抱いてやらねーよ」
ブチブチ言い合って、でも手は繋いだままで、ちゃんと抱き合う為に来たこともあるラブホテルの部屋に入って行った。
その夜、お風呂に別々に入って温まり、ご飯を食べていなかったらしい光の為に今度はあたしが払うと料理とお酒を色々注文して、けばけばしい内装の部屋の小さなピンク色のソファーで一緒に食べた。
途中母親にメールで帰宅しない旨を告げる操作をしている時以外、ひたすら声を出していた。
スッピンでバスローブを着こんで裸足で、ずっと話していた。
新支部長が実はあの鬼教官だったことから、ダメになった経保まで、もう瞳の堤防は決壊済みなのでたまに泣きながらあたしは話す。
彼はガンガンご飯を片付けながら、たまに辛辣な突っ込みを入れながら、お風呂上りの整えてないボサボサの髪のまま聞いてくれていた。
「もう二度と会わないはずだった鬼教官が、新しい上司?凄い偶然だな。お前の移動がこんなところに影響するとはね」
確かに。あたしが未だに以前の職域担当の営業部にいれば、彼が上司になることはなかっただろう。ここは一般支部なのだから。
それから彼の話も聞いた。
ヤツの上司も新しい人に代わったこと。人員の不足がやっと解消されて、この冬のボーナスもちょっとだけど上がっていたことなどを。
そういえば、あたしは自分の話ばかりで光の話を聞いてなかったかも、と突然気付く。
いつもいつでも、自分にばかり必死だった。
この人はそれでも一緒にいてくれたのに。
ご飯を食べ終わってお酒もなくなったころ、時刻は深夜の3時で、あたし達は酔いと眠気と話し疲れでソファーにもたれ掛かっていた。
「・・・光、ごめんね。あたし、あんたの話聞かずに自分のことばっかだったね、今から考えたら・・・」
眠そうな目を擦って、光が、あー・・・と呟く。
「・・・自分勝手はお互い様だろうって思う。・・・思った。お前と別れて翌日部屋に戻った時。・・・部屋を片付けて、ご飯作って待っててくれたんだな、あの時」
ああ、確かに・・・しかもそれを見せ付けるために食器を片付けずに帰ったんだった、あたしは。まあそのあとで罰みたいに豪雨にあって、しかも鬼教官との再会を果たしたけど。
眠くて、頭が働かず、それでもここ最近なかった平和な気持ちに包まれていた。
光が、ぼそっと呟いた。
「・・・俺は、本当に好きだったよ、玉緒のこと。だけど、慣れていって忙しさも重なって・・・。最後の方は悪かった。こっちも余裕がなくて、冷たかったと思う」
好きだったよ、の過去形にあたしは微笑んだ。
うん、そうだよね。あたしもね、あたしも。
「・・・光が大好き、だった。だから、今日ちゃんと話せてよかった―――――――場所が場所だけど」
しばらく黙ったあとで、光が先にくくっと笑った。
あたしも噴出す。
ラブホテルでテレビのニュースを見たりカラオケをしたり普通に話したりを、元彼とするとは思わなかった。
二人はソファーにもたれたままでゲラゲラ笑う。
あたし達、それなりにいい恋人だった。
すれ違いが多くて会話不足で壊れてしまって、反省すべき点はたくさんあるけれど。
それでも一緒に成長して20代を過ごしてきたんだ。
ちゃんと話せて本当によかった。こう考えれば、あの経保の解約だって、神様がくれたキッカケだったのかもと思える。
痛かったけど、社会勉強としてはえぐい事件だけど、それでもそのお陰であたしは光とこうして一緒に笑っている。
大好きだった、以前は確かに大切にしていた恋人は今ではもう他人に戻ってしまったけど。
だけど、これで気持ちの整理も済むはずだ。
傷をえぐれなくて逃げていた、光との思い出を処理すること。仕事にかまけてあたしは逃げていたんだ。だけど、やっと今晩は泣けたし、それを本人に慰めてもらえた。
それってどんなにか幸運なことだろうって、思う。
「大好きだった、玉緒が、本当に」
そんな言葉を貰えるとは思ってなかった。
あたしは笑ったままで泣く。光の目も潤んでいたけど、武士の情けで突っ込むのはやめておいた。
そして眠った。大きなベッドで、手だけを繋いで。
もう他人だったけど、恋愛感情とは違うけど、大切な人になるんだろうと思った。
これで本当にあたしは長かった恋を終わらせた―――――――。
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