A
「気付いたんだ?」
「え?」
首筋に釘付けだったあたしの視線は今度は彼の目に向かう。
今、何て言った?
さっきまでの見知らぬ他人同士が同じ空間にいる時の、遠慮がちな空気が一瞬にしてなくなった。
「やっぱりこれがないと判らなかったか」
くっと唇の両端が持ち上げられる。体を後ろ向きに捻ってあたしに大きくうなじを見せ、彼はあははと笑った。
あたしは止まったままでそれを凝視する。
何?ちょっと待って、あたしは大パニックだよ!何でこの人がアステリスクを?あ、わけが判らない・・・お、落ち着いて・・・そう、深呼吸深呼吸・・・・。
前で笑う男性をじっと見た。
これがないと判らなかったか―――――――・・・
無言のままでいきなりパッと立ち上がって、あたしは寝室に駆け込んだ。ベッドから良く見える位置の壁に貼ってある、先生に頂いたあのイラストに駆け寄る。
顔を近づけて、今日も綺麗に笑う葉月タケルの首筋、今は消えてしまっているアステリスクがあった場所を見詰める。
・・・・・やだ。
「何で・・・あの人のあそこにアステリスクがあるの」
ぼそりと呟く。
その時、テンパってお客様を放り出してきたことに気付いた。すっごい失礼だよ、あたし。戻らなきゃ、ホラ、ホラ・・・。だけど動くことも出来ず、あたしは呆然とその場に立ち尽くす。
だって、まさか――――――
頭の中をぐるぐる回るのは、その言葉だけ。
まさか、まさか、まさか・・・・
深呼吸を何度も繰り返す。それから震える全身に力をためて、あたしはゆっくりと寝室を出た。どくんどくんと心臓が煩い。次々と汗が出て、こめかみから伝って落ちていく。
寝室を出たところ、廊下の端、あたしの小さな縁側に立って、その人は庭を見ていた。
そして振り向いてあたしを見る。彼は笑うと口元にえくぼが出来た。
「・・・・ちゃんと世話してんじゃねーか」
この言い方。間の取り方。あたし、知ってる。笑い方も、この視線も。
あたしは震える両手で頬をパンパンと叩いた。
「・・・何してるんだ?」
「夢だったらどうしようと思って・・・」
何とか答える。頭の中では、もう認めていた。いや、玄関先で会った時から、心は判っていたのかもしれない。
タケルの外見ではない、ちゃんとした人間のこの人は。
タケルより少し背の低い、がっしりした体をもつこの男の人は。
茶色の柔らかそうな前髪の下からあたしを見ている、猫目のこの男の人は。
「―――――・・・タケル」
「うん、そう」
あっさりと頷く。
そしてこちらにスタスタと歩いてきて、いたずらっ子みたいな表情で笑い、手を差し出した。
「近藤猛と言います。久しぶり、渡辺皐月さん」
「・・・・は、い」
マヌケな返事しか出てこない。
導かれるようにそろそろと手を出したら、強い力で握られた。その強さ、温かさにビックリして体が小さく跳ねた。
「幽霊じゃないぞ。これが、俺だ」
こんどう、たける、さん。幽霊じゃ、ない。あたしは一々頭の中で復唱する。
「・・・猛?近藤、猛、さん?」
「そう。俺の名前もタケル。すげえ偶然だよな。因みに漢字では猛々しいと書く、猛」
くらりと視界が揺れた。
ああああ〜・・・・・ダメだ・・・・あたし、キャパシティー残量ゼロ。
タケルが本物の生きてる人間の、全然違う外見の男の人になって、普通の方法で玄関から入ってきた。
しかも、どうやらおばあちゃんの知り合いらしい。
目眩が酷くて目を瞑る。呼吸を忘れてしまっていたようだった。
揺れて、壁に背をついた。
何で毎回毎回こうなるのよ〜・・と自分でも思いながら、あたしはへなへなと廊下に倒れこんだ。
薄れゆく意識が最後に捉えたのは、タケル、いや、猛の笑い声だった。
あたしは意識を手放したけど、それはぼんやりとして甘い世界への入口みたいだった。
だからあたしの顔は笑顔だったはずだ。幸せな、顔だったはずだ。
だって、会いたいと願った人が会いにきてくれたのだから。
**************
柔らかいピンクの色の景色の中にいた。
見上げると、あたしはどこまでも続く桜並木の下に立っていて、花びらのシャワーを浴びていた。一人だった。周囲をぼんやりと見回して、あたしは顔を上に向ける。
ひらひらと白く光を放ってピンク色の花が舞う。
あたしは唇に落ちてきたそれをそっと指でつまむ。
ほのかなピンク。薄い花びら。
それはそれは見事な光景だった。
雨のように花びらが空中を舞っている。天からわらわらと柔らかいハート型が降ってくる。
空の青も見えないほどの。
たくさんの花びらが。
ああ、綺麗だ。
声にならなくて、ただ突っ立って花びらの嵐に巻かれていた。
その時誰かの気配を感じて、あたしはいっぱいのピンクに埋もれながら、周りを見回した。
そして、見つけた。
少し先で微笑んでこちらを見ているおばあちゃんを。
好きでよく着ていたうぐいす色の着物姿で、しゃんと背筋を伸ばして立っている。
・・・ああ、おばあちゃんだ。嬉しい。あたしはにっこりと大きく笑った。あたしずっと会いたかったんだよ―――――――・・・
そちらに体をむけて歩きだそうとすると、おばあちゃんはにこにこと笑ったままでするりと片手を上げて、あたしの後方を指す。
あたしは振り返り、遠く霞む景色の中、同じようにピンク色にまみれて立つタケルを見つけた。
美形の、完璧な、葉月タケル。先生のイラストから出てきた彼がそこにいた。
――――タケル。
彼はあの美しいアーモンド形の瞳であたしを見て楽しそうに笑い、少しずつ近づいてきた。
近づくたびに、一足ごとに、彼の姿が変わっていく。
少し背が低くなり、首が太くなり、アーモンド形の明るい茶色の瞳は黒く煌めく猫目に変わる。艶のある黒髪は柔らかい茶髪に変化して、右側の口元にえくぼが生まれた。
あたしの前に立った彼が、風に舞う桜の花びらのシャワーを受けて笑う。
『・・・・・・待たせた』
そう言って―――――――――――
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