1、タケルとタケル@
夏が来ていた。
夜の7時だった。
枕元に放りっぱなしだったあたしの携帯が着信を告げて鳴った。あたしは寝転びながら本を読んでいたけれど、それを置いてゆっくり起き上がる。ベッドの上に座って携帯を取り上げた。
携帯が鳴るなんて久しぶりだ。家族は家に電話するし、友達はよっぽど急な用事じゃなければメールで済ます。
ディスプレイに光る番号は、知らない番号だった。
少し警戒しながら通話ボタンを押す。
「―――はい」
名乗らずに、応答だけした。
『――――――・・・あ、お忙しい時間に失礼します。そちらは渡辺さんの携帯でしょうか』
男性の声が聞こえた。少しスモーキーというか、ハスキーというか、その中間というか、何にせよ特徴のある声だった。勿論、あたしは知らない声だったけれど。でも落ち着いていて低めで、好きな声だなーと思った。
「・・・はい、渡辺ですが」
少なくともこれがあたしの携帯であるということは知ってる人のようだった。携帯電話の番号なんて、知ってる人はかなり少ないはずなんだけれど―――――
『突然すみません。近藤と申します。実は―――――』
突然掛かってきた電話は、おばあちゃんの知り合いらしかった。
亡くなっているのは知っていたけど、今まで訪ねることが出来なかった。通夜も葬式もいけなかったから、せめて仏壇に線香だけでもあげさせて貰えないか、という事だったので、あたしは快諾する。
やっと体が空いたけれどおばあちゃんの連絡先が判らなくて、困った挙句に入院先の病院に聞いたのだそうだ。すると身元引受人だったあなたの番号を教えてくれた、と。
声だけでは判断し辛いけど、割と若い人なんじゃないかと思う。どこでおばあちゃんと知り合いだったのかと電話を切った後で不思議に思った。
今は丁度、漫画家である先生が久々の連休で海外に行っていて(と言うか編集さんを振り切って逃亡していて)バイトもないし、他に用があるわけじゃあないからこちらはいつでもいいと伝えると、では早速ですが、明日でもいいですか、と言うから住所を教えた。
今年は空梅雨らしく、全国的に水不足だった。だから大切な庭には毎日水をやる必要がある。
今日も晴れ上がった7月の空の下、あたしは小さな庭の植物にホースで水を撒く。5月にタケルがやってたよね、そういえば。思い出しながらあたしも同じように空に向かって水を飛ばしたりする。
「あはは、冷たい・・・」
タケルが一人で遊んでた気持ちが判るわ〜、これ、楽しい・・・。
ホースの口を指でぎゅう〜っと押さえて、自分がくるくる回りながら周囲に水を撒き散らした。
つい、口から笑い声が溢れる。冷たい水の玉が髪にも顔にも当たる。暑い中でその感触が気持ちよくてまた笑った。
着ている姉から貰ったふんわりとした緑色のスカートが濡れて足にあたり、その感触でやっと、ああ、ダメダメと気付いた。
今日はお客様が来るのに、家主がびしょ濡れでどうする。
「あらあら・・・」
あたしったら。既にもう十分濡れてるじゃない。
水道の蛇口を締めに、玄関横までバタバタと走って行って、玄関先で佇む人影に驚いた。
「―――――あ」
あたしの声に気付いて、その人がくるりと振り向いた。
既にお客様は到着していたらしい。今まさに、玄関扉横のチャイムを押そうと指を伸ばしかけていたみたいだった。
もうすっかり夏なのに黒いジャケットはおばあちゃんに対する配慮だろう。
手に紙袋を提げた、男性だった。
あたしはつい、まだ手に水が出ているホースを持ってその人を眺める。
長身の姉の弥生より少し高い背。長めの栗毛。少し切れ上がった猫目で、こちらを見ていた。
――――――若い。声からそうかなと思ってたけど、やっぱり若そう。この人どこでおばあちゃんと知り合いだったんだろう?
彼が上げたままだった指を下ろして体ごと向き直った。
あたしは挨拶もせずにお客さんをしげしげと見詰めてしまった失礼にやっと気付き、急いで蛇口を締めてから、中腰のままで男性を見上げる。
「・・・近藤さん、ですか・・・?」
「はい」
男性はゆっくりと笑う。その姿は好感が持てた。あら・・・素敵な笑顔。思わず胸の中で呟く。
狐・・・いや、猫?そんな印象の男の人だった。
「す、すみません、いきなりびしょ濡れで。すぐ開けますね」
あたしは赤くなって頭を下げ、ホースを庭まで運んで縁側から家に入る。やだやだあたしったら!水で遊ぶのに一生懸命で時間が経ってるのに全然気付かなかった。
あちらに失礼じゃないのよ・・・。姉にばれたら怒られる、と思いながら、髪の毛だけばばっとタオルで拭いて部屋にクーラーを入れ、玄関に急ぐ。
ガラガラと引き戸を開けると、男性はそこに立って周囲を見回している。
「あの、どうぞ」
あたしが声をかけると振り返って、また笑った。
「お邪魔します」
仏間に案内した。
お供えまで頂いて恐縮する。
お茶を出して後ろに下がり、彼のすることをぼーっと見ていた。
あたしは人見知りな方だ。だから知らない人と同じ空間にいると、それだけで緊張して肩だけでなく全身が凝る。なのに、どうしてだろう・・・。この人といても、いつもみたいな緊張や気詰まりがないなあ・・・・。
近藤さんという名前らしいその男の人は、仏壇のおばあちゃんの写真をじっと見て、小さな低い声で言った。
「・・・・結城さん。ちゃんと約束は守ったよ」
あたしは入口近くで控え、また首を傾げる。
本当に、この人はおばあちゃんのどういう知り合いなんだろう。約束って、何。あたしは暇を持て余し、好奇心まで湧いてきた。
おばあちゃんの事を苗字で結城さんと呼ぶ、正体不明の男の人を後ろから眺めていた。
彼はまだ小さな声で続けていた。
「ちゃんと帰って来れた。言われた通りでよかったよ。・・・流石だな、全部結城さんの言う通り」
言ってる意味は判らないけど、あたしこの人の声好きだな〜。もっと聞いてたいと思う、優しいトーンの掠れ気味の声だ。
正座をしている彼が、一度畳に手をついて仏壇に少しだけ近寄る。
あたしはそれを後ろから見ていて、次の瞬間まるで吸い寄せられるように、彼の一点に焦点が合った。
―――――――――・・・あれ?今・・・・・・・。
思わず姿勢を正す。
彼が屈んだ時に、首筋にちらっと見えた―――――――――あれは。
あれは・・・・・まさか・・・。
あたしは目を細めて、もっとよく見ようと前かがみになった。じりじりと男性に近寄る。
この人の栗毛の間に、一度見えた黒い点は、あれは・・・・
「・・・・あ」
あたしの声に、彼が、え?と振り返る。
目と目が合う。
あたしは中腰になったままで止まっていた。
「・・・アステ、リスク?」
出した声は掠れて、震えていた。だって、まさか、首筋のその場所・・・。
近藤さんは、あたしを見て少し笑い、ああ、これ?とうなじに掛かる自分の茶髪を手でどけた。
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