A

 タケルが後ろにもたれてこちらを見詰める。そしてお茶を飲んで、言った。

「――――お前が自信なくしたのも、そいつが原因か?」

 違う、とは言い切れず、あたしは下を向いたままサラダを口に放り込む。

「・・・自信なんて小さい頃からないもん」

 出来の良すぎる姉を持つと、何かと比べられる兄弟姉妹は幼少児から自信をなくすことになる。そのつもりはなくても思わず出てしまう周囲の人間からの言葉で、あたしもよく凹んだものだった。

「なら訂正。女を捨てたのは、そいつが原因か?」

 ぐっと詰まった。

「そうなんだな」

 彼が立ち上がりお皿を流しに置いて、もう要らないのか、とあたしに聞くから頷いた。もう食べられない。完全に食欲は失せてしまった。

 タケルはてきぱきとあたしの食器も片付ける。そして椅子に座ったままのあたしの手を引いて、おばあちゃんの小さな庭に出れる、狭い縁側に連れて行った。

「月見、しようぜ」

 あたしはいぶかしげに彼を見上げる。

「・・・月、出てないけど」

 今晩は風は少しあるけれど、曇り空だ。それに9月じゃなくて5月だよ。そう思いながらしぶしぶと縁側にしゃがみこむと、彼はひざ掛けを持ってきて、にっこりと笑う。

「うん。でも気持ちいいから。――――――さて」

 タケルが長い足を投げ出して座り、あたしを後ろから抱え込んだ。彼の香りがふわりとあたしを包み、反射的に笑顔になる。足元をひざ掛けで包んで、よし、と彼が言った。

「話して貰うぞ、そのバカ野郎のこと」

「えっ!?何でー!?」

 せっかくリラックスムードに浸れるお気に入りの体勢なのに、なぜ過去の暗い話を思い出さなきゃならないのだ!あたしは今ちゃんと幸せなのに〜!

 前でぶーぶー文句を言うと、低い声がゆっくりと言った。

「・・・誰にも話してないんだろう、その男の話」

「・・・」

 何で判るんだろう。

 後ろから温かい体に抱きしめられながら、あたしは不思議に思う。

 確かにあたしは、その恋が終わった時、家族にもおばあちゃんにも、眞子たちにさえ詳細は話さなかった。生々しい傷口をえぐるみたいなのが嫌だったのだ。まだ鮮血が滴りおちていた胸の傷を、なかったことにしてしまいたくて口を噤んでいた。

 そうして一人でじっと耐えていたんだった。

 タケルはあたしの右手の甲の上で指でくるくる螺旋を描きながら言う。

「辛くても、話した方がいいんだ。そういう時は。でないといつまでも消化出来ない」

 ・・・・そうなんだ。でも、一応(ま、プラトニックなので、一応)現在の恋人に、過去の男のこと話してどうするよ、とも思うんですけど。

「過去は過去でちゃんと処理しないと、次の恋でもやっぱり引きずるもんだ」

「・・・あたし、引きずってる?」

「まあね」

 ・・・え、それは具体的に、一体どのへんで?!と思ったけど、ほら、いいから言ってみろ、と促された。

 ため息をついた。

 そして、仕方ないから話し出した。

 だってこういう時のタケルはびっくりするくらいに頑固で、譲らないことが判っている。

「・・・大学生の時、バイト先の社員さんを好きになったの」

「うん」

「歳が8個上で、あたしは大好きで夢中になってた。誰かを真剣に好きになったのはそれが初めてで。めちゃくちゃ悩みまくったけど片思いがすごく苦しかったから、思い切って半年後に告白したの。そしたら嬉しそうに照れて、付き合おっか?って向こうから言ってくれた。・・・嬉しくて、信じられなくて、その日は眠れなかった」

 大学生の時、あたしはクリーニング屋でアルバイトをしていた。

 その時30歳だった社員の彼に恋焦がれ、同じバイト先の友達はあんな年上はやめとけばって言ったけど、あたしはどうにも気持ちが抑えられず、好きですと伝えた。

 付き合えることになったその日は、あたしの中で永遠の記念日になるはずだった。

 気持ちのいい風が通る5月の夜、あたしとタケルは小さな縁側で、以前はおばあちゃんが、今はタケルが世話をする植物が揺れるのを眺めていた。

 話す自分の声が遠く聞こえて、幻みたいだとぼんやり思った。どこか現実ではないような、そんなぼうっとした気分だ。

「・・・あの人にないものをあたしが持ってるんだって思ってたの。友達は皆、年上過ぎて難しいんじゃないってあたしに言ったけど、そんなことないって。丁度いいくらいだって。こんなに人を好きになれるんだって自分で驚くくらいだったし、相手がそれに頷いてくれるだなんて考えてもみなかったから、幸せだった。彼が大人だった分、あたしは余計に子供っぽく振舞っていたかも。・・今、考えたら、だけど」

 背中に感じるタケルの温度が気持ちよくて、やっぱりぼんやりとあたしは続ける。

「貰うばかりじゃなくて、何かしらのいい影響を、あたしからも与えてあげられるかと・・・。全部が新鮮で。違う目線で見ている物の見方を教えて貰うのも楽しかったし、一緒に居て安心したしね。だからあたしは・・・」

 言葉がつっかえる。あたしは一度唾を飲み込んで、もう止まらなくなった言葉があふれ出てくるのに任せた。

「・・・あたしは、知らなかった。彼があたしの相手をするのに疲れてたこと」


 思い出す。


 あの夜は彼は休みの日で、大学時代の友人と飲みに行くって言ってたのだった。あたしはバイトが終わった後、いつものように彼の一人暮らしの部屋へと行っていた。そして一人で待っていたのだ。彼の帰りを。

 だけど終電近くなっても彼は帰ってこなくて、待てなかったあたしは迎えにいったんだった。彼のいきつけの飲み屋さんは知っていたから。

 お店は時間も遅いのに繁盛していた。ちょうど会計が混雑し、入口付近は人が沢山いて、あたしの存在は目立たなかったのだろう。誰にも声をかけられることなく入った店の中で、彼と友達の後姿を見つけたのだ。

 ―――――まだ時間、いいのか?彼女が待ってるんじゃないの?えらく年下だったよな、お前の。

 彼の友達がそう言ったのが聞こえて、あたしは声をかけるタイミングを失い、つい、壁の後ろに隠れてしまったのだ。

 自分のことを話してるんだ、そう思ったらどきどきして、あたしはそっと彼らを窺っていた。何て言うかな、彼は。嬉しそうに笑ってくれるかな――――――

 するとカウンターに両腕を置いてその上に顎を埋め、暗い目をして彼が言ったのだ。ぐったりと重く、諦めたような声で。

 ―――――正直、ついて行けないんだ。あの子は若すぎてさ。俺、マジで疲れる・・・。


 立ったままで、気を失うかと思った。

 彼のその目をしっかりと見てしまったから。表情や声やしぐさで、それが冗談ではないと判ってしまったから。

 ―――――若い子が彼女だって自慢してたじゃないか、お前。

 ―――――そりゃ体は若くていいよ。肌はね。でもほら、あっちにはまだ将来の選択肢があったりとか、そういうの、たまにえらく腹が立つんだよな。今は正直、皐月を可愛いとも思わない。ってか、最近ではどうでもいいとすら思うんだ。ずっとまとわりついてきてさ・・・面倒臭いんだよ。

 ―――――じゃあ別れたらいいだろう。

 ―――――泣かれたりすると思うと鬱陶しくて・・・。どうにか自然消滅を狙ってる。だけど鈍いのか、よそよそしくしても気づいてくれないんだよなー・・・。そういえばさ、会社に新卒で去年は言ってきた子が、美人なんだよ。性格もいいって聞くし、ああー、あの子に乗り換えたい・・・。

 あたしはどうにか気付かれずに、その場を逃げ出した。

 帰り道のことはよく覚えてなかった。気がついたら家にいて、お風呂の中で呆然と座り込んでいたのだ。

 手を繋ぐのも、キスも、体を重ねるのも、初体験は全て彼が相手だった。

 あたしは幸せだったけど、相手はちっともそう思ってなかったって、突然知ってしまったのだ。それどころか彼は、別れを願っていたなんて。

「彼が幼いあたしに疲れて友達に愚痴を零していたことなんて、想像もしてなかった。あたしは毎日、いつ死んでもいいって思うほどの幸せを感じてたの。・・・一人で」

 視界がぼやけていた。

「自然消滅を狙ってるなんて気がつかなかった・・・。彼は無口な方だったし、愛想がないのは仕事で疲れてるからだって。あたしがサポートしようなんて・・・ずっと夢中で、楽しくて」

 あたしは当時を振り返る。

 どうして言ってくれなかったのだろう。交際している相手に不満があるならば、それを口にして伝えて欲しかった。だけど彼はそうすることもなく、あたしには何も言わないで心の中で不満を溜めて無関心になり、友達に愚痴を垂れていた。どうでもいい、面倒くさい、彼の言った言葉の一つ一つが体に突き刺さり、そこからじわじわと黒いものが広がっていくようだった。

 完全なあたしの一方通行がハッキリと判って、苦しかったのだ。

 あたしは翌日、学校へ行く前に彼の部屋へ行って、別れを告げた。修羅場を経験する気力はなかったから、愚痴や泣き言は言わないと決めて。あたしは唇をかみ締めてチャイムを押し、彼がドアを開ける前に無邪気な顔を急いで作った。最後まで子供っぽくしようと胸に誓って、ごめんなさい、飽きちゃったの、って言ったのだ。

 あたし、あなたとの関係に飽きちゃったの。って。

 軽く軽く、シャラリと手を振って。

 泣かれたりするのが嫌だと彼が言っていたから。

 彼はしばらく黙ったあと、そうか、それは残念だって言って、頷いた。判った、って。

 そして優しい表情になって言ったのだ。今から学校?コーヒーでも飲む?って。あたしは首を振った。ギリギリで耐えていたから、それ以上は持ちそうもなくて。彼はじゃあなと言ってドアをしめた。その隙間から見えた口元が、嬉しそうに持ち上げられたのが見えたのは嘘だと思いたかった。

 あたしは毎晩一人でくたくたになるまで泣いて、涙が枯れたと思ったころ、そのバイト先を辞めた。

 それ以来、自分の手入れを止めたのだ。

 あの人に抱いた気持ち以上の恋心を持つことなんて、もう絶対ないって思いながら。


 途中から、タケルはあたしの頭を撫でていた。

 髪の毛を指ですき、撫でる。それを黙って繰り返していた。

 風が庭の竜のひげを揺らす。あたしは一粒涙を零す。

 タケルの声が聞こえた。

「出会いは全て縁だ」

 あたしはゆっくりまばたきをして、目頭に溜まった涙を払った。

「・・・・その大人ぶった男とは縁がなかった。多分、タイミングも悪かった。俺とお前は縁があった。だから今一緒にいる。・・・・それだけのこと」

 あたしの涙はやがて乾く。その時、心も軽くなっているんだろう。

 タケルの言うとおりに、感情は吐き出すために口に出すのがいいのかもしれない。だって、今、あたしはえらくスッキリとしている。胸の奥底に閉じ込めていた真っ黒のモヤモヤがこの体から抜け出して、夜空に舞い上がっていくようだった。

 それは暗い夜の空に溶け込んで、やがて見えなくなるはずだ。

 そしてあたしの心も体も綺麗になる。

 鼻をぐずぐず言わせながらだったけれど、あたしは小さく笑顔になった。


 頭をよしよしと撫でる、この感触も、記憶しよう。


 あたしの体の一つ一つで、タケルの存在を記憶しよう。


 タケルの言う通り、二人は、縁があって出会ったのだから。





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