1、瞼の裏の人

 新緑が風に吹かれている。世間では、もうゴールデンウィークだ。

 タケルと同居して、そろそろ一ヶ月経つ。

 最近ではおばあちゃんの魔法は永遠なんじゃないかと期待してしまう自分がいて、その願いを打ち消すのに必死になっていた。

 毎日はするすると甘く軽やかに続いていって、あたしは背中に感じる彼の体温を記憶した。

 庭と呼ぶには小さな空間で、おばあちゃんが愛して育てた植物たちは今ではタケルが世話をしている。

 今日も彼はお日様の下でホースを握り、空中に水を撒いてそこら辺に光りのプリズムを作り出していた。たまに虹が出来たと言ってはあたしを呼ぶ。黒髪と茶色の瞳をキラキラさせて、嬉しそうに一人で水と遊んでいた。

 何かのプロモーションビデオみたいだなあ〜とぼんやり眺めていた。ほら、男性アイドルの、ミュージックビデオみたい。ここにカメラがあれば、つい撮影したくなるような綺麗な光景だった。

「さて、と」

 声を出してあたしは立ち上がり、鞄を持った。いつまでも一人で水遊びをするタケルを眺めていたいけれど、そうもいかない。あたしはサンダルに足を突っ込みながら、玄関から庭の方へ顔を突き出して言った。

「そろそろあたしは出かけマース。帰り、電話するから買い物待ち合わせない?」

 それでいいよーって声が聞こえたから、じゃあそれでー、と叫び返して歩き出す。天気が良くて空は晴れ上がり、気温が高くなりそうな日だった。

 今日は幼馴染の眞子に会う。

 おばあちゃんの遺産の使い方をどうしようかと悩んでいて、そういえばと思いついたのだ。眞子の彼氏は確か保険屋さん。貯蓄商品だってたくさんあるんだろうと思って。

 貰った現金は銀行に入れておいても大して増えないし、どうせ同じことをするなら誰かが喜んでくれた方があたしも嬉しい。それで保険契約が眞子の彼氏の成績になるんなら、と思ったのだ。

 眞子は小学校の時からの友達で、この家にも何度も遊びにきたことがある。おばあちゃんと一緒に3人で人形ゴッコもよくしたものだ。彼女はおばあちゃんが亡くなる前に病院にも見舞いに来てくれて、その時に新しい彼氏のノロケ話をたくさん聞いていた。

 現実の男に興味も関心もなかったあたしは頬杖をついてそれを聞いていたが、おばあちゃんの容態に暗くなっていたあたしに、眞子の嬉しそうな笑顔は元気をくれたのだ。

 散々格好いいんだって言ってたから、一度見てみたいのもある。眞子は昔から面食いだったから、あの興奮度合いではかなり期待が出来そうー、だなんて歩きながら一人でニヤニヤする。

 本当は、約束した時にあたしの家まで二人で来てくれると言っていたのだ。だけどあたしはタケルを現実の友達や家族に会わせたくなかった。

 自分の中では納得していても、やはり彼がいつか消えてしまうだろうってことに怯えている。現実の友達に会わせてしまえば、現実世界との常識の間で二人とも苦しむかもしれない。戸籍もなく、仕事もしていないタケルは。

 それを真正面から見る勇気はなかった。

 だから、こっちから駅前まで行くよーって言ったのだ。


 ぽかぽかと温かい太陽に涼しい風が時折吹く気持ちのいい日で、祝日だけあって駅前は人出も多かった。

 ひさしを出して外でお茶が出来るようになっているカフェのベランダのテーブルで、眞子とその彼氏を発見した。

「ハロー、眞子〜」

 あたしが手を振って近づくと、スーツ姿の彼氏と眞子が立ち上がった。彼女はカッと目を見開いて、上から下まであたしをガン見した。

「えーっ!!皐月〜!?本当に皐月なの〜っ!?何だ何だ?いきなり垢抜けて綺麗になっちゃってー!」

 眞子が黄色い声でそう言いながらあたしに手を伸ばすと、隣でニコニコしながら爽やかな笑顔を浮かべた彼氏が頭を下げた。

「こんにちは」

 あたしも笑顔で会釈を返す。

「こんにちは、初めまして。渡辺皐月と言います。今日は宜しくお願いします」

「青山です。こちらこそ、わざわざお声かけして頂いたそうで、ありがとうございます」

 ・・・ふむ。確かにレベルの高い外見だわ、この兄ちゃん。

 彼の隣でどうよどうよって顔をしている眞子に、あたしはこっそりと頷いてみせる。爽やか、童顔で大きなくりくりした目は可愛い。だけど背丈はあるし、スポーツでもやっているのか引き締まった体つきなのがスーツの上からでもわかる。そのギャップが魅力的だった。

 一目で、眞子のタイプの顔だ、と思ってちょっと面白かった。彼女の過去の歴代彼氏を知っているだけに。

 あたしはカップルの前に座り、アイスティーを注文する。

 青山さんから頂いた名刺はテーブルの端に置いた。

「えーっと・・・先に説明を聞いてもいいですか?あたしはあまり頭が良くないので、簡単にポイントだけお願いします」

 あたしの言葉に眞子が笑って、それを、こら、って小さく叱った彼が可愛かった。青山さんはあたしのアイスティーが来るのを待って、鞄から書類を取り出す。

「では、いくつか商品用意しましたので、説明させて頂きますね」

 それまで全く金融商品に興味がなかったあたしは、基本的なこともよく知らない。だけど青山さんはあたしの表情を良く見ていて、判ってなさそうだと思ったら更に噛み砕いて説明してくれたようだった。

 優しい人なんだなと思った。まあ、そりゃあ勿論、彼女の友達だってのもあるだろうけれど。そもそもあたしは営業さんて人種とあまり縁はないわけだし比べようもないのだ。でもこんなに丁寧な説明を受けられるとは思ってなかった。

「貯蓄商品って、たくさんあるんですねえ・・・」

 ついそう呟くと、眞子がそうそうと身を乗り出す。

「あたしも最近まで知らなかったんだよね〜!だけど彼のお陰で知識が増えたわー!」

 でさ、聞いてよ皐月、この前ね〜、と違う話題を出しそうになった眞子の手を、彼がぽんぽんと優しく叩く。彼女はパッと手を口にあてて、それからぺろっと舌を出した。

 1時間くらいあーでもないこーでもないと話し合って、アドバイスを貰い、一先ず商品を決めたところで全員で息をついた。

「・・・では、改めて契約書を作って来ますね。ご都合はいつが宜しいですか?」

 あたしは首をかしげて空中を睨んだ。

「・・・定職があるわけじゃないし、大体暇なんですけど・・・うーん、でもそろそろおばあちゃんの49日があるし、土日は判らないかなあ〜・・・」

「あ、もう49日か。早いね。そうか、あの時まだ桜があったもんね」

 眞子の言葉にハッとした。

 ・・・・おばあちゃんの49日・・・。

 何かが頭の片隅で主張している。あたしはテーブルの上のグラスから落ちた水の玉を見詰めながら、呟く。

「・・・じゃあ、来週の水曜日でお願いします」

 はい、ではそれで、と青山さんが手帳に書き込む。・・・49日?さっき、何かが・・・。あたしがぼーっとして思考の世界に入り込みそうになった時、はしゃぐ眞子の声が耳の中へ入って来た。

「ね、ね、皐月!ところで、何でいきなりそんな女の子になってるのよ〜!いい美容院見つけたの?髪だけじゃないよね、変えたの。眉毛も触ってるでしょ?あの、トータルケアしてくれるサロンとかそんなところに行った?」

 身を乗り出して目を見開いて聞いてくるのに、あたしは笑って首を振る。

「あははは、違う。これは・・・えーっと、友達にして貰ったの。うまいよね。ビックリしたもん、鏡見た時。あたし、そんなに変わったかなあ?」

 眞子はぶんぶんと首を縦に振った。

「とっても綺麗になったよ〜!その友達、紹介してほしい〜!」

 心底羨ましそうな声でそう言った後、眞子は急にニヤニヤした表情に変わる。

「だけどさ、いくら腕のいい友達でも美容師でも色気までは出せないでしょ。だからもうこれしかないじゃんー!皐月ってば、恋しちゃってるでしょ〜!」

 眞子の言葉が、頭の中でぐるぐる回った。

 ・・・恋。

 風を真正面から顔に受けて、あたしは一瞬目を瞑る。瞼の裏に見えるのはタケルの姿だけ。意地悪なことを言いながら、抱きしめてくれる彼の笑顔だけ。

「・・・うん。好きな人が出来たのよ」

 素直に頷いたら、眞子は一瞬呆気に取られた。口をあけっぱなしにしてじいっとこちらを見詰めてくる。あたしは今までそんな殊勝なタイプじゃなかったらしい。

「・・・おおお〜!!!」

 椅子から立ち上がって、眞子はえらく興奮したままであたしの手を握りぶんぶんと振った。

「よかったよかった!それは素敵よ〜!!漫画の男にしか興味なかったあんたが、遂に、つーいーにー!現実世界に戻ってきたのね!」

 ・・・いえ、相手は相変わらずその漫画の男性なんですが。

 あたしはただ曖昧に微笑むだけにする。

 それまで黙ってやりとりを聞いていた青山さんが、眞子の方を向いて言った。

「漫画?・・・漫画の男が好きなのはダメなのか?」

「漫画の男とはデート出来ないでしょ」

 当然でしょうが、と続けて言って、腰に手を当てながら眞子が言う。

「それは皆判ってるだろ?だけど憧れるってことはある」

「憧れレベルで済まないのがオタクなのよ!漫画の男とレストランで食事は出来ないし、そもそも会話も出来ない。なのに現実の男よりもそっちがいいって、この子は実際に言ってたのよ!それが今や、現実の生きた男に焦点があったってことよ〜!これは奇跡だわ〜!」

 あたしは青山さんと目が会い、何となく二人で苦笑した。

 あら・・。この青山さんて人、何かあたしと同じ匂いがするわ。もしかしたらこの人も、幻想世界に憧れでも持っているのかしらね。まあ、眞子がとても現実的な女の子なので、それくらいのほうがつりあいが取れていいのかもね、などとこっそりと考える。

 あたしはアイスティーを飲み干してグラスを置いた。

「あれ、その指どうしたの?どっかで挟んだ?」

 眞子が気付いて、あたしの左手の人差し指を見詰める。

 包帯が巻いてあるあたしの指先。包帯は時々替えているけど、薄汚れてきていた。タケルと過ごした時間を表してるみたいだった。

「あ、これは・・・怪我じゃないの。おまじない」

「は?」
 
 小学生みたいな事言うわね、一体何のおまじない?って眞子が聞くのに、あたしは答えるのが遅れてしまった。

 じっと見ていた。包帯を巻かれた人差し指を。

「・・・・好きな人と結ばれますように、って」

 あたしの返事を聞いて眞子は黙る。そして静かに笑った。

「願いが叶うといいね」

「うん」

 家で待つタケルのことを思い出す。今彼は、何をしているのだろう。

「じゃあ、あたしはこれで。また水曜日、宜しくお願いいたします」

 あたしが鞄を持って立ち上がると、二人も立って、口々にお礼を言う。眞子がにっこりと笑って手を振る。あたしもそれに振り返して、店を出た。

 タケルが家に来てから久しぶりに履くようになったヒールで音を立てて、あたしは5月の町を歩く。

 頭の中では同じ言葉が回っていた。

 おばあちゃんの49日。

 おばあちゃんの49日。

 49日・・・。

 ・・・・もしかしたら・・・・・。

 目頭が熱くなった。だけど、あたしはそれに気がつかないふりをした。


 おばあちゃんの、魔法は―――――――




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