A
あたしはびっくりして動けない。タケルは爆弾発言をしたとは思えないほど普通に、あたしの手で包丁を持ち直してまたにんじんを切り出した。
トン、トン、トン。
「・・・台所でやったことある?」
カッと全身が熱くなった。頭がくらくらする。
・・・何てこと聞くのよ〜!!心の中で叫んだ。あるわけないじゃん!あたしに、そんな経験が!!
等間隔で切られていくにんじんの鮮やかなオレンジ色から目が離せない。
トン、トン、トン・・・
「後ろからってのがいいな。サツキは料理してくれてたらいいから。服も脱がなくていい。必要なとこだけ俺が脱がすから。そしたら――――――」
細部まで想像してしまった。
あたしは真っ赤になったまま、思わず小さく息を吐いた。体が小さく震えてしまう。
輪切りにしたにんじんを重ねて置き、いちょう切りにしながらタケルは耳元で笑った。
「・・・何だよ、俺まだ何もしてないぞ」
「・・・みっ・・・」
あたしは何とか言葉を押し出す。声が震えてないのが不思議なくらいだった。
頭はくらくらで、手も足も力が入らず体はシンクにもたれかかっていたし、包丁を握る手は完全にふにゃふにゃだった。顔は絶対真っ赤になっているはずだ。
「・・・耳元で、そんな話するのやめてよ」
「話はなしで具体的に行動しろってこと?」
「違う!」
くっくっく・・・、と口の中でタケルが笑う。耳に息がかかるたびにあたしは震える。ぶわああ〜っと体温が上昇したのが判った。
「ほら、ちゃんと包丁持てよ。全然力が入ってない。その内指切るぞ。お前、ご飯作る気あるの?」
「だだだっ!誰かさんが邪魔してるんでしょ〜!」
もう、いっそのこと殺して。あたしはどうしたらいいんだあああ〜!!
体は十分熱くなってるけど、まさかそのように行動してください、とは言えない。いつもは出てこない恋愛ホルモンか何かがドバドバと溢れ出てきたようだった。あたしは落ち着こうと深呼吸をする。だってタケルが言葉で遊んでることはハッキリしている。これはいつものからかいなのだ!落ち着け、あたし〜!
タケルは微かに笑いを滲ませながらなおも言う。
「邪魔とは心外な。・・・こんな誘い方は嫌い?」
「きっ・・・嫌い、とか、そんなことではなくて・・・」
「ってことはいいんだ?」
「違っ・・・」
パニくったあたしが辛抱堪らず振り向こうとすると、包丁を持つあたしの右手を掴む力を強くして、彼はまた耳元で囁いた。
「――――――指、切るぞ」
あたしは真っ赤になったままでまた前を向く。
悔しい。遊ばれ過ぎだよ、あたし。いくらなんでも。涙まで浮かんできそうだった。もやもやしたものが胸の中一杯に広がって、じわじわと喉元を締め付けてくる。
「―――――――・・・そんなこと言っても、手は出さないくせにっ」
悔しさに力を借りて、ついにそう言った。
・・・トン。
今度はあたしが原因ではなく、包丁が止まる。
同時に、その場の空気も止まった。
あたしを後ろから包んだままで、両手の動きを止めてタケルは静止してしまった。耳の横辺りにある彼の表情は見えないし、あたしは瞬時に不安になる。
・・・え・・・?何だろう・・。あたし、何か悪いこと言ったかな?からかいに対する反応だったのに。いつもはすぐにまた言葉を返してくるのに―――――――
心臓がドキドキする。さっきまでとは違うドキドキに、冷や汗まで出てくる。
タケル、どうしたの。だけど言葉は出てこない。
あたしは緊張して、体を強張らせた。
何だろう、どうしたんだろう、一体―――――――――――
「・・・悪い」
「えっ?」
耳元で呟く微かな声に、思わず振り返る。
タケルはあたしからそっと離れて、後ろに下がった。
外はもう暗くなっていて、流しの上の小さな電灯だけでは手元は見えても彼の表情までは見えなかった。
「・・・まだ、無理なんだ」
彼の呟くような声が届いた。あたしはじっと離れてしまったタケルを見詰める。
「・・・まだ。・・・この体では」
タケルの手の支えがなくなって不安定になった包丁が、あたしの手から離れてまな板の上に落ちて横たわる。
「・・・タケル・・・?」
あたしは訳が判らずに、不安に怯える。
「何を言ってるの?」
影で表情が見えなかったタケルが、くるりと背を向け台所の入口まで歩いて行って、部屋の電気をつけた。
パッと部屋に光りが溢れ、その眩しさに一瞬目を細める。
タケルはもういつもの表情で笑っていた。
「やっぱり仕事は分担しようぜ。俺は風呂の準備をして、廊下の端の電球換えてくる。ご飯、頼む」
あたしがうんとも何とも言えない内に、タケルはドアを開けて行ってしまった。
後には、まな板の上で散らばるにんじんと包丁、そして呆然とするあたしだけ。
ゆっくりとシンクに向き直る。
・・・・えーっと・・・・。
えーっと??
あたしは今何が起きたのかが理解出来ない。
うん?きわどい話をして、からかわれて、やり返したら、タケルは消えた。
・・・まだ、無理って。
包丁を拾い上げて、残りのにんじんを切る。ジャガイモを洗って皮を向く。糸こんにゃくと玉葱を用意して――――――――
淡々と食事の準備をした。
廊下からは電球を替える音がしていた。パタパタと彼が動く足音。あたしは廊下の方を見ずに、忙しく手を動かす。
鍋がぐつぐつ音を出し、炊飯器が湯気を上げる頃、あたしはやっと判った。
あたしを抱けない。彼が、それを辛く思って苦しんでいるってことが。抱きたいけど抱けない、今はまだ、そう言ったのだろうってことが。
だからって、あたしはどうにも出来ない。だってそれは彼の問題なのだろうから。あたしが今まで何も言わなかったから楽しそうにからかっていたけれど、ついさっき、その問題が表に出てしまったのだ。
何故なのか、判らない。だけどそれを話す気は彼にはないらしい―――――――
あたしはゆっくりと深呼吸をして、暗い窓の外を見詰める。
・・・・・だからって、変わらない。
大切に想ってくれてるのは伝わっている。あたしは毎日彼が好きになる。どんどんどんどん気持ちは甘く、全てが綺麗なピンク色に染まっていく。
それに感謝している。
タケルが戻ってきて、テーブルの用意をしだした。
その音を背中に聞きながら、あたしは敢えて鼻歌を歌って、空気を和らげる努力をした。苦しみや困惑を隠して普通に過ごそうとしているのだろう彼の努力に応えるために。あたしだってそんなことくらいは出来る。
あたしは更に、この人に恋をするんだ。
普通の恋人達がすることは出来ないかもしれないけれど、それでもいい。あたしには、今の状態が既に素晴らしい贈り物だと思えるのだから。
それは水を飲むみたいに、当たり前のことに思えた。
「さ、ご飯しよっか」
あたしがそう言うと、タケルはいつもの笑顔で頷いた。
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